7.
家に戻ると、あたいはメイドにコーヒーを頼んで部屋に入った。 部屋のソファに座り、脇に放り出してあった雑誌をぱらぱらとめくる。 コーヒーが運ばれてきた。あたいはいつものように砂糖とミルクを入れようとして、止めた。
ブラックのまま、一口飲む。 砂糖とミルクの甘みのない、素のままのコーヒーはやっぱり苦い。 結局、一口飲んだだけでいつものように砂糖とミルクを入れた。
清四郎は、高校生の頃からいつもコーヒーはブラックだった。 あの頃から、あたいを好きでいてくれたんだな…そう思うと、自然と笑みが零れる。
ぎゅっと、両手で自分の体を抱いた。 ほんの一時間ほど前まで、この身体は清四郎に抱かれていたんだ。 清四郎の優しい唇を思い出すと、頬が、身体が熱くなる。 何度も囁かれた「好きだ」という言葉。
すごいな。 あたい、清四郎に好かれてんだぞ。 ペットとかオモチャとかじゃなく、一人の女として。
♪〜 携帯のメロディが鳴った。 さっきベッドの中で、二人で設定した曲。 清四郎が、好きだという曲。 清四郎からの、電話だ。 あたいは心の底から幸せな気持ちで、携帯の通話ボタンを押した。
*****
家に戻り、風呂から上がって部屋に入ると、僕はタオルで髪を拭きながら携帯を手に取った。 さっき別れたばかりなのに、もう声が聞きたい。 どうかしていると自分でもおかしく思いつつ、壁の時計を見上げてから、悠理のナンバーを押す。
トゥルル…トゥルル… 呼び出し音を聞きながら、馬鹿みたいに心が浮き立つ。 まるで、初恋に浮かれる思春期の少年のようだな。 まぁ、確かに彼女が僕の初恋ではあるのだが。
『もしもし、清四郎?』 3回目のコール音の前に、悠理が出た。 「悠理、まだ起きてましたか?」 『うん、お前は?もう寝るとこ?』 「今、風呂から上がったとこです。悠理は、何してたんです?」 『コーヒー飲んでた』 「ブラックで?」 『んーん、砂糖とミルクたっぷり。…悪いかよ?』
なんということのない会話だ。呆れるほどに。 でも、そんな会話を交わしているだけで、僕の表情は緩む。 ああ…素直に告げてしまおう。
「悠理……好きですよ」 『ばっ!』
電話の向こうで、真っ赤な顔をしているであろう悠理が脳裏に浮かぶ。 僕は、くすくすと笑っていた。
『せいしろ…』 「はい?」 『あたいも……すき』
消え入りそうな声で応えてくれた悠理に、僕は携帯を耳に押し当てたまま破顔した。 愛しさが込み上げる。 抱きしめたい。今すぐ会って抱きしめたい。 甘く、恋人の名を呼びかけた。 「ゆう……」
『圭一?』 「は?」 悠理の言葉に、僕の背筋に冷たいものが走った。 『……ごめん、後でかけ直す』
ツーッ、ツーッ―― 通話が切れた後の無機質な音を聞きながら、僕は身体が凍りつくような感覚を味わっていた。
―――大丈夫、悠理は強い。 自分に言い聞かせる。 悠理は強い。並みの男では悠理には敵わない。 しかし――― 心臓が、早鐘を打つ。 押し寄せてくる、圧倒的な不安。 僕はせかされる様にパジャマを脱ぎ捨て、セーターとズボンに着替えた。 ジャケットを掴むと、階段を駆け下りる。 足音に、母が居間から顔を覗かせた。
「清四郎?」 「ちょっと出かけます。姉貴の車を借りて行きますから!」
玄関の壁に掛けてあるキーを掴み取り、僕はガレージへと駆け出した。 悠理のことが、心配だった。
*****
あたいは左手に携帯電話を持ったまま、部屋の入り口に立つ圭一を見つめていた。 圭一は青ざめて、泣きそうな顔をしている。 胸が痛んだ。慰めたいと思った。 でも、もう、11時を回っている。今日は帰って欲しい。そう、思った。
「圭一…どうしたの?こんな時間に…」
その言葉が合図であったかのように、圭一が真っ直ぐに歩いてきた。あたいに向かって。 あっと思う間もなく、あたいの手から携帯が奪われた。 圭一がディスプレイを確かめる。 着信履歴―――清四郎。 ガッ、と音がして、携帯が床に叩き付けられるのを呆然と見つめた。 無意識に拾おうとする腕を、圭一に掴まれた。 驚くほどの強い力で、腕の中に抱きすくめられる。 嗅ぎ慣れた圭一の匂いがした。
「やっ!」 反射的に、圭一の胸を押す。 圭一が少しよろめいた。腕の間をくぐって、離れた位置に逃げだす。 怒りの為に赤くなった圭一の顔、歪んで、今にも泣き出しそうな。
「こんなのって、ひどいじゃないか!」 怒声が響く。 「君はまだ僕の恋人だ!僕はまだ振られてないぞ!」
胸が痛い。 痛くて痛くてたまらない。――壊れてしまいそうなほど。 「ごめん……」 涙が溢れた。 「ごめん…ごめん…ごめんなさい……」 謝罪の言葉しか出てこない。謝ることしか、できない。
「悠理…嫌だよ……」 圭一があたいに近付く。ぎゅっと抱き寄せられた。 あたいは拳を圭一の胸に当てて、間隔を取るのが精一杯だった。 身体に力が入らない。近付いてくる圭一の顔をぼんやりと見ていた。
キスされた。 唇を強く吸い上げられる。舌が入り込んでくる。 思考が麻痺していた。 唇が、首筋に下りてくる。普段なら、そこで「いや」と言っていた。 圭一は少し悲しそうな顔をしても、それ以上無理強いしようとはしなかった。
圭一がそれを望むなら、任せてしまった方がいいのだろうか? 圭一を裏切ったことへの、代償として?
思考が止まったままに、ベッドに横たえられた。 セーターの襟元が押し広げられる。 ぼんやりと部屋を見渡す目に、テーブルの上の、コーヒーカップが映る―――
「い、いやあっ!」 叫び声を上げて、圭一の身体を撥ね退けた。 嫌、嫌、嫌。ほんの2時間ほど前まで清四郎に抱かれていた体に、他の男が受け入れられるわけがない。 そんなことは、受け容れられない。
「悠理っ!」 低い怒声に、耳を疑った。 聞き違えるはずもない。この声は、清四郎。 「貴様っ!」 次に叫んだのは、圭一だったのか、清四郎だったのか… あたいの目の前に、清四郎に掴みかかろうとする圭一の後姿が見えた。 「やめっ!」 あたいは、必死で叫んだ。
「圭一っ、清四郎に敵う訳がないだろっ!」
びくんっ。 清四郎を殴りつけようとしていた圭一の腕が、宙で止まった。 清四郎は、怒りながらも冷静な目で圭一の動きを見つめている。 「腕力で」清四郎に敵う訳がない。そう言ったつもりだった。 だって、清四郎より強い男なんて見たことがない。 今この状態で、ひどく怒っている清四郎とやり合ったら、圭一はただじゃ済まない。 だから、止めたつもりだった。
ぶらん、と圭一の腕が下に垂れた。 「そうか…そうだよな……」 清四郎の胸倉を掴んでいた手が離れる。 清四郎は、身動ぎもしないで圭一を睨み付けている。その視線の冷たさにぞっとした。
圭一が、あたいを振り返った。切れ長の瞳は、暗い色をしていた。 清四郎に向き直ると、心持ち顔を上げて清四郎に向かい、吐き出すように言葉を投げつけた。 「君に返すよ、あんな女。僕が好きになった悠理じゃない」 清四郎が、不快そうに眉を顰めた。 圭一が、ドアに向かって歩き出す。ゆっくりと。 「さようなら、悠理」 大きな音を立てて、ドアが閉まった。
「悠理」 ベッドの上で四つん這いになったまま、呆然としているあたいに、清四郎が駆け寄ってきた。 「大丈夫か?」 両手であたいの頬を挟んで問いかけると、ベッドに腰掛けながらあたいを抱き寄せた。 清四郎の唇が、あたいの瞼に落ちる。目を閉じてそれを受け止めると、涙が溢れた。
「うっ、うっ……」 唇を噛んでも堪え切れなくて、泣き声が漏れる。 清四郎の胸に引き寄せられた。髪を撫でられる。 「悠理…泣くな」 低くて深い、清四郎の声が聞こえる。 圭一をあんなに傷つけてしまったというのに、清四郎に抱かれて安堵している自分がいる。 そんな自分が、許せない自分も。
「せいしろ、ごめん、ごめん…」 謝りながら、清四郎の胸を押しやった。 「今日は、帰って……」 「悠理…」 あたいを抱く腕を解きながら、清四郎が心配そうにあたいの顔を覗き込んだ。 「後悔、しているんですか?」 後悔?そう、あたいは後悔している。 圭一のことをはっきりさせないまま、清四郎を受け入れたことに。清四郎に、好きだと告げた事に。
「ごめん、帰って…」 涙を拭く気力もないまま、もう一度清四郎に頼んだ。 「……」 長い沈黙。 清四郎は、迷っている。あたいを一人にしておくべきか、どうか? 「…わかりました」 ベッドから立ち上がりながら、清四郎が聞いた。
「悠理。僕達は今日、始まったんですよね?」
大きく息を吸い込んで、目を閉じた。 頷くことも、首を振ることも、あたいには出来なかった。
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