6.



雨音が、まばらになってきた。
時々聞こえていた雷の音も、もう聞こえない。

トクン…トクン…トクン…
代わりに聞こえるのは、規則正しい心臓の音。
強く押し付けられた、清四郎の身体から聞こえる音。

トクン…トクン…トクン…
ずっと昔から知っていたような、この響き。
包み込まれるような暖かさを感じ、あたいはじっと目を閉じていた。
身体の力が抜けていく。
崩れ落ちそうなあたいの体を、清四郎がぐっと抱き寄せた。


ずっと、こうして抱きしめて欲しかった―――





*****






雨に濡れた服と身体を何とかしようと、あたいたちは一軒のホテルに足を運んだ。
ここへ来るまでも、部屋へと向かうエレベーターの中でも、清四郎の腕はずっとあたいの肩を抱いていた。


シティ・ホテルの一室。
あたいは部屋の壁一面の大きな窓から、外の夜景を眺めていた。
雨が上がった後の空気は澄んで、遠くの明かりまでが見渡せた。


「悠理、シャワーを浴びた方がいい」
清四郎の声が、背後から聞こえる。「身体が冷えてしまうから」と。
振り返ると、清四郎が脱いだジャケットをハンガーに掛け、空調の前に吊っていた。
濡れて身体に張り付いたセーター越しに、鍛え上げられた筋肉が動くのがわかる。
清四郎があたいの視線に気付き、「早く」と促した。
あたいは黙って頷き、バスルームに入った。


大理石でまとめられた広いバスルーム。
シャワーで髪と身体を洗い、バスタブに湯を溜めて身体を浸す。
温かい…。ほぉっ、と溜息が出た。
ふと見ると、バスタブの縁にはキューブ型の入浴剤も置いてある。
手にとってポトン、と湯に落とすと、細かな泡と共に薔薇の香りが広がった。

ゆっくりと目を閉じ、手足を伸ばす。
さっき清四郎に抱きしめられ、耳元で囁かれた言葉を思い出す。

「好きだ」


清四郎は、そう言った。

「好きだ」と。


幸福感が、身体を満たした。




バスローブを着てドアを開けると、清四郎がベッドに腰掛けて所在無げにテレビを見ていた。
セーターも脱いでしまって、肩にタオルを掛けている。
ドアの開く音に気付いたのか、あたいのほうに顔を向けると、「僕もシャワーを浴びてきます」といって、バスルームに入っていった。

すれ違うまでに、逞しい胸筋と割れた腹筋が垣間見え、あたいは少し息を呑んだ。
今までにも、水着姿などは見慣れていたのに。


ドキドキする胸を静めたくて、部屋の中を見回す。
テレビ、ベッド、冷蔵庫。棚の上には、コーヒーセット。そうだ、コーヒーを入れよう。
電気製のポットで湯を沸かし、コーヒーを入れる。
清四郎は、いつもブラックだ。


ドアの開く気配がして、石鹸の香りが漂った。
後ろから、清四郎が歩いてくる気配。肩に、手が置かれる。
「コーヒーを入れてくれたんですか?ありがとう」
「ブラックでよかったよな」
何とか、普通に声が出せた。


清四郎と二人、バスローブ姿で向き合ってコーヒーを飲む。
はっきり言って、信じられないシチュエーションだ。
清四郎は、風呂上りのために前髪が全部下りている。
伏せた目と、下りた前髪の所為かやけに幼く見えて、ちょっと笑った。
手を伸ばして前髪を梳くと、すっと目を上げてあたいの顔を見て微笑んだ。


心臓がまた、うるさく鳴り始める
ホテルの部屋に、二人っきりでこんな姿。
これから何が起こるかなんて、いくら馬鹿なあたいでも想像がつく。
昨日、清四郎から見え見えの口実で誘われた時、ある程度の覚悟は決めていたつもりだったけど…


清四郎が、あたいの顔をじっと見つめている。
カップを持った手が、あたいの身体を越してコトリ、と後ろの棚にカップを置いた。
なんとなく首を曲げてそれを見たあたいの頬に、清四郎の手がかかる。
両頬を挟まれて、清四郎を見上げた。清四郎の顔が、近付いてくる……



キス。
目を閉じて、受け入れた。
ゆっくりと、探るように清四郎の舌が入ってくる。
身体の芯が、ずくん、とした。


「…悠理、好きだ」

鼻が擦れ合うくらいの距離でじっと見つめられ、囁かれた。
「………」
あたいも、って言いたかったけど、清四郎の瞳があんまりにもきれいで、胸が一杯になって言えなかった。
「悠理は?」

「僕のこと、好きですか?」って言いながら、首筋に何回もキスをされて、あたいはもう、崩れ落ちそうになった。



「…好きじゃなかったら、こんなとこまで来ないっ」
口づけが鎖骨まで下りて来た時に、ようやく答えた言葉は、小さな叫び。
「せ、せいしろう…」
清四郎の手がバスローブの襟元にかかり、押し広げようとするのを、あたいは両手で掴んで止めた。
言っておかなきゃいけないことがある。


「あたい…初めて」



清四郎が、弾かれたように顔を上げた。え?と言って、あたいの顔を覗き込む。
「初めてって…何がですか?」
「だ、だから…こういうコト…」
頬が熱くなる。そんな、真剣に聞くことかよっ!
あたいの憤慨を他所に、清四郎は呆然と目を見開いていた。


「なんで…」

「何でって、そーゆーの、ヤだったんだもん。だから…」
重ねて聞いてくる清四郎に、あたいは恥ずかしくて視線を落として答えた。
バスローブの襟元にかかっていた、清四郎の手が離れる…


「悠理が付き合う男は、皆我慢強かったんですね…」
まだ、呆然としたような清四郎の声。
「でも、僕は…」
ふわっ、身体が宙に浮く。
「我慢出来そうにありません」
そっと、ベッドに横たえられた。



「僕はあなたの、すべてが欲しい。今、ここで」
額に、口づけられた。


「抱いてもいいか?悠理」


情熱を宿した黒い瞳に、引き込まれそうな気がして頷いた。


目を閉じると、キスの雨が降ってきた―――





****






ホテルの部屋は静かだ。

隣の部屋の声も、廊下の物音も聞こえない。
あたいはベッドに寝転んだまま、じっと部屋の扉を眺め、耳を済ませていた。
さっきまで、自分が上げていた声のことを思い出し、頬が熱くなる。
隣に聞こえていなかっただろうか?外に、漏れていなかっただろうか?


「…何、考えているんです?」
襟足に軽く口づけられ、ぞくり、とした。
清四郎は、後ろからあたいの身体を抱きしめている。
二人とも、何も着ていない。ただ、一枚のシーツにくるまっているだけ。


黙っていたら、肩を掴まれてころん、と仰向けに返された。
清四郎はベッドに肘をつき、そこに頭を乗せてあたいを見下ろす。
すごく優しい瞳で見つめられて、また胸がドキドキしてくる。


「ねぇ、いつからあたいのこと、好きだったの?」
何か言わなきゃ、と思って聞いてみる。
あたいを抱いている時、清四郎は「ずっと好きだった」って言った。それは、いつから?


「気付いたのは、3年前です。あなたに恋人が出来た、と聞いたときにね」
返ってきた言葉に驚く。3年前って…あたいが大学の同じ学部の奴と付き合い始めたとき?


「でも、気付いていなかっただけで、本当はもっとずっと前からあなたのことが好きだった。あの、秋の日の…」
「秋の日?」

「ほら、あなたと二人で出かけたことがあったでしょう?あの時…」


ああ。
あたいの中で、思い出が広がった。
無邪気にじゃれあっていた、あの頃の記憶。


「あの時、初めてあなたのことを愛しいと思ったのに、自分の中でその感情がなんなのか、わからなかったんです。馬鹿ですね…」
二人揃って、苦笑した。
「ほんと。お前まで馬鹿でどうすんだよ。もっと早くに言ってくれてたら、あたいだって…」
「他の男と、付き合ったりしなかった?」
「……」


ずきん。重い音を立てて、胸が痛んだ。
「悠理…」
清四郎からそらしたあたいの顔を、清四郎の手が自分に向ける。
「僕のものになってくれますか?」


頷いた。

胸の痛みは、そのままに。


「僕の…僕だけのものになってください」


強い手が、あたいの身体を抱きしめた。



 




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