彼女はいつの間にこんな静かな笑みを覚えたのだろう?

 自分の忌まわしい罪の記憶が甦ってから、最初に思ったのはそんなこと。
 彼女はなぜ自分を許してくれるのか。なぜ罪の子をその胎内で育ててくれたのか。
 彼の胸の中に去来するのはただただそんな自責の念ばかり。

 だけどそんな昏い想いを一時吹き飛ばしてくれるのは、やはり彼女の笑顔。
 昔と同じ、はち切れんばかりの笑顔だった。

 



『 Pain 』〜赦し編〜
       作:もっぷさま

 

 



 車が緩やかに止まる。さすがプロの運転手だ。
 屋敷からメイドが出てきてトランクから車椅子を出す。悠理も右側のドアから下りて手伝おうとしたようだが、押しとどめられた。
 それはそうだろう。いくら安定期に入ったとはいえ、妊婦が力仕事をするものではない。
 後部座席左側のドアが開けられた。
 清四郎は、
「ありがとう。」
 と笑んで、運転手の立山さんに手を取られて車椅子へと乗り移った。

 リハビリは順調、だ。今日は初めての外泊である。

 この何ヶ月かで、清四郎の鍛え上げられた逞しい肉体は見る影もないほどに痩せてしまっていた。
 人の筋肉は一週間使用しなかっただけで著明に量的にも質的にも衰える。ましてや彼の場合は月の単位である。
 もちろん思うように動かぬ身体にもどかしさがないわけではない。
 だが、これを取り戻すには根気が必要であることもまた、彼は知っていた。
 悠理や理学療法士によるマッサージや他動的運動のおかげで辛うじて筋肉が拘縮することだけは防がれていた。
 とても精神的なものから殻に閉じこもってしまっていたのと同一人物とは思えない強い意志で、清四郎はリハビリを行っていた。

 ここは豊作が用意してくれた別荘だという。
 先日の両家家族との話し合いではあのような結果に終わったものの、豊作や和子が影で援助することは黙認されるらしかった。

 エントランスのスロープを車椅子を押されて上りながら、清四郎はぽつり、と呟いた。
「これは随分大きな借りを作りましたね。」
「なに?なんか言った?清四郎。」
「いえ。次は自分の足でここを登りたいと思っただけですよ。」
 後ろで車椅子を押す立山さんにはしかし、しっかりと聞こえていたようだ。
「あまり焦りなさんな。ねばならない、は禁物ですよ。」
 ゆっくりでもいい、焦らず借りを返せばいいのだ。彼はそう言外に含ませていた。
 どうも清四郎は自分を義務感で追い詰めすぎるきらいがある。それは心療内科の主治医からも言われていることだった。

 発想の転換をなさい、と。
「そう、ですね。子供が生まれるまでには、と思うものですから。」
 清四郎は苦笑する。
「赤ん坊が這って立って歩き出す。それと一緒に進むのもいいものかもしれませんよ。」
 その言葉に清四郎は目を細めた。
「そうですね。それも楽しそうだな。」
 今度は立山さんが苦笑した。清四郎がそこまで待つつもりはないことが、やっぱりわかってしまったから。


 清四郎の部屋は予想を裏切って2階にあった。車椅子ごと乗れるリフトがしつらえられていたのだ。
「ここね、戦前にとある華族の令嬢の療養のために建てられたんだって。だからリフト付。」
 もちろん年代モノのリフトのままでは危険だから、と、ここを買ったときに要所要所は最新式の安全基準を満たしたものに取り替えられていた。ドアと内装だけはもとの令嬢のためのものを残していたが。
 スロープで車椅子を押すことは許されなかったが、平らな場所なら大丈夫、と悠理が車椅子を押しながら家の中を案内する。
 気を使ったのか、他の三人は姿を消していた。
 明るい夏の日差しが差し込むサンルーム。窓を開け放つと高原の爽やかな風が流れ込んでくる。
 テラスからは緑の山々が目を慰めてくれる。その眩しさに清四郎は思わず目を細めた。
 そして最後に案内されたのが───



イラスト by ネコ☆まんまさま



「ここが、あたいたちの寝室だよ。」
 少し照れたような顔をしているのが見ずともわかる。
 サンルームから続き部屋になっている主寝室は、豪奢な天蓋付のベッドが中心にしつらえられていた。
 そしてベッドの脇には、気の早いベビーベッド。
「可憐と野梨子がくれたんだ。まだ早いって言ったんだけど。」
 車椅子をベッドサイドに止めストッパーをかけてから、悠理はベビーベッドの柵をするり、と撫でた。
「ベビーをあいつらにおもちゃにされかねませんな。」
 くすくすと笑いながら立ち上がる清四郎に悠理は慌てて手を貸す。
「大丈夫ですよ。車椅子からベッドに移るくらいは一人でできるようになったんですから。」
 だからこそ、外泊が許されたのだ。
「ごめん、もう疲れたよな。晩メシできたら起こすから、少し寝ろ。」
「そうですね。お言葉に甘えてそうさせてもらいますよ。」
 じわり、と寝転んだ清四郎に毛布をかけてやりながら、悠理は素早く唇を重ねた。二度、唇を動かして離れる。

「悠理こそ、疲れてませんか?」
 まださほどではないが、でもやはり悠理の細身の身体に胎動がはっきりわかるほどに大きくなったお腹は重そうに見える。
 胎児にエネルギーをとられるゆえに、疲れやすいはずである。
「ちょっと、な。」
「じゃあ、あなたも寝ましょう。ね?」
「・・・あたいは30分だけ、な。」
 手を繋いで悠理も清四郎の隣にもぐりこむ。
 穏やかな微笑を交し合い、二人同時に目を閉じた。



 ふと繋いだ手が離れた。一瞬残された清四郎の指が追うように動く。
「晩メシ作りに行くから。まだ寝てろ。」
 耳元でそっと悠理は囁き、部屋から出て行った。
 ぱたん、とドアが閉まる軽い音がしたところで、清四郎はごろり、と仰向けに寝返りを打った。
「正確に30分、ですか。」

 昔の彼女からは信じられない。一度眠ると朝まで起きない。試験勉強に戻らせるために清四郎がどれだけ苦労したことか。

 清四郎は実は眠ってはいなかった。サナトリウムでは二人で手を繋ぎあって昼寝するのはいつものことだった。
 だが、この部屋ではとてもではないが、眠りは落ちては来なかった。
 主寝室。二人の、寝室。
 いや、今は腹の中にいるベビーも合わせると三人の部屋、か。

 ぼんやりと清四郎は視線をベッドサイドに向ける。
 そこに鎮座するのは件のベビーベッド。
 まだその主がやってくるまで間があるので、もちろん布団などはなく、裸のままである。
 柔らかな丸みを帯びるまでに磨き上げられた柵は落ち着いたマホガニーの色。このアンティークな別荘にあって、もとからの住人であるかのようにしっくりと落ち着いている。

 悠理のベビー。僕のベビー。

 意識がはっきりしてきて最初に見たのは悠理の微笑。聖母の微笑。
 そして右手に感じた、あの蠢き。
 なぜ?こんなことになっているのだろう?
 最初に考えたのはそんなこと。そして涙とともに、すべての記憶が溢れ出てきた。

 これは、僕の、罪の結果───!

「もういいんだ。愛してる、清四郎・・・・・」
 悠理に抱きしめられ、キスされた。

 もういいって、何が?


 だけれどその時の自分は、ただその唇を味わうことしかできなかった。
 彼女の慈愛に満ちた唇に、清四郎は己への彼女の愛情を見つけた。
 なぜ、と問う自分がどこかにいたけれど、そのひどく懐かしい感触に、ただ己をゆだねた。

 悠理を守る。ベビーを守る。
 その決意が清四郎を動かしている。
 精神が閉じこもってしまっていた間のことはほとんど覚えていない。覚えようとする気力すらなかったのだろう。
 それは幼い頃から神童と称えられ無類の記憶力を誇った彼からすると信じがたいことである。
 記憶など覚えようとしなくても残るものだったから。
 彼がただその間のことで覚えているのは、悠理の柔らかな抱擁。いつも胎児と一緒に彼女の体の中で守られていたような気さえする。
 肝心なときに守ってやれなかった。どころか、自分がしたことは・・・。
 だから、これからは自分が彼女を守る。その気持ちに偽りはない。

 だが、本当にこれが悠理にとって最善なのだろうか?

 僕がまた彼女に触れてもいいのだろうか?
 彼女の生む天使を、僕が抱いてもいいのだろうか?

 清四郎はただ天井を見つめつづけた。

 

 

 

 

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