激情編〜作:麗
「どうしたのですか?」
不意に、頭の上から声が聞こえた。 優しい、労わりに満ちた暖かな声。 ずっと、誰よりも頼りにしてきた、縋ってきた、友人の声。 けれど今は―――最も忌まわしいとさえ感じる声。
「どうして、泣いているのです?」
清四郎が、悠理の前髪を掻きあげ、瞳を覗き込むようにしながら尋ねてきた。 心の底から心配しているような、不安そうな、その声、その瞳。 ―――騙されない。 悠理の頑なに閉ざした心が、清四郎の心を受け入れる事を拒否する。 身体はもう、どうしようもない。でも心までは―――受け入れてやるものか!
清四郎の瞳を見ないように逸らした視線が、ベッドサイドのテーブルに置かれた盆の上で止まった。 盆の上には、清四郎が手ずから調えたらしい夜食。 そして―――林檎の横に添えられた、果物ナイフ。
凝固したように動かない悠理の視線を不審に思ってか、清四郎が振り向いて悠理の視線の先にあるものを探った。 清四郎がそれを認めたのと、悠理の身体が動いたのはほぼ同時だった。 清四郎はとっさに悠理の身体を押さえ込み、悠理がそれを掴むのを阻止しようとした。 だがスピードだけは悠理が勝る。 清四郎の腕をかいくぐると果物ナイフを掴み、部屋の外へと駆け出そうとした。 一糸纏わぬその身体で、部屋のドアへ向かって。 太腿の奥から、滴り落ちる和合の証さえも気に留めずに。
「悠理!」
清四郎の絶叫が後ろから追いかけてくる。 振り向かず、ドアノブを掴んで回した―――開かない!!
「…鍵が、掛かっていますよ」 清四郎の怒りを抑えた静かな声が、後ろで響く。 ゆっくりと、悠理の方へ向かって歩いてくる気配を感じる。
「愛していると、言ったじゃないですか…」 「永遠に僕だけだと言ったくせに…」
左手に果物ナイフを持ち、右手でドアノブを掴んだまま、悠理は恐怖に震えていた。 怖い、怖い、怖い、怖い!誰か助けて―――
「あれは……嘘ですか?」 急に、清四郎の声が震えた。 微かに、浅く息を吸う音が連続して聞こえる。 悠理はドアノブから手を外し、ゆっくりと振り返った。
3歩ほど離れたところに、清四郎が立っている。 じっと悠理を見つめ、その瞳から涙が次から次へとこぼれ落ちていた。 大切なものを無くした子供のような表情で、清四郎が泣いていた。
「悠理、愛しています……」 涙を流しながら、子供のようにあどけない表情で微笑み、清四郎が囁いた。 「愛してる……愛してる…愛してる…愛してる、愛してる!!」 囁くような愛の言葉が、絶叫へと変化していく。 その黒い瞳に浮かんだ狂気に、悠理はぞっとした。 清四郎の手が、悠理へと伸ばされる。 「逃げないで…悠理…僕の悠理……」
「やだ……来ないで!やだ、やだぁっ!」 清四郎を近づけまいと、悠理は目暗っぽうにナイフを振り回した。 だが易々とそれを除け、清四郎の手が悠理の手首を掴む。 ―――もう駄目だ。 目をぎゅっと瞑り、それでも逃れようと身体を捻った時、悠理の足が、己から滴り落ちた液で滑った。
ぐさ。 床に尻餅をつくと同時に、ナイフを持っていた腕に鈍い感覚があった。 ―――え? おそるおそる目を開く。 目の前に、清四郎の見開いた黒い瞳があった。 清四郎の視線が悠理の瞳を離れて下へ向けられるのにつられて、悠理の視線も後を追う。 清四郎の腹部に、悠理の手に握られた果物ナイフが、深々と刺さっていた。
「ひっ!」 悠理は小さく叫んでナイフから手を外し、後ずさった。 清四郎がナイフの柄を掴み、ゆるゆると顔を上げて悠理を見つめた。 その瞳には、先程までの狂気は欠片もなかった。 ただ、黒い、黒い、悲しみを帯びた瞳。
「悠理……」 ナイフを掴んでいない方の手を悠理に伸ばし、そっとその頬に触れるとわずかに微笑み、清四郎はその場に倒れ伏した。
イラスト By ネコ☆まんまさま
「せいしろうっ!」 床に四つん這いになって這い、悠理は清四郎に近づき、彼を抱き起こそうとした。 ぺたんと座り込み、清四郎を膝の上に抱え上げる。 「清四郎、清四郎、清四郎っ!」 清四郎の頬を叩きながら、必死で声を掛ける。 清四郎の身体が、段々に重く、冷たくなっていく…… 清四郎が…死んでしまう? 嘘……
「いやぁーーーっ! 誰もいない家の中に、悠理の絶叫がこだました。
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