アカシア並木が美しい高原の山道を、車はゆっくりと走っていた。



「窓を開けてごらんなさい」
運転手にそう言われ、ウインドウを開けてみると、風に乗って甘い香りが吹き込んだ。
それは、ふわりと揺れる髪にそっと張り付いてくる。

―――いい匂い。


「何の匂い?」

そう聞くと、運転手は穏やかな声で教えてくれた。
「アカシアの花ですよ。ほら、ところどころに白い花が見えるでしょう?ちょうど満開なんですよ。いい時期にいらっしゃいましたね」


言われるがままに窓の外へ顔を出すと、白い花が、今を盛りにと咲きほころんでいた。

風がたなびくリズムに合わせて甘い香りも揺れる。
そして、眩しいくらいに新緑が美しかった。

悠理は、隣に座る男の手をそっと握り締める。
「綺麗だな。ここにいたら、きっと良くなるよ」

答えはない。
隣に座る男は、黙ったまま無表情にじっと前を見据えていた。





『 Pain 』 〜再生編〜                

  ポアンポアンさま 作




あの忌まわしい事件が起きたのは、2月の始め。
重体に陥った清四郎が生命の危機を脱し、全てが消し去られる頃には3月になっていた。
あの時助けてくれた野梨子、ずっと傍にいて慰めたり助けたりしてくれた可憐・魅録・美童は、無事高校を卒業した。

清四郎と悠理を残して。

そして桜の咲く頃、悠理はお腹に宿る小さな生命の存在に気づいた。


当時、悠理の妊娠が発覚すると、当然のように菊正宗・剣菱の両家は、堕胎を希望した。
唯一、仲間と清四郎の姉、和子・悠理の兄、豊作が悠理を庇ってくれたが、両親の怒りは溶けなかった。

毎日菊正宗病院に入院する清四郎の元に通っていた悠理だが、ついには病室に行くことさえ、禁じられてしまう。
万作と百合子が悠理を部屋に閉じ込め、堕胎の為の病院を探し始めたのだ。
外から施錠され、悠理はまさしく籠の鳥となった。
「清四郎ーーー!」
悠理は声が枯れるまで叫び続けた。
剣菱邸では、しばらく悠理の慟哭とドンドンとドアを叩く音が響き渡った。
万作が、百合子が、五代が豊作が、メイド達までもが、その切ない泣き声に涙を流した。



それが静かになってきたと感じられるある日、悠理は、両親を出し抜き、野梨子や可憐に協力してもらって菊正宗病院へ向かった。


妊娠が発覚した時点で、野梨子は写真やビデオの存在は隠して、見たままの出来事を仲間に語った。それらの証拠品は、全て処分したと和子 から聞いている。黙っていれば、あのことは誰にも知られないで済む。野梨子は一生それを胸の内に背負うつもりでいた。多
分、和子もそうだろう と思う。


清四郎の部屋の近くまで来たところで、悠理は病院のスタッフに面会を拒まれてしまった。
「どうして!どうして清四郎に会わせてくれないんだよっ」
ナースステーションの前で騒いでいると、どこからともなく修平が現れ、院長室へと連れて行かれた。


「悠理君に話がある。野梨子ちゃんと可憐ちゃんは外で待ってなさい」
修平はそう言うと、悠理だけ部屋の中へと招きいれた。

「おかけなさい」
ソファに座れと言われた悠理は、緊張しながらそれに従った。
修平が目の前に座る。
胸の前で手を組み、じっと見据えられた。
怖い、と思ったが、その目から逃れるすべを悠理は持っていなかった。


「君もここで処置を受けるのは不本意だろう。いい病院を紹介してあげるから、なるべく早くそちらに行きなさい」
開口一番、そう言われた。
それって・・・・・

「おっちゃん・・・・・」
悠理が言葉を発しようとすると、修平は「待て」と手で制した。

「これまでは、君が清四郎の元に看病に来るのを百歩譲って許した。だが、これからお腹の大きくなる君を見るのは忍びんよ。清四郎はあの通り廃人同様だ。これから産んでどうすると言うんだね。君一人で子供は育てられないだろう。それに、悪いが私も妻も、君の出産
には協力できない 。うちの息子が君にしたことは謝って済む問題じゃない、とはわかっているが、だからといって君を許すこともできない。それは君の両親も同じだろう。
恐らく万作さんも百合子さんも清四郎を許さない。だからこそ、ここに来ることを止められた、そうじゃないかい?誰だって自分の子供が可愛いからな。そんな憎しみあう家族環境の中で、生まれてくる子供が可哀想だ、と君は思わんかね?」

悠理は、すぐには答えられなかった。
可哀想だとは思わんかね?
そう聞かれても、悠理にはわからない。

確かに、望んでできた子供じゃない。それは否定のしようのない事実。
清四郎は悠理を犯し、悠理は清四郎を刺した。
その事実はどうしても消えないけれど、すれ違ってしまった二人の間には確かに「愛」があった。今でもあると思う。片時でも清四郎の傍を離れたくなかった。彼が自分のことさえわからなくなってしまっている状態であっても、愛しいと思う心は変わらなかった。

悠理が気づくのが遅すぎたとはいえ、それがわかってもらえないことが、つらい。理解しろ、と言う方が難しいのだと頭ではわかっていても、悔しさで悠理の目に涙が浮かぶ。

清四郎・・・・・助けてよ・・・・・
あたいは清四郎を愛してるって、清四郎はあたいを愛してるって証明してよ・・・・・
悠理は心の中で叫んだ。
清四郎、清四郎、清四郎!

彼はいつだって、助けに来てくれた。
お待たせって言って。
あたいは、いつだって「遅い!」って怒鳴った。
遅いよ、清四郎。今回は、助けにくるのが遅すぎる。

悠理は込み上げる涙を堪えて瞼を閉じた。
最後に清四郎に言われた言葉が頭の中でこだまする。
「悠理、愛しています・・・・・・」
心をじっと研ぎ澄ますと、あの時、清四郎は涙を流して哀しそうに微笑んでいたはずなのに、今思い浮かぶのは、自信たっぷりの、意地悪そうな 、でも、悠理の大好きな大好きな笑顔だった。


その笑顔に応えるように、悠理はそっとお腹に手を触れてみる。
トクントクントクントクン・・・・・・・
聞こえるはずはないのに、赤ちゃんの鼓動が伝わるような気がした。
“清四郎が悠理を愛した、悠理が清四郎を愛した証”
あきらめるなんて、できない。この子を葬り去るなんて。
清四郎とこの子を自分は愛している。それだけで、十分じゃないか。
そう思った。

助けてくれる仲間だっている。野梨子、可憐、魅録、美童。
誰よりも清四郎と悠理を理解し、二人が積み重ねてきた年月を知っている。
悠理を精一杯慰めてくれる和子姉ちゃんや豊作兄ちゃんもいた。
皆がいる。何とかなる、いや、何とかしなくては、と思った。

あたいが清四郎を守り、この子供を守るんだ。
強くなろう―――
悠理は、零れそうになる涙をぐっと堪え、立ち上がって清四郎の父に挑んだ。


「おっちゃん、あたいはこの子を一人でも産むよ。おっちゃんの助けは借りない。もちろん父ちゃんや母ちゃんにだって。この子を産めば、きっと清四郎だって良くなる。あたいは絶対あきらめない。この子も、清四郎も」

悠理は、もう清四郎に縋り泣いている悠理じゃない。
取り乱してもいないし、甘えん坊で、泣き虫でもなかった。
一人の女性として、凛として立っていた。
大切な人を守るために。



バン!

突如、派手な音を立ててドアが開いた。
「パパ!身重の悠理ちゃんに、何をしているの!」
和子が、息せきって部屋に入ってきた。
その後から、荒い息を弾ませながら野梨子と可憐も入ってくる。
二人が和子を呼びに行ってくれたらしかった。

「いい?この子の負担になるようなことをしたら、私がパパを許さない。清四郎だって、きっと許さないわ」

和子は、そう言って父修平を睨んだ。
野梨子と可憐は悠理を支えるようにして、両サイドに立った。
悠理と同じ目で、凛とした表情で修平を見る。

「和子、お前・・・・・・」
修平は吃驚して、口を開けたままになっていた。

悠理は、野梨子と可憐の腕を力強く掴んで言った。
「おっちゃん、あたい達有閑倶楽部はね、何ともならないことも何とかしてきたんだ。今まで。これからだってそうだよ。皆がいる。清四郎のこともこの子のことも心配しないで」

悠理は、笑顔でそう言うことができた。



院長室を辞し、何日かぶりで清四郎の病室へ行くと、連絡を受け、心配した魅録と美童が病室で待っていた。
悠理の姿を見ると、交互にそっと抱きしめてくれる。
「無茶するな」と魅録。
「心配したよ。無事で良かった、悠理もベビーも」と美童。

てへへへ、と悠理は照れ笑いをすると、清四郎の元に駆け寄った。
起きてベッドに座ってはいるが、焦点の合わない虚ろな表情の清四郎。
それでも、悠理はにっこり笑って、清四郎の胸に飛び込んだ。

「清四郎、ちょっとの間来れなくてごめん。これからはずっと一緒にいるからな」


何とかするって言ったって、どうしたらいい、清四郎?
悠理は、いつまでも、いつまでも離れようとはしなかった。



野梨子、可憐は互いに身を寄せ合って泣いていた。
魅録と美童は、深い溜息をついている。
今回ばかりは、ブレーンである清四郎が頼りにならず、それぞれがこの事態をどうすれば良いのか、考えあぐねていた。


そんな時、和子が、4人を廊下へと促した。
「よく聞いて。これからあの二人を逃がそうと思うの」
唐突に和子が言った。
「何だって?!」
「何ですって?!」

魅録と美童、野梨子と可憐の声が重なった。
その声で、ナースステーションにいる看護師が一斉にこちらを向いた。

「しっ!ここでは話ができないわね。ラウンジへ行きましょうか」
そう和子に促されて、4人は病院のラウンジへと向かった。


「仮に、うちの両親と悠理ちゃんの両親が出産を認めたとしても、ここにいては二人にとっていいことは何もないと思うの。誰だって二人の様子をまだ冷静な目では見られないし、お腹が目立つようになれば、さらに悠理ちゃんは好奇の目に晒されるわ」
和子の言うことは、もっともだった。

「だからって逃がすなんて、どうやって」
可憐が戸惑って聞く。
「そうですわ。ここ以外に信頼できる病院があるとも思えませんし」
野梨子も不安が隠せない。
男二人は、思案顔で黙っている。
ここまで和子が話すからには、余程考え抜き、調べてのことだろう、と魅録は思った。
「どこへ連れて行くって言うの?」
美童が静かに聞いた。

「軽井沢にね、心療内科を専門にしているサナトリウムがあるの。そこへ清四郎を移して療養させては?って父に勧めてみようと思ってるの よ」

「軽井沢・・・・ですか」
「今はまだ悠理ちゃんの状態が安定しないから、そうね、時期を見て5月頃二人一緒に行かせてはどうかと思ってる。悠理ちゃんには、今日からここに泊まってもらうわ。今剣菱邸に帰したら、また閉じ込められてしまう。万作おじさんや百合子おばさんがここに来たら、私が阻止するわ」
和子がそこまで言うと、野梨子が心配そうに聞いた。
「でも、サナトリウムに入院できるのは清四郎だけでしょう?悠理はどうしますの?」

「それは、豊作さんにお願いしたの。彼も悠理ちゃんのことをとても心配していて、なんとか力になりたいって申し出てくれたのよ。向こうでの二人の迎えから悠理ちゃんの滞在先、世話をするメイドや医療スタッフまで準備してくれるらしいの。悠理ちゃんのためにも、環境のいいところで療養させるべきだ、悠理ちゃんが望むなら、お産もあちらでした方がいいってご両親を説得してくれるみたい。今日から悠理ちゃんをここで預かることも伝えたわ。豊作さんは快く承知してくれた」
「あの、豊作さんが」
可憐は、頼りない感じの悠理の兄を思い浮かべ、驚いた。
きびきび働く姿は想像がつかないし、親に逆らうようなことをする人とは到底思えなかった。
「あの人がねぇ・・・・」と魅録も驚いている。
「人は見かけで判断できないよ」
美童が言った。
「見かけだけで勝負してるくせに」
魅録の、美童にとっては余計な一言に全員が同意して笑った。

皆が、久しぶりに笑ったな、という気がしていた。
少しだけ明るい展望が見えた気がする。

「私が向こうで信頼できそうな産科のドクターにコンタクトを取るから、皆はなるべく二人を訪ねてあげて。私は仕事で中々行けないでしょうし、豊作さんもだわ。貴方達を頼りにしてるわよ。後は任せるわ」
言い終わって、軽く片目をパチリとする和子は、清四郎によく似ていた。
有閑倶楽部のブレーンの変わりとなる和子は、とても頼もしかった。



5月中旬。
二人は4人の仲間と和子に見送られ、一人の医療スタッフと共に新幹線に乗った。
高原の駅では、豊作に依頼を受けた運転手が待っていた。

ここからは車でサナトリウムに向かう。

知っている人は誰もいない。

それは、悠理を少し不安にさせたが、それ以上に清四郎と何にも囚われず一緒にいられることが嬉しかった。


「お嬢様、まいりましょう」
「荷物、お持ちしますよ」
運転手と助産師がにっこり笑って、二人に手を差し伸べた。

 

 

 

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