高原の美しい村へ来て一ヶ月。
季節は少しずつ移り変わり、日射しが強くなっていた。
夏は、もうすぐそこだ。

「ご飯できたよー」
悠理の元気な声が朝の静寂を破った。
この屋敷の住人が、ダイニングルームへと集まってくる。
揃って、食卓についた。

ここの住人は、悠理、運転手兼屋敷の管理人、メイド、助産師の4人だ。
ここへ来てからの悠理の生活は、これまでと天と地がひっくり返るように変わった。

ちゃんと自立して生きていけるように、子供と清四郎を守れるように、悠理は人が変わったように何でも経験し始めた。
手始めは、料理、洗濯、掃除。メイドに習って、徐々に覚えていく。
今日は、朝から二人で朝食を作っていた。

「ほぉ、いい匂いがしますな」
運転手が鼻をクンクンとさせた。
「ウシシシ、わかる?」
悠理が楽しそうに答えた。
「じゃ〜ん!」
目の前で手を広げ、準備された朝食を披露した。
ご飯にお味噌汁、卵焼きに、アジの開き、肉じゃがが添えてあった。
「いい匂いの元は肉じゃがですか」
「そうそう、昨日煮込んでおいたのをね、温めたんだぁ。煮物って2日目の方が断然おいしいね」
悠理は楽しそうに笑う。

その笑顔につられて、教えたメイドも助産師も笑った。
「ほらほら、早く食べて準備しないと。清四郎さんのところへ行くのが遅くなるわ」
そんな風に、助産師は悠理を急かした。


豊作の準備してくれた別荘で、悠理は新しい生活を始めた。
家事を教わりながら、昼間は清四郎の入院するサナトリウムに通う。
悠理の体調は助産師が厳重に管理していたし、家のことはメイドがやってくれていた。
運転手兼管理人の初老男性の立山さんは、庭の手入れやサナトリウムまでの運転、町への買出しといったことに付き合ってくれる。

毎日9時には、清四郎の着替えを持って、サナトリウムへと向かうのが日課になっていた。
町の病院で検診を受ける日だけは、午後だけ清四郎の元に顔を出す。
その時の清四郎の身の回りの世話はメイドに任せた。


朝食を済ませた悠理は、急いで部屋に向かい、クローゼットから清四郎の着替えを出すと、バッグにつめる。
これらのパジャマや下着は、和子が宅配便で送ってくれていた。
その他にも清四郎が愛用していたものを、随時送ってくれる。
時に、こちらを訪れる仲間がついでに持って来てくれることもあった。


サナトリウムの駐車場で車を降り、野薔薇の生垣を通り過ぎると、赤い屋根の木造式洋館が木立の中に見えた。
建物の裏へ回りこみ、サンルームをめざす。
籐の椅子に清四郎が座っていた。

「おはよ」
悠理は、元気良く清四郎の首に巻きついた。
返事はなくても、体全体の感触で、清四郎が元気なのか、疲れているのかを悠理は悟る。
「元気そうだな」
悠理は、安心したように、笑った。
清四郎の顔を見ると、悠理はちょっと首をかしげる。
「なぁ、清四郎、今日は髭剃る?」
少しざらついた頬が気になった。
悠理は、サナトリウムのスタッフに声をかけると、清四郎を車椅子に乗せ、病室に運んでもらった。
数ヶ月の間に自分で歩くことを忘れた清四郎は、すっかり筋力が落ち、体は健康でも立って歩くことはできなくなっていた。
やせた腕と脚。悠理は、これ以上筋力が落ちないよう、日々マッサージをしていた。
気休めにしかならないかもしれないが。

洗面所に行き、シェービングクリームをもってくると、清四郎の頬に塗って、剃刀を当てる。
「動くなよ〜変に動くと切っちゃうからな」
そんなことを言って笑いながら、悠理は幸せそうだった。

清四郎は、いつもサナトリウムのドクターに催眠療法や薬物療法を受けていた。
担当医師は、清四郎の心理的外傷促進因子を、事情を聞いて把握しており、いつも傍にいてくれる悠理の存在が一番の薬となるだろうと思っていた。
事実、時折、自らの意思で動かすようになった手が、悠理を求めるかのようにさまよっているのを、医師は良い傾向だと判断していた。
「もう少しだと思いますよ」
悠理にそんな風に言った。


「ねぇ、清四郎と散歩してきてもいい?」
悠理は、助産師に聞いた。
腹部の張りもなく、児心音も落ち着いている悠理に助産師は許可を出した。
「行くなら、ささやきの小径までですよ」
そう、忠告する。
ささやきの小径は、サナトリウムを出てすぐそばの川沿いの道のことで、鬱蒼と茂るアカシア並木が見事な、この高原の村でも有数の美しい小道だった。
別名「サナトリウムレーンとか恋人達の小径」とか言うらしい。
助産師は、恋人達の小径という呼び名が、二人に一番あっているような気がした。

悠理が清四郎を乗せた車椅子を押して、門を出て行くのを助産師と運転手は見送った。
少し離れたところから、二人を追うつもりだった。



小鳥のさえずりだけが聞こえる静かな散歩道。
高原の風が気持ち良い。夏の日射しも、木立でほどよく遮られ、キラキラとした日の光だけが、遠慮がちに二人に降り注いだ。

悠理は、楽しそうに車椅子を押している。
「なぁ、なぁ、清四郎。修学旅行覚えてる?灰皿を持ってきちゃったら、お前すごい顔して怒ったよな。知らなかったんだから、しょうがないだろ?そうそう、あれを返しにいったら、絵画泥棒と間違えられたんだっけ」
悠理は、思い出し笑いをしながら、清四郎に話しかける。
「モナコのオークションにお前と二人で行ったよな。あんな服着たのあれっきりだよ、たぶん。その後は二人して捕まっちゃってさ。だけど、縛られててもお前妙に冷静だったよな。おかしいったら」

悠理は、こんなとりとめもない昔話をしながら、何度もこの道を車椅子を押して歩いた。
思い出は、次から次へと溢れ出る。
しゃべってもしゃべっても終わらなかった。

「こんなに一緒にいたのに、なんでお前の気持ちに気づかなかったんだろう」
悠理は、自嘲気味に笑った。
車椅子を止めて、少し身をかがめると、清四郎の背後から首筋に顔を埋める。
「大好きだよ、清四郎。昔から大好き」

清四郎の首がわずかに、振り向こうと動いた気がした。
だが、悠理に別の感覚が走る。
「あ、」
動いた。確かに。
むにゅっとした、奇妙な感覚。
「あはは・・・・」
悠理は嬉しそうに飛び跳ねると、清四郎の前に飛び出た。

「清四郎、清四郎、動いた!ほらほら触って!」
清四郎の右手を掴むと、自分自身のお腹の上へと誘う。
「あれ?止まっちゃった?」
残念そうに、悠理が手を離そうとした時だった。

腹部がまたぐにゅりと動く。
悠理は、ほらほらすごい、と腹部に当てた清四郎の手を見ていた。
笑顔がこぼれる。幸せそうに、聖母のように。

そんな時、清四郎の手が、悠理の腹部を撫でるように動いた。
「・・・・?」
悠理は、ゆっくりと、顔を上げる。



「・・・・うっ・・・・うっ・・」
呻くような嗚咽しか出ない。声が出せない。
悠理は、倒れるように、清四郎の膝に崩れ落ちた。

頭の上を優しい手が撫でてくれる。
ポタポタと上から落ちる雫。震える、脚。

―――清四郎が泣いていた。

「・・・ゆう、り」
悠理?今そう言った?
顔を上げると、清四郎の手が頬に触れた。
壊れ物に触るように、指先で撫で、涙の一滴一滴をすくう。
「悠理」
今度は、はっきりと聞こえた。
これまでに、見たこともない苦悶に満ちた表情、怯えた目。
それだけで、悠理は清四郎が全てを思い出したのを悟った。
膝立ちしたまま、清四郎に手を伸ばす。

悠理は、涙に濡れる清四郎の手を掴むと、泣き顔で微笑みながら立ち上がる。
「もういいんだ。愛してる、清四郎・・・・・」
そのまま悠理は、清四郎を抱きしめた。

遠くから、悠理が倒れたのかと思い、二人が走ってくる。
「悠理ちゃん!お嬢様!」

二人が見たものは・・・・・

清四郎の肩に手を置き、優しくキスをする悠理と、愛おしそうに悠理の頬を撫でる清四郎だった。




高原と言えど、暑かった夏は過ぎ、やがて早い秋がやってくる。
意識を取り戻した清四郎は、その後の治療と体力の回復のためしばらく入院生活を続けた。
そして、仲間や姉、両親との再会を果たした。


10月の初旬に退院すると、清四郎は悠理の別荘に移った。
リハビリのため、週に3度ほどサナトリウムに通い、暖かい午後にはスイカのようなお腹になった悠理と散歩をした。
サナトリウムを訪れると、いつもは車椅子で通っていた並木道を二人で歩く。
繋がれた手の温もりが、二人の思いも繋いでいた。
眩しかった緑が、いつの間にか真っ赤に紅葉している。
歩く度に、枯葉がザクザクと音を立てた。

「悠理、この先のホテルの裏に“幸福の谷”と呼ばれる場所があるのを知っていますか?」
「ううん、知らない」「少し回り道をして、行ってみますか?」
清四郎は悠理の手を持ち上げると、そう言った。
「うん」

清四郎となら、どこだって行く。
悠理は、ゆっくりと歩く清四郎の歩調にさえ幸せを感じていた。

少し歩くと苔生した石垣に挟まれた石畳の道に出た。
カラマツの木が生い茂り、木立に囲まれたその風景は、息をのむほど綺麗だった。
「綺麗・・・・・」
思わず、悠理は感嘆の声を上げる。
「この道はね、何年か前にここに別荘を構えた外国人がハッピーバレイと名づけたんですよ。素敵な名前でしょう?」
「へぇ〜洒落たことすんな」
「お前ね、料理や洗濯、掃除ができるようになっても、口が悪いのはなかなか治りませんな」
「なんだと!」

手を掴まれたまま、それを振り上げた悠理は、そのまま清四郎に抱きすくめられた。

お腹が邪魔をして、少しだけ距離を感じる。
二人そろって、クスクスと笑った。
「こいつが苦しいって」
悠理が、お腹を見て笑う。
清四郎も笑っていた。
「本当ですね」


ふと、清四郎が真面目な顔をして、悠理の手を持ち上げた。
そして、手の平にそっとキスをする。
「悠理、お前を愛しています。これから一生をかけて貴方を幸せにすると誓います」
悠理は、少しはにかんだ顔をすると、あたいだって誓うぞ、と微笑んだ。
「お前を一生かけて、幸せにする」

木立の中で交わすキスは、永遠の誓いを約束するものだった。

 




“罪が消えたわけではない それでも 未来がここにある”

Short sentence&イラスト By トモエさま


 




その、2日後、陣痛が始まった。
家族で、と言っても、別荘に住む全員でバタバタと準備をし、連絡役兼留守番のメイドを残して、4人で病院に向かった。

初産で細い体型の割りには分娩はスムーズで、入院して6時間後に可愛らしい男の子が生まれた。

ベビーは、バスタオルに包まれて分娩室の前で待つ清四郎元にやってきた。

「おめでとうございます。元気な男の子さんですよ。お母さんも元気です」
その言葉を聞いて、清四郎は安心感で崩れ落ちそうになった。
「お父さん、しっかりして下さい」
ベビーを抱いた看護師は笑い、ここまで付き添ってくれた運転手も助産師も笑いながら支えてくれた。


悠理が「お母さん」と呼ばれ、自分が「お父さん」と呼ばれることの面映さ。

看護師が、清四郎の腕の中にベビーを入れてくれた。
赤ん坊の手に指を差し出すと、ぎゅっと掴んでくる。
その力の強さに、たとえようのない幸福感が身を包んだ。

こんな幸せを手に入れるのに、自分は何と遠回りをしてしまったのだろう。
どれだけ悠理を苦しめてしまったのだろう、と思う。

清四郎は、悠理とこの子供を守り生きていくことを再度神に誓った。

「悠理、ありがとう」

ベビーの額にキスをした。




「野梨子ですか?」
『清四郎?』
「ええ」

『生まれましたの?』
「元気な男の子です。悠理も元気ですよ、皆にそう伝えて下さい」
『ああ、良かった。今皆でそちらに向かう準備をしてますのよ』
野梨子は、安堵と感動で泣いているようで、声が微かに震えていた。

「野梨子、これまで本当にありがとう。貴方が僕を助けてくれなかったら、今頃こうして子供を腕に抱くことはできませんでした。どれだけ頭を下げていいのかわからないほど、感謝していますよ」

野梨子は、山ほど高いプライドを持っていた男のセリフに笑いが込み上げた。
『あなたを助けたのは私だけじゃありませんのよ。皆にも家族にも高い頭を下げて感謝なさいませ。悠理にもですわよ』
「わかってますよ」
『わかっていればいいですわ』
相変わらずきつい野梨子に、清四郎は懐かしさを感じた。
それが嬉しい。

「では、こちらに来てくれるなら、気をつけて来てくださいね。魅録の運転なら大丈夫でしょうが」
そう言って、電話を切ろうとすると、野梨子が引き止めた。
『あ、清四郎』
「はい」

『おめでとう』
「ありがとう」

万感の思いとは、こういうことを言うのだろうな、と清四郎は思った。



ベビーが誕生した後、清四郎と悠理は、二人の名前で互いの両親に長い手紙を書いた。
二人が起こした不祥事を許して欲しいこと。
結婚式もせず、籍だけ入れたことを許して欲しいこと。
悠理は、安産で母子ともに元気でいること。
生まれた子供は、剣菱家よりの顔をしているが、目元は菊正宗の家の方に似ていること。
家族3人で幸せに生活していること。
これらに、ベビーの写真を添えて送った。



年が明けて、3月。
ミセスエールに連絡を取り、特別試験を二人で受けて卒業資格をもらった。
足りなかった通学日数は、悪い手ではあるが、休み中に課外活動で出た日数をそれに当ててごまかしてもらった。

そして、大学受験をしなかった清四郎は、4月に入って悠理にアメリカのハーバード大学を受験することを告げた。
「アメリカって、あたいとこの子を置いて行っちゃうの?」
不安そうに、涙目になっている悠理を抱き寄せた。
「馬鹿、置いていくわけないでしょう。一緒に行くんですよ」
「だって、あたい英語しゃべれない・・・・・」
「行くまでに勉強してください」
「げっ、それ命令かよ」
つい先日、子育ての合間を縫って高校の卒業試験を受けたばかりだというのに、また勉強。
悠理は、うんざりとした顔を見せた。

「んでも、何でアメリカ?」清四郎は、少し気を落ち着けてから、話始めた。
「僕が悠理を傷つけたことは・・・」
そこまで言うと、悠理は、ちがっ、と口を挟もうとしたが、清四郎は唇に手を当てて、それを防いだ。
「僕があなたを傷つけたのは事実です。あの事件のことを僕の両親も貴方の両親も世間から揉み消した。だけど、僕は病院に入院したし、救急隊の人だって現場を見てる。今は何事もないが、これからどんな噂が立つかわからない」
「そんな、噂なんて・・・・・」
悠理が、そんなの何でもない、と言うと清四郎は首を振った。

「僕らはそれで良くても、それを聞いた子供や家族は苦しむでしょう。そうならない為に、アメリカへ渡ろうと思ってます」

「アメリカへ行って?医者になんの?」
「いいえ、受験するのはメディカルスクールじゃない。ビジネススクールです」
悠理は、清四郎の意図がわからなかった。
「なんでビジネス・・・・・」
「お前は、今は剣菱の家を出ていても、あの家の娘であることには変わりない。これからだってどんなことに巻き込まれるかわからないでしょう?おじさんは、世界をまたに駆けて事業をやってる。僕もその同じフィールドに立ってお前を守りたいんですよ」
そう言って、清四郎は微笑んだ。
「それには、ハーバードへ行くことが一番なんです」

悠理は、清四郎が病んでいる時、自分が彼と子供を守るのだと決意していたことを思い出していた。

「あたいだって、お前が頼りになんない時、守ってやれるんだぞ」
ぶすっとした顔で言う悠理に、清四郎は笑った。
「そうでしたね、お前に僕は助けられた。これからもよろしくお願いしますよ」
「おう!」
悠理は、拳を上げる。


「で、悠理。さし当たってお願いなんですが」
「はい?」
もう?っと悠理は首をかしげた。

「僕も高校時代、株やらいろんな投資に手を出して、向こうで家族3人暮らすくらいの余裕はあると思いますけどね。メイドを雇うほどの余裕はありませんよ。協力して家事くらいやって欲しいんですけどね。できますか?」

「なんだ、そんなこと・・・・・・」
と言いつつ、顔が引きつった。
覚えたばかりの料理だが、まだ一人でやったことはない。
洗濯の失敗は頻回、掃除は苦手。食料の買出しだって一人でしたことはない。
育児だけは、なんとかやっている・・・・・状況。
「うっ・・・・・・」
言葉に詰る悠理を見て、清四郎は頭をポンポンと撫でた。

「秋までに何とかしましょう。英語も」
悪魔の家庭教師が復活しそうだった。



清四郎は、何の苦もなくハーバードに合格すると、悠理と子供を連れてボストンに渡った。
成田に見送りに来ていた、野梨子、可憐、魅録、美童は呆れていた。
「なんて男だよ、まったく。ケタが違うな」
「そうだよ、日本で大学受験もしないで何やってんのかと思えば」
「いきなり留学だなんて、びっくりさせない欲しいですわ」
「あ〜あ、寂しくなるわね」
と4人はそれぞれにぼやいていた。

 


それが、1年後。
野梨子と魅録は結婚し、なぜか魅録はMITに留学したと夫婦でボストンにやってきた。
「ハ〜イ」とそれにつられて可憐もやってくる。
「ジュエリーを勉強にきたの」とか言いながら。
そして、最後に、スウェーデンの大学を卒業した美童がやってきた。
「清四郎、事業始めるんだって?何か面白いこと始めるなら呼んでよ。有閑倶楽部は永遠さ」

世界をまたにかけるプレーボーイは魅力的な顔でウインクした。


結局、清四郎と魅録、美童はアメリカで貿易会社を設立し、可憐もそれを手伝って、有閑倶楽部が会社を作ったような状態になった。
日本の伝統文化を伝えられる野梨子は、社の華だったし、悠理はパーティーに慣れている。その手の企画には優れた能力を発揮し、アメリカ人他、世界中の客を喜ばせた。可憐も実家が宝石商なだけあって、商魂逞しく、事業をする為の戦力になる。
いつしか会社の規模は大きくなり、日本との取引も多くなった。

そんなある日、剣菱との業務提携の話が持ち上がる。
会長が直々に、商談に応じる、ということだった。
剣菱の会長ということであれば、それは万作のことだ。
万作が、清四郎に会うという。
それは、清四郎と悠理がアメリカに渡ってちょうど10年後のことだった。

「悠理、来週一時帰国しよう」
「へ?」
「両親に会うんですよ」

悠理が、涙を浮かべて微笑んだ。




10年前、清四郎と悠理から届いた手紙を万作と百合子は大切に持っていた。
許しを請う内容に、可愛らしい孫の写真と親子3人で写した幸せそうな写真が同封されていた。

そして、もう一つ大切に保存してある物。
渡米すると告げてきた清四郎の手紙。
そこには、悠理と子供を守りたいという清四郎の思いが切々と書かれていた。

娘夫婦がアメリカに渡って10年間。
送り続けられた写真とビデオの数々。
いつの間にか、二人の間に子供は二人いた。
二人目は可愛い女の子。清四郎によく似ている。

万作と百合子は剣菱邸に娘夫婦の部屋と孫の為の部屋を作り、屋敷中に娘一家の写真を飾って彼らが帰る日を待っていた。
いつ戻ってもいいように、部屋はいつでも整えられている。
そんな両親を豊作は何も言わず、笑って見ていた。



同じく10年前、菊正宗の家に届いた長い手紙と息子一家の写真。
清四郎の両親は、涙を浮かべてそれを読んだ。
請われるまでもなく、すでに二人を許していた。

そして、もう一通。今でも修平の涙の跡が残る手紙。
それは、渡米すると告げてきた清四郎の手紙だった。
修平に宛てられた一文には『お父さん、菊正宗病院の跡を継げず申し訳ありません。不器用な生き方しかできず、お父さんを苦しめたことをお許しください』と書かれていた。
「馬鹿息子が」
修平は、そう言いながら、涙を浮かべた。

この10年間、二人から送られてきたたくさんの孫の写真と手紙。
それは、菊正宗夫妻にとっても宝物だった。
息子が載っている経済誌の紙面も、きちんとファイルされ書斎に整理されていた。
これは、からかわれるのが目に見えているだけに、和子には内緒にしてある。


清四郎と悠理、二人の可愛い孫は、今日帰国する。

修平は、受話器を取った。
「万作さんですか?菊正宗修平です。成田で待っています。一緒に奴らを迎えてやりましょう」

 

 



end

 


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