まだ自分で風呂に入ることはできないので、サナトリウムを出る前にスタッフの手を借りて入浴を済ませていた。
 次は明日、サナトリウムに戻ってからシャワーを浴びればよい。

 清四郎がベッドの上でもできる日課のリハビリ運動をしていると、悠理がシャワーを終えて戻ってきた。

「頑張ってんな。やりすぎんなよ。」
 と、水差しの水を飲みながら窓辺のソファに腰掛けた。
 離れているのに、悠理を包む石鹸の爽やかな香が清四郎のもとまで届く。息が止まりそうだ。
「そうですね。悠理も30分しか昼寝してないんじゃ疲れてるでしょ?早いけどもう寝ますか。」
 辛うじていつもの笑顔を見せることが出来た。
 恐らく今夜は眠れないだろう。

 触れたい。
 だけど、怖い。

 まるで初めて男に発情した生娘のような自分に、清四郎は自嘲する。
「あ、なんだよその顔。なに考えてるんだよ。」
 悠理が不機嫌そうに言うので、清四郎ははっとする。
 いつの間にか悠理はベッドの端からこちらへと身を乗り出してきていた。ほとんど鼻先が触れそうな距離。
「なんでもありませんよ。さ、こっちにおいで。」
 悠理は一瞬頬を膨らませたが、清四郎が持ち上げた毛布の中に素直にもぐりこんできた。

 ぱちん、とヘッドボードのライトが消され、夜の帳が落ちてくる。
 同時に息が、苦しくなる。
 すぐ傍らに悠理の甘い吐息。
 腕枕はしてやれぬが、その肩を抱くことは出来る。
 だけど、しない。出来ない。

 ふと、一度瞑ったはずの悠理の目が開いたので、清四郎の心臓がどきり、と音を立て
た。
「悠理?」
 悠理も眠れないのか?
 そうだろう。あの出来事の恐怖は今も消えているはずがないのだから。
「清四郎、あの、ね。」
 と言いかけて、顔を伏せる。清四郎の胸に額をすり、と擦り付ける形になった。
 数瞬言いよどんだ後、悠理は再度口を開いた。
「あのね、ちょうどね、今が一番安定してるんだって。」
 何が?とは聞く必要はない。
 あの出来事から5ヵ月半。あの時芽生えた胎児は悠理の胎内にしっかりしがみついてすくすくと育ち続けている。
 自然流産が一番多いのはやはり妊娠初期。妊娠中期にはほとんどそれはない。
「だから、さ。しよ?」
 そして悠理の手が、清四郎の胸を這った。

 ぞくり。

 全身の毛が逆立つ。
 まさか、彼女から言い出すとは夢にも思わなかったから。
 あの忌まわしい記憶に、どこかで自分と同じように怯えているはずだと思っていたから。
「何を言ってるんですか・・・。そんなこと、できるわけないでしょ・・・?」
 清四郎の声は掠れていた。

 このところ二人が交わす唇には、肉欲が混じることはほとんどなかった。
 愛を交わし、想いを交わす。
 ただ、それだけのためのもの。

 なのにいま彼女が上から覆いかぶさるようにして清四郎に与えるキスは、明らかな肉欲を伴っていた。
 眩暈が、する。

 悠理の舌が清四郎の口内で蠢く。
 同時に彼女の手は、清四郎のシャツ型のパジャマの胸元を開く。
 あの日、彼女に教え込んだ動き。
 男の欲望を煽るための、動き。

 清四郎は震える手を、悠理の肩へと伸ばした。
「ダメだ!悠理!」
 充分に力が入らない手であったが、悠理はその声に気圧されたように体を離した。
 清四郎はそのまま右手で胸を押さえる。薄暗い部屋の中では顔色までは見えないがその胸が大きく上下しているのはわかった。

「清四郎?ごめん、無理させた?」
 悠理が慌てて清四郎の顔を覗き込んだ。
 しばらく二人は無言だった。ゆっくりゆっくり、清四郎の息が整うのを待っていた。
「もう、大丈夫?」
 と問う悠理に、だが清四郎は答えなかった。
 逆に、
「なぜなんです?」

 と問い返す。
「なぜって?なにが?」
「なぜ、こんなことが出来るんです。」

 陵辱だった。無理に彼女に肉欲を教え込んで刻み込んだ。
 屈辱までも強いた。写真をネタに愛を強請った。
 だから追い詰められた彼女は、ナイフを手に取った。ただ、逃げるためだけに。

 なのに、なぜ今また彼と・・・。

 息は整った。だが、まだ清四郎の胸に置かれた手は震えていた。
 悠理はその手をそっと取った。
 びくり、と彼が慄いたが、気にせずにその手を包み込む。
 彼女の手は温かかった。ただ、温かかった。
 今度は彼女の柔らかな唇が触れた。
 そして、温かい雫が彼の手を濡らす。
「ゆう・・・り・・・?」
「あたいも、怖いよ。」
 清四郎の右手を己の頬に当てながら、悠理はそこに顔を預ける。
 涙が幾筋も彼の手を濡らす。
「怖いけど、でもこれは知っててほしいから。」
 清四郎は思わず悠理の頬に当てられた親指を動かして涙を拭う。
「これ、って?」
 自由なほうの左手で悠理の右の頬も拭ってやる。
「ずっと、お前の気持ちにも、あたい自身の気持ちにも気づかなくて、ごめん。」
 悠理はくるり、と体の向きを変えて清四郎に背中を向けた。そうして清四郎の手を振り払うと、枕に顔を埋めた。
 彼女の肩が震えている。
 清四郎は所在を失った手を、シーツの上にぱたん、と落とした。

「悠理自身の、気持ち?」

 なかば呆然とその言葉を唇に乗せる。
 悠理の肩が一瞬ぴくり、とひらめいた。
「お前が、好きだった。自信満々で鬼教師でいけすかない優等生だったけど、でも、いつだって必要なときにはあたいを守ってくれる、そんなお前が好きだった。」

 気づくのが遅くて、ごめん。
 枕に顔を埋めたままのくぐもった声で、告白はなされた。

 清四郎はそのまま悠理の背中を見つめる。
 手の震えは、止まっていた。

「好きだった・・・?」

 僕のことが?
「あん時は気づいてなかった。お前に追い詰められて、悔しくて悔しくて。でも一番悔しかったのはそんなことじゃない。体のことなんかじゃない。」
 くるり、とまた悠理が体を反転させた。今度は清四郎を見つめるように。
 暗闇の中でも、その瞳に映る光はわかった。
「お前が、剣菱を手に入れるために、あんなひどいことをしたって、そう思ったから。」
 そう告げる悠理の美しい顔は、ひどく歪んでいた。
 その時の苦痛を思い出したのだろう。
「だけど、野梨子がお前の日記を持ってきてくれて・・・。」
 それは野梨子自身から清四郎に謝罪されていた。非常事態だったとはいえ、極めてプライベートな記述の日記を野梨子と和子が読んだこと。そして、悠理にそれを読ませたこと。

 確かにそれを知ったときには不快になった。自分のおかしくなりかけていた時の心情を読まれるのは別に構わない。だが、そうして自分の行為を正当化するつもりなど毛頭なかったのだから。

「悠理。訊きたいことがある。」
 低い声音。
「なに?」

 少し彼女の声が揺れる。
「その、僕への感情は、同情とか、憐憫とか、そんなものじゃないのか?」
「れんびん?」
 そうして首をかしげる悠理が、こんな時だがあまりにらしくて、思わず口元がほころびそうになる。
「僕のことを、その、日記を読んで可哀想だと憐れんでいるのじゃないか?」
 悠理が一瞬息を呑んだ。

「可哀想・・・だとは思ってるよ。」

 清四郎はどっと氷水をかけられたような気がした。心臓が鷲掴みにされる。
 覚悟はしていたが、はっきり言われるときつい。

 だが悠理はそんな清四郎の様子にも気づかないのか、続けた。
「だってあたいなんか好きになっちゃって、あげくに気づいてやれなくて。だってあたいは自分の気持ちにも気づかない馬鹿で。」
 先ほどから止まらない涙がまた勢いを増す。
「こんな馬鹿を好きになってそんなにずたぼろになっちまって、お前も馬鹿なんだって思ったら、可哀想で、ますます愛しかった。」
 闇に慣れてきた目に、彼女がにいっと口端を上げるのが見えた。

「愛してる。いつもあたいを守ってくれてたお前だから、今度はあたいが守らなくちゃってそう思ったんだよ。」





イラスト By 千尋さま

 



 温かな彼女の指が清四郎の目じりを拭った。
「馬鹿。なにお前まで泣いてんだよ。」
 涙声の彼女にそう言われて、初めて清四郎は自分も涙を流していることに気がついた。
「本当にお前は馬鹿ですね。」
 清四郎も悠理の頬にまた手を伸ばす。
 互いの涙を拭いあう。
「こんな、男を好きになって、全力でかばって、子供まで・・・。」
 そこで彼の声が詰まる。
「清四郎。」
 彼女が名を呼ぶ。

 初めて出会ったのは5歳のとき。
 だけど、彼女が彼のことを名前で呼ぶようになったのは、15歳のときだった。
 以来、何度呼ばれたろう、その名前。
 あの夜も、何度も呼ばれた。悲痛な声で。
 そして遠い記憶の彼方でも呼ばれていた気がする。優しい声で。
「清四郎。」
 もう一度彼女が呼ぶ。

 唇が、触れ合った。

「悠理。」
「ん?」

「正直、僕は自分が閉じこもっていた間のことはほとんど覚えていません。」
「言ってたな。」
「だけど、この唇は覚えてる気がします。」

 瞬間、悠理の頬が音を立てるような勢いで熱を持った。
 至近に顔を寄せている清四郎にもそれはわかった。
「・・・何度も・・・キスしたもん。」
 蚊の鳴くような声。
 彼に想いを伝えたくて、愛していると伝えたくて、何度も唇を重ねた。
 それは秘密の儀式。
 誰にも、野梨子にも他の仲間にも、和子にも、もちろん豊作にも、当の清四郎にだって教えていない。
「あたい馬鹿だから、他の方法を知らないんだ。」
 だけど、それが最善だと信じて。

「今度はあたいから言うんだって、決めてたんだ。」

 お前が好きだって。愛してるって。

「だから、あたいがお前を抱いてやる。」

 もう、清四郎は拒まなかった。
 記憶の底の唇の感触。
 記憶の底で名前を呼ぶ声。
 それはどちらも、愛しい彼女のものだったのだ。


 

 

 

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Material by 空色地図  さま