慟哭編〜作:hachiさま


 



剣菱と菊正宗の両家は、互いの名誉のため、事件を闇へ葬った。

事件は、有耶無耶のままに、終わったのだ。


何故なら―― 昏睡から醒めた清四郎は、何も話せる状態ではなかった。


清四郎の心は、どこか遠くへ逝ってしまっていた。



悠理の元に訪れた魅録は、まるで抜け殻のようだと、哀しげに呟いていた。

清四郎が目覚めて以来、悠理は病院に行っていない。

それどころか、学校にも顔を出していなかった。

ただ、一日じゅう、ぼんやりと空を眺めて過ごしていた。


菊正宗家の人々も、悠理の両親も、何も聞かない。

だから、悠理も、何も話さなかった。

ある程度の事情を知っているのは、野梨子ただ一人だ。

でも、野梨子も何も聞かなかった。

ただ、放課後に可憐と一緒に悠理の部屋を訪れ、世間話をしては、帰っていく。


野梨子は、仲間たちに二人のことを話していないらしい。

可憐は、清四郎が事故に遭遇したと信じていたし、魅録も、悠理の前で清四郎の状態を話す。ただ、美童だけが、意味ありげな視線を、悠理に向けるだけだ。


清四郎は、悠理と一緒にいるときに怪我をした。

悠理は、それがショックで、引き篭もっている。

確かにそうだ。外れてはいない。

でも、本当は―― 


悠理は今日も一日、涙で歪んだ空を、ぼんやりと見つめていた。



清四郎が、いつもの清四郎だったら、悠理は我を忘れて彼を詰っていただろう。

悠理の心を置いてけ堀にして、思う存分に身体を蹂躙したのだ。

写真まで撮って。脅迫までして。愛の言葉を強要して。

剣菱の身代が目的のくせ、優しい顔で、嘘の愛を囁いて。

刺された瞬間でさえ、悠理を愛していると、嘘を吐いて。

憎んでも、憎み足りない。


なのに、見る夢すべてが清四郎だった。

優しい顔で、悠理の髪を梳きながら、愛の言葉を囁きかける。

永遠に、悠理だけを愛すると。

吸い込まれそうな黒い瞳に、悠理を映して、何度も繰り返す。

悠理、愛している。お前だけだ。

ずっと、一緒にいましょう。

夢の中まで嘘を吐かれ、口惜しくて、口惜しくて、涙が溢れた。


でも、詰るべき相手は、もう、悠理を見ない。

あの黒い瞳に悠理を映すことは、ない。

それが、何故か、とても、苦しかった。


憎しみをぶつける相手を失い、悠理は、前にも、後ろにも、進めなくなっていた。


 


あの事件からひと月ほど経った頃、珍しく、野梨子はひとりで訪れた。

彼女は、小さな手に、清四郎の日記と手帳を携えていた。


「悠理。これを見ていただきたいの。」

辛いでしょうけど、と躊躇いがちに野梨子はつけ加えた。

テーブルの上には、何冊もの日記帳と、見覚えのある革の手帳が並べられている。

そんなもの、見たくはなかった。

悠理を犯し、嘘を吐いた男が書いたものなど、見るだけで心が穢れる気がした。

「悠理が清四郎を許せないのは、よく分かります。私だって、清四郎を許す気にはなれませんもの。でも、どうしても見ていただきたいんです。」

長い睫毛に縁取られた瞳が、悠理を必死に見つめている。

野梨子は、本当に本気で、清四郎の日記を見せたいのだと感じた。

それでも悠理は、その願いを突っ撥ねた。

「嫌だ。そんなもの、今さら見てどうしろって言うんだよ。」

悠理は自嘲気味に、くっと咽喉の奥で笑った。

「まさか、あの男を許せとでも?」

「悠理。貴女が清四郎を刺したのですよ。」

野梨子が、静かに、だが、力強い声で、言った。

「どんな理由があるにせよ、貴女には、貴女の罪があります。それから眼を逸らして、清四郎だけを責めるのは、卑怯ですわ。」

野梨子の真っ直ぐな瞳が、悠理を貫く。

「貴女には、清四郎の気持ちを知る義務があります。加害者としても、被害者としても、です。」

「刺したくて刺したわけじゃない!!」

耐え切れず、悠理は立ち上がった。

「清四郎は、あたいを玩具にしたんだ!!それも、一度や二度じゃない!!あたいを好きだなんて、嘘を吐きながら・・・ずっと・・・ずっと・・・」

気がつけば、大粒の涙が零れていた。

苦しくて、苦しくて、心が潰れそうだった。

「・・・もう、耐えられなかったんだ・・・清四郎に抱かれるのも、嘘を吐かれるのにも。だから、ナイフを持って、逃げ出そうとしたのに・・・それでもあいつ、あ、あたいを愛しているって・・・怖かったんだ。とにかく、怖かったんだ!!」

支離滅裂なのは分かっていた。でも、言葉を選ぶ余裕など、なかった。

悠理は涙を流しながら、野梨子を見た。

「野梨子に分かるか?たった数時間前まで親友だった男に、玩具にされる気持が!!写真をネタに、ひ、酷いことまで強要されて・・・あたいの気持ちなんて、わかるもんか!!」

興奮のままに、テーブルを叩いた。

その拍子に、清四郎の手帳が絨毯の上に落ちた。

悠理の眼は、自然に手帳を追っていた。

「あ・・・?」

手帳から、一枚の写真が零れ落ちていた。


 

そこには、満面の笑みを浮かべた悠理と清四郎の姿が写っていた。


 

「私も、清四郎を許すつもりはありませんわ。」

野梨子の声が、静かに響いた。

「いくら追い詰められていたとはいえ、清四郎は、人間として、やってはいけないことをしてしまったのですから。彼の精神が正常ならば、半殺しの目に遭わせてやりたいくらいです。」

物騒な言葉をさらりと言ってのけてから、野梨子は目線を日記に落とした。

「でも・・・悠理には、清四郎がどうしてあんな酷いことをしたのか、きちんと知っていただきたいの。清四郎を庇うためではなく、悠理のために。」

「あたいの、ため・・・?」

「ええ。悠理が、本当の気持ちに気づくために。」

そう言うと、野梨子は、ふわり、と微笑んだ。

「二人とも大事な幼馴染ですから、どちらにも幸福になってもらいたいの。」

気が向いたら、読んでくださいな―― 野梨子はそう言い残すと、帰っていった。



 

ひとりきりになった悠理は、恐る恐る、写真を拾い上げた。

屈託のない笑みを浮かべる、悠理と清四郎。

確か、信州まで蕎麦を食べに行ったときの写真だ。

今度は手帳を拾い上げる。

他にも写真が何枚か挟んであった。

それを見て、悠理は驚いた。

どれもこれも、悠理と清四郎が二人で写った写真だったからだ。


 

手帳を開く。らしくもなく、レストランやケーキショップの所在地と連絡先が列記してある。その名前のいくつかに、記憶があった。悠理が行きたがっていた店だ。

ページを捲る。悠理の弱点強化のために揃えるべき参考書の名前が記入してある。


 

悠理はテーブルに飛びつき、一冊の日記を手に取った。

日付は、五年前。まだ、悠理が清四郎を毛嫌いしていた頃だ。

なのに、日記には、悠理のことがあちこちに記されていた。

それは、ほんの些細なことばかり。

右手に絆創膏をしていた。

今日は職員室に呼び出されていた。

廊下で擦れ違ったとき、あかんべえをした。

ただ、それだけの短い記載。

それでも、彼の温かな眼差しが感じられた。


 

新しい日記を探す。

たった数ページ読んだだけで、涙が零れた。

そこには、悠理を見守る、清四郎の静かな愛情が溢れていた。


「清四郎・・・」

悠理は泣きじゃくりながら、日記を読み進めた。

そして、衝撃的な記載に当たった。


 

悠理の知らぬところで、ある財閥の御曹司との見合いが進行していた。

日記の中の清四郎は、それを知って、煩悶していた。

その財閥と姻戚関係を結べば、剣菱は飛躍的に利益を生み出せる。

何万、何億の社員を抱える剣菱財閥にとって、これほど有り難い話はない。


清四郎は、悠理を諦めようとしていた。

来る日も来る日も煩悶し、それでも何とか諦めようと、努力をしていた。

だけど、諦められなかった。


だから―― 


「愛しすぎて、気が狂ってしまいそうだ」


日記の最後に記されたその言葉に、悠理は慟哭した。


 


清四郎は、嘘など吐いていなかった。

本当に、本気で、悠理を想ってくれていた。


なのに、悠理は、彼の言葉を信じなかった。


「清四郎・・・」

悠理は清四郎の日記を抱き、涙を流しつづけた。

 

 

どうして清四郎を憎み切れないのか、

どうして清四郎を忘れられないのか、

どうして清四郎を想うと胸が痛くなるのか、ようやく分かった。


悠理も、清四郎を愛していたのだ。

だから、気が狂いそうなほど、彼を求めて止まないのだ。



でも、気づくのは、遅すぎた。



その日、悠理はこっそりと清四郎の病室に忍び込んだ。

清四郎は、虚ろな眼を天井に向けていた。




イラスト By  かめおさま



「清四郎・・・」

呼びかけながら、そっとくちづける。

あのときとは違う、冷たいくちびる。

それでも悠理は、構わずに舌を絡めた。

あれほど熱く悠理を求めた舌は、何の反応も返さない。


 

服の上から胸板に触れ、その感触に驚いて、手を引っ込める。

あの日、悠理を包んでいた逞しい胸は、薄く、痩せ細っていた。


「清四郎・・・あたいだよ?お願い、こっちを見て・・・」

呼びかけても、清四郎は虚ろに天井を見つめているだけ。

あれからひと月。腹部の傷は、癒えている。

だけど、清四郎の心は、遠くに逝ったままなのだ。


そこで、悠理ははじめて、彼にどれほど酷い仕打ちをしたのか、気づいたのだ。


嘘の愛を吐き、ともに悦楽に溺れながら、彼にナイフを振りかざして、逃げ出した。


「清四郎・・・」


彼の頬を、悠理の涙が濡らす。


「・・・許して・・・」


悠理は彼の薄い胸に顔を埋め、嗚咽した。


だけど、どんなに願おうが、清四郎の心は、戻ってはこなかった。



 

 

*****



 


それから悠理は、毎日病院へと通い、献身的に清四郎を介護した。

悠理の両親は、それを大層怒って、娘の病院通いを止めさせようとした。

菊正宗家の人々も、悠理を歓迎しなかった。

理由はどうあれ、息子を刺して、廃人同然の状態に追い込んだのは、悠理なのだか

ら、家族として、当然である。

薄々事情を知る病院関係者も、悠理に憐憫と好奇の眼を向けた。

それでも悠理は、周囲の眼にも負けず、清四郎の元へ通い続けた。

雨の日も、風の日も。

朝から晩まで、時間が許す限り、ずっと清四郎に付き添っていた。



悠理は普段と同じように、清四郎に話しかけた。

ひと目がなくなると、キスをしながら、そっと抱きしめた。

何度も、何度も、愛していると、囁きかけた。


だけど、いくら悠理が願おうが、彼の心は、戻らなかった。


 


悠理が病院通いをはじめて、一ヶ月ほど経った頃、病室に和子が訪れた。

正直なところ、悠理は驚き、戸惑った。

何しろ、菊正宗家の人々は、悠理と顔を合わせるのを嫌い、面会時間が終了したあと

で見舞いに訪れていたからだ。


「悠理ちゃん、綺麗になったわね。」

開口一番の和子の台詞に、悠理は面食らった。

「悠理ちゃんが綺麗になったのは、もしかして、うちの馬鹿弟のせいかしら?」

何も答えられずにいる悠理を見て、和子は困ったように微笑んだ。

「困らせるつもりはなかったの。ただ、そうあってくれたら良いな、って思っただ

け。悠理ちゃんが、馬鹿弟に好意を抱いてくれていたら、こいつも多少は報われるで

しょ?」

いつもと変わらぬ、歯に衣着せぬ物言いが、不思議だった。


「和子姉ちゃん・・・あたいのこと、怒っていないの?」

勇気を出して、尋ねてみる。すると、和子はふるふると頭を振って、首を傾げた。

「清四郎はね、当然の報いを受けただけよ。だって、悠理ちゃんにあんな―― 」

そこで、和子は言いよどんだ。しかし、すぐに顔を上げて、悠理を見つめる。

「思い出させてごめんね。私・・・写真を、見ちゃったの。愚弟の机を探っていた

ら、偶然に、ね。でも、もう大丈夫よ。写真はすべて焼いて処分したし、記録メディ

アの情報も、すべて削除しておいたから、安心して。」

「もう、いいよ・・・」

それだけ言うのが、やっとだった。


 

悠理の身体に、情事の痕跡は残っていない。

たった一日。二人が肌を重ねたのは、たった一日だけ。

悠理の手元には、友人としての清四郎が残した思い出しかない。

あの、忌まわしい写真だけが、清四郎との関係を証明していた。

そのときは、憎しみしかなかったとはいえ、確かに二人は繋がっていたのに、それを

証明するものは、もう、此の世には存在しないのだ。

そう思うと、何だか、哀しかった。


感傷を振り切るために、窓を開ける。

風に乗って、調理場から炊飯の匂いが流れ込んできた。

その匂いを嗅いだ瞬間、悠理は吐き気をもよおした。


身体をくの字に折って、嘔吐を堪える。

「どうしたの?」

和子が飛んできて、背中を擦ってくれた。お陰でだいぶ落ち着いたが、嘔吐の感覚

は、身体の真ん中にしつこく残ったままだ。

「・・・悠理ちゃん。失礼なことを聞くけれど、生理はちゃんと来てる?」

肩を上下させて荒い息を吐いていると、意味不明の質問が頭上から降ってきた。

「生理・・・?」

質問の意味を考えあぐねているうちに、新たな質問が降ってきた。

「もしかして・・・妊娠、しているんじゃない?」

「まさか!あたいが妊娠なんて、そんな―― 」

反論の言葉は、途中で消えた。



記憶を巡らす。

悠理には、何もかもがはじめてで、行為を観察する余裕なんて、ちっともなかった。

第一、冷静にものごとを判断できる状態でもなかった。

でも―― 清四郎が、避妊具をつけた様子はなかった。

それどころか、すべて悠理の体内に―― 


「悠理ちゃん。生理は、順調なの?」

「・・・あれから、き、きて、ない・・・」


悠理は腹部を押さえて、ベッドに横たわる清四郎を見た。

相変わらず、虚ろな眼をして、天井を見つめている。


悠理の腹部は、平らなままで、いつもと何ら変わらない。

でも、もしかしたら、ここに。


清四郎が悠理を愛した証が、宿っているかもしれない。


 

「悠理ちゃん!?」

酷い眩暈に襲われ、悠理はその場に崩れ落ちた。

 

 

 

 

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