8.
「僕達は今日、始まったんですよね?」
悠理にそう、問いかけた。 あの日、思いは確かに通じ合っていた。僕は、そう確信していた。 けれど悠理からは、その後1ヶ月が過ぎても何の連絡もない。 野梨子から、悠理は百合子おばさんと一緒にヨーロッパに行っているという話を聞いてはいた。 五代に、取り次いでくれるように言付けてはあったが、音沙汰は無いまま。
秋の深まりに合わせるかのように、悠理に向かって深く落ちていった僕の恋。 季節はいつの間にか姿を変え、街角にはクリスマスのイルミネーションが輝く。 色鮮やかな街の装飾を、彼女と二人で眺めたいのに…
ピッ、ピッ… ボタンをでたらめに押しては、クリアキーを押す。 自宅の部屋の、机に向かう椅子に座り、手に持った携帯を弄びながら、僕は物思いに沈んでいた。 この一ヶ月、何度となく悠理に電話をしてみた。ついさっきも、掛けてみた。 ―――着信拒否。 悠理は、僕からの電話には出ない。
あの日。ベッドに押し倒されて、「嫌だ」と叫んでいる悠理を見た時、怒りの余り体中の血が逆流するような感覚を味わった。 悠理は僕のものだ。その悠理に何をしているんだと。 けれど、あの時点では間男は僕の方だったのかもしれない。 そう思うと、なんともいえない寂しさに襲われる。
悠理はまだ、彼に別れを告げていないのだろう。だから、僕からの電話に出てはくれないのだろう。 もう一ヶ月。その時間の長さが、僕に不安を抱かせる。
僕達は、あの日本当に始まったのだろうか?と。
我知らず大きな溜息をつき、机の上のパソコンを眺める。 あの日、悠理が気に入って眺めていたのと同じ、二人で写った写真が表示されている。
あの時、この写真を飽かずに見つめていた悠理の瞳を、僕は信じたい。 僕の抱擁に、応えて絡んできた悠理の腕を、信じたい。 消え入りそうな声で、「好き」といってくれた悠理を、僕は信じる――
悠理からの連絡がないのならば、こちらから強引に押しかけるだけのこと。 ようやくそう決心した僕は、部屋を後にした。
*****
剣菱電気の本社屋に来たのは、高校の時以来だ。 確か、50周年記念のパーティの時に、皆で来たのだった。 あのパーティの時の、派手に装った悠理の姿を思い出して苦笑した。
あの頃、彼女への思いを自覚していたらどうなっていただろう?何の問題も無く、付き合えていただろうか? 婚約騒動の時の、悠理の嫌がり様を思い出す。 あまりにも子供で、あまりにも身勝手だった僕と、恋などとは縁遠い存在だった悠理。 きっと、あの頃に僕たちの気持ちが通じるということは無かっただろう。 通じていたとしても、迷い、傷つけあってしまうだけだったかもしれない。
けれど、今は違う。 僕も悠理も、幾つかの恋を経て成長してきた。 今なら、彼女を包み込んで愛していける。この先もずっと。
受付で、圭一さんの名前を告げる。 ロビーの椅子に腰掛けて待っていると、ほどなくひどく不快そうな表情の彼が表れた。 椅子から立ち上がり、会釈をする。
「…仕事中なんだけどな」 「すみません。どうしてもお会いしてお話がしたかったんですが、ここに来る以外にあなたに会う方法が思いつかなくて」
彼は、外の方にあごをしゃくって見せると先に立って歩き出した。 くすんだブルーの作業着。袖を肘まで捲り上げた姿は、彼が仕事に打ち込んでいる様子を想像させた。
「で?僕に何の用だ?」
会社の横手に、緑に囲まれた小さな広場があった。 おそらく昼休みには、弁当を抱えた女性社員で賑わうのであろう場所に、二人向かい合って立つ。
「悠理とのことであなたときちんと話したいと思ったんです」 「…彼女にはとっくに振られたよ。もう、君のものだろう?」 ぶっきらぼうに、彼は言い返した。そして、ふと寂しげな目になる。
「いや…悠理は最初っから、君のものだったんだよ」
「…始めて会ったときにね、悠理が僕になんて言ったと思う?『お前、清四郎みたいな喋り方すんな』って言ったんだ」 懐かしそうに目を細めて、、彼は話し出した。 「新製品完成披露のパーティでね、豊作さんに彼女を紹介されたんだ。僕は悠理のことを、甘やかされたお嬢さんだろうと思ってたから、かなり不躾な話し方をしていてね、そうしたら…」 くっ、くっと、笑う。 「『お前、清四郎みたいな話し方すんな〜』って、嬉しそうに言うんだよ。誰かって聞いたら。『あたいのダチ。いっつもあたいを馬鹿にして、からかって喜んでんだ』って言うから、てっきり僕は、嫌われたんだと思ったよ」 僕は眉を顰めた。他人に向かって僕のことを話す時、悠理はいつもそんな風に言うのだろうな。 確かに、そう言われても仕方のない扱いしか、高校時代の僕はしてこなかったのだが。 そんな様子の僕をちらり、と見て、彼は話を繋ぐ。
「でもそうじゃなかった。付き合いだしてからも、悠理はよく君のことを口にしたよ。『自意識過剰で、嫌味だけどすごいやつだ』とか、『冷たいようだけど、本当は仲間思いで優しいとこあるんだ』とか…」 今度は彼が、少し眉を顰める。 「聞いているうちにね、ああ、悠理はそいつのことがすごく好きなんだな…って思ったよ。でも、それを言うと、きょとん、とするんだ。いつもね」 そうして、彼はなんとも言えない優しい表情になった。 「自分でも、気付かないくらいの深い思いなんだなぁ…って、思ったよ」 ……僕は、ただじっと黙って彼の話を聞いていた。 同じ、一人の女性を愛した男同士の、静かな共感を持って。
やがて、彼の話は僕と会った時の事に移る。 「君が僕の前に現れた時、負けたな、と思ったよ。持って行かれるな、って」 あの時、僕に対して敵愾心を露にしていた訳がよくわかった。 僕が彼の立場なら、どう思っていただろうか? 「だから、その時点で悠理を自由にするべきだったのに、出来なくて、悪あがきをしたんだ。……好きだったから…」
ちらっと時計を見ると、彼は「もう、戻らないと…」と言った。 そして、僕の目を真っ直ぐに見つめる。 「あの後すぐに、悠理から電話があったよ。ただ、『ごめん』って繰り返してた。泣きながら、ね。だから、もういいって言った。君が好きなのに、僕への情けなんかに囚われる事は無いって…」 「すみません…」 僕の口から出た言葉は、これだけだ。 何と言う、つまらない言葉。 でも彼は、ふと微笑んだ。 「悠理も、普通に女だったんだな」
それはたぶん、正しい。 僕も彼も、心の中で悠理を偶像化していたところがあったのかもしれない。 そのために、僕は気持ちを告げられずに悩み続け、彼は悠理を抱くことも出来ず…
「じゃ、そういうことだから」 きびすを返し、彼は仕事へと戻っていこうとする。 「圭一さん」 僕は、彼の後ろ姿に呼びかけた。 「悠理と再会した時、僕は悠理がとても綺麗になったのに驚いたんです。そして、思ったんですよ…」 彼は一瞬、歩みを止めた。
「悠理は、素敵な人といい恋をしているんだな、と」 圭一さんは、振り返りはしなかった。ただ、片手を挙げて、軽く僕に振って見せた。
去って行く彼の背中に、僕は深く頭を下げた。
*****
冬の日暮れは早い。僕は、悠理の元へと走る。 野梨子に電話をして、悠理は家にいることを確かめてもらった。
悠理はきちんと、圭一さんに別れを告げていた。 ならば僕は、もう何ら迷うことなどありはしない。 悠理に会う。会って抱きしめる。
空気が冷たさを増す冬の夕暮れ。 僕はただ、抱きしめる悠理の温かさを思って走り続けた。 ただ、僕の心が導く方へと。
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