「悠理の奴、おとなしく勉強してるかな?」
ふいに、美童が口にした。
珍しく男3人で集まった魅録の部屋で。


魅録と美童の馬鹿話に加わるでもなく、一人小説を読みふけっていた清四郎の視線が、一瞬彷徨った。
「まあ、野梨子が見てるんだから、大丈夫だろうよ。清四郎よか厳しいんじゃねぇか?」
「言えてる!『私が勉強を見ていたのに、いつもよりも点が下がったら困りますわ!』なんて言ってね」

魅録と美童は声を合わせてひとしきり笑ったかと思うと、きゅうにぴたりと笑いを止めて清四郎を見た。


「…何が言いたいんです?」
文庫本を膝に下ろし、落ち着いた声で清四郎が聞いた。
二人に視線をひた、と合わせて。


「……悠理と、何があったんだよ?」
唇を噛んでそっぽを向いた魅録の代わりに、美童が問うた。
「何があったと思うんです?」
清四郎は薄く微笑みながら、余裕の表情で聞き返した。
食えない男だ、全く」と、チッ、と小さく美童が舌打ちをした。


「素直に話してくれるとは思っちゃいないけどさ…あんまり悠理を傷つけるなよ。悠理だって、女の子なんだからさ」
いかにもフェミニストの美童らしい言葉に、清四郎は微笑み、ふと素直な問いを口にのぼせたくなった。
「教えてもらえますかね?美童」
美童は「ん?」と首をかしげて見せた。青い瞳が、きらりと光る。


「かけがえのないものをこの腕の中に抱いていたのに、その大切さに気付かなくて、手放してしまった…」
清四郎はどこか遠くを見るような目で話し出し、つ、と視線を美童に合わせて聞く。
「そんな時は、どうしたらいいんですか?美童」


暫くの間の、沈黙。
ほう…美童は、息をひとつ吐き出した。
「土下座でもすれば?」
冗談めかした口調。しかしその青い瞳は真剣な光を放っていた。
つ、と片方の眉を上げ、清四郎は無言で唇をぎゅっと引き結ぶ。
「まぁ、そんなことがお前にできるとは思わないけどね」
追い討ちのような美童の言葉に、清四郎は視線を逸らした。


山よりも高いプライド。

それさえなければ、彼はとっくに悠理に許しを請うていただろう。
けれど、そのプライドも彼を構成するひとつの要素であったから、自分が悪かったとわかっていても素直にそれを認めることが出来なかった。

たとえ毎夜、悠理恋しさに眠れぬ日々を過ごしていても。



*****



夕焼けの色が、鮮やかに街を染めている。
清四郎は一人、自宅への帰路を歩いていた。
先程の会話の後、なんとなく気まずくなり、魅録の家を辞したのだった。
悠理の家に向かおうかとも思ったが、野梨子のいるところで話をすることも出来ないと、仕方なく自宅に戻ろうとしていた。

足が重い。
また今日も、悠理のことを思ってうだうだと苦しい夜を過ごすのか。


思いつめ、俯いていた視界の端に見慣れた姿が映り、清四郎は顔を上げた。
通りの向こうを歩いていく、おかっぱ頭の楚々とした姿。
野梨子だ。
清四郎の姿に気付くこともなく、家路を急いでいるようだった。
時計を見ると、6時過ぎ。


不意に胸の中に突き上げてきた衝動に押され、清四郎はきびすを返して走り出した。

野梨子がここにいるなら、今、悠理は一人。
悠理が一人でいるのなら、僕は彼女に話したい事がある―――



*****




広い窓の外に、夕焼けの色が広がっている。
部屋のソファに座り、悠理は野梨子に採点してもらったテストの擬似問題を見返していた。
一人で間違ったところをもう一度やり直すように…と、余白に野梨子が解き方のヒントを赤ペンで書き込んでくれている。

帰る、という野梨子に、「もう帰んの?清四郎はもっと…」と言いかけると、
「清四郎は、何かと理由をつけて少しでも悠理と一緒にいたかったのでしょうね」
と、野梨子は口に手の甲を当て、ほほ、と笑った。


清四郎…

いつの間にか、悠理の心は清四郎との思い出に向かう。
「さぁ、特訓開始です」と擬似問題を取り出すときの、何故か嬉しそうな清四郎の表情。
「全く、何でそんなことがわからないんです?」と怒りながらも、辛抱強く教えてくれていた。
いつも、頭を掻きながら問題に取り組んでいる最中に、ふと見上げると優しい瞳がそこにあった。

問題を解き終わると、「よく頑張りましたね、えらいぞ」と言って、頭を撫でてくれた大きな手。
そして、与えられる口づけ。

「ご褒美ですよ…」と抱きしめられ、愛撫を受けた。
そのときの、清四郎の体温―――


コンコン。
ふいに聞こえた
ドアをノックする音に、悠理ははっと我に返った。

野梨子が戻ってきたのかと思った。
「野梨子?何か忘れもん―――」



ドアを開けたのは、清四郎だった。




「悠理……」
思わずソファの上で身を強張らせる悠理に向かって、清四郎は大股で歩み寄った。
悠理の前に立ち、強張った表情で悠理を見つめる。
ドサ…清四郎の学生鞄が床に落ち、重たい音を立てた。
悠理がそちらに目をやったとき、清四郎が膝を折るのが見えた。


「悠理……許してください…」
跪いた清四郎が、悠理の膝に手を置いて悠理を見上げた。
その、怖いくらいに真剣な瞳に、悠理は言葉を失った。
身を強張らせ、押し黙ったままの悠理に、清四郎は唇を噛んだ。
ここへ来るまでに考えた言葉が、何一つ口から出てこない。
ただ、縋るように悠理の顔を見上げ、清四郎も黙り込んだ。
重苦しい空気が漂った……


「教えて…清四郎」
沈黙を破って、悠理が問いかけた。清四郎が、軽く頷く。
「…なんで、あたいを抱いたの?なんで……何度も、何度も…」
問いかけながら、悠理の大きな瞳が潤んだ。ぽろり、と涙が零れ、言葉が途切れた。
清四郎が悠理の頬に手を伸ばして、そっと零れた涙を拭い取った。



「悠理のことが…好きだから、です」
掠れた声が、悠理の耳に響いた。

 


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