5.
それは、ひとつの賭けだった。
トゥルルル…… 『ハイ、もしもーし』 「悠理?清四郎です。この間はどうも」 『ううん。あたいこそ、ご馳走になっちゃって悪かったな。どーしたの?』 「いえ、魅録からこの間の写真が届いているんですが、お前のことだ、どうせプリントアウトとか出来てないでしょう?この間付き合ってもらったお礼に、プリントアウトしておきましたので、それを渡したいんですが…」
見え見えの、口実だ。 いかに悠理だとて、写真のプリントアウトくらい出来るだろう。 だが……
『ほんと?よかった、あたいそーいうの苦手でさ〜。どこで会う?』
悠理は、話に乗ってきた。
「では、この間お茶をした店でどうです?明日の…、5時くらいに」 『いいよ、わかった。じゃあ、5時な』
ピッ、と携帯を切ると、僕は思わず大きく息を吐き出した。 椅子の背もたれにもたれかかり、宙を見上げる。 第一段階はクリア、だ。 悠理は僕の誘いに応じた。
わかりやすい口実で悠理を誘ったのは、それで彼女の気持ちを推し量りたいと思ったから。 彼女が乗ってこなければ、諦めようと思っていた。 我ながら、姑息な手を使うものだと思うが。
椅子を回し、机の上のパソコン画面を見つめた。 笑っている悠理と、自分が並んで写っている。 この笑顔を、僕の、僕だけのものにしたい。
それは、切ないほどに強い欲望だった。
*****
翌日、僕は先日悠理が選んでくれた黒いタートルのセーターに、ベージュのズボンとジャケットを合わせて家を出た。 大学を早めに出て、待ち合わせたカフェに向かう。 秋の夕暮れ、風は冷たくて少し湿気を含んでいるようだ。 振り仰ぐと、ビルの谷間から見える高い空の一角に、黒い雲が固まっている。 「一雨、来ますかね?」 呟いて、カフェの中へ足を踏み入れた。
「清四郎!」 呼びかけられて、はっとする。 驚いたことに、悠理は先に来て待っていたようだ。 カフェの通りに面した席で、悠理が手を振っていた。
淡くルージュの引かれた口元から、白い歯が零れているさまに、思わず見惚れた。 相変わらずの、天真爛漫な極上の笑顔。 僕は早足で彼女に向かう。自然に、笑みが零れていた。
「早かったんですね、悠理。待たせてしまいましたか?」 声を掛けながら、椅子を引いて悠理の向かいに座った。 「んーん。あたいもさっき来たとこ」 そう答える悠理の前には、紅茶と大きなパフェの空になったグラスがある。 「さっき来たとこ…ですか?」 「おう!美味かったから、ソッコーで食っちゃったんだ〜」 僕の視線の意味を悟り、悠理が慌てて言い訳をする。
「お待たせしました」 ウェイトレスがやってきて、僕の前に水のグラスとメニューを、悠理の前にはケーキの盛り合わせを置いた。 肩が震える。相変わらず、嘘を吐くのが下手な悠理がかわいくて。 僕より先に来て、待っていてくれた悠理が愛しくて。 「笑うなぁ〜!」 悠理が真っ赤になって、叫んだ。
「あ〜、これ美童ヘンな顔〜」 幸せそうに片手でケーキを口に運びながら、もう片方の手で悠理は次々と写真を手に取り見ていく。 僕はコーヒーを飲みながら、そんな彼女を見つめていた。 僕の口元は、緩みっぱなし。 悠理といると、僕はいつも笑っていられる。 学生時代から、ずっとそうだった。
ふと、悠理のケーキを口に運ぶ手が止まった。 手にした一枚の写真を見つめた、その口元が微笑んでいる。 僕は、身を乗り出して彼女の手にある写真を覗き込んだ。
それは、この間から僕がずっと眺めていた写真。 カメラに向かって、笑顔でグラスを掲げる悠理と、その隣に立つ僕。 視線を上げると、悠理と目が合った。
「…気に入りましたか?この写真」 「うん……」 「引き伸ばしてあげましょうか?……彼氏が気を悪くしないのなら」 「………」
沈黙が降りた。 悠理の瞳が、揺らいでいる。 余計なことを言ったと、後悔した。
軽く唇を噛み、僕は椅子に腰を下ろす。 テーブルの上の、食べかけのケーキはあと一口分。 「ケーキ…」 「え?」 「食べてしまって下さい。…どこかに行きましょう」
悠理の手を引いて、僕はカフェを出た。 どこに行こうかなんて、考えはつかなかった。 ただ、二人でいられる場所に行きたいと思った。 抑えきれない思いを、伝えることが出来るところに……
「ちょっ、清四郎!」 押し寄せる人の間を縫うように早足で歩く僕に、悠理が戸惑った声を上げる。 僕は歩みを止め、悠理に向き直る。掴んだ手は、離さないまま。 家路を急ぐ人々が、僕らの横を通り過ぎる。空は暗さを増し、遠雷の音が聞こえる。 「どこ、行くんだ?」
僕は無言で悠理を見つめた。 剣菱邸で再会した時よりも、少し伸びた髪がふわふわと揺れている。 オフホワイトのタートルニットは、先日僕と買い物をした時に購入したものだ。 「お前がさっき買ったのと、似てるな」と言って。
その服を今日着て来てくれたことに、僕は賭けようと思った。 気持ちを、伝えたい。 どんな言葉が返ってこようと、僕はそれを受け止める。
「悠……」
ザァッ……
突然の、スコール。 土砂降りの雨が、僕の言葉をかき消した。 驚いたように空を見上げる悠理の手を引き、僕は雨宿りのできる場所を探した。 ビル街では、雨を避けることが出来るひさしは少ない。 ようやく閉店後の銀行の裏入り口にひさしを見つけ、僕は悠理の身体を押し込んだ。
地面に音を立てて跳ね返る雨が、二人の身体を打つ。 悠理が濡れないように、自分の身体でかばうように立つと、自然と身体が密着した。 悠理は、僕の胸に拳を当てて身を硬くしている。 華奢な、その身体。
心臓の鼓動がうるさい。 雨音よりも大きいのではないかと思えるほどに。
息が詰まりそうな時が流れる。 悠理が、僕を見上げた。 色の薄い、ネコのような大きな瞳で。 「せい、しろ…」 鳴くような声で名を呼ばれ、僕の思いは溢れ出す。
腕を彼女の腰に回し、引き寄せた。 唇を、悠理のそれに押し付ける。 二度、小さく動かした唇を離そうとした時、悠理の腕が僕の首に絡んだ。 思わず見開いた目に、瞳を閉じた悠理の顔が映る。 長いまつげが、揺れていた。
もう一度、唇を押し付ける。 すぐに、悠理が応えてくる。 強く抱き合い、お互いの唇を貪りあった。 悠理の瞳から、涙が溢れる。
土砂降りの雨音さえも、もう聞こえない。 長い口づけに、悠理の身体は力を無くし、今にも崩れ落ちそうだ。 合わせた唇を離し、さらに強く抱き寄せた。
「好きだ…」
悠理の耳元で囁いた言葉は、ひどく掠れていた。
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