「とっ、あれ?」

放課後の生徒会室。
悠理は部室の重厚な書棚の最上段にある本をとろうと苦戦していた。
女子としてはかなり背が高い悠理ではあるが、あと数センチと言うところで、指が届かないのだ。


「これですか?」
背後から、低い声が聞こえた。
すっと長い腕が伸び、悠理が取ろうとしていた本を難なく書棚から引き出した。
弾みで、彼の胸が悠理の背中に触れ、悠理は思わず身を硬くした。
「どうぞ」
黒い瞳が、穏やかに悠理を見つめる。
「…サンキュ」
そんなつもりはないのに、消え入りそうな声しかでない。
「……」
一瞬の、沈黙。



「悠理、あったか?」
生徒会室のドアが開いて、魅録が顔を出した。
「うん、あった、あった!」
悠理はわざと大きな声で答え、清四郎の身体を交わすようにすり抜けると、本を抱えて魅録のもとに走った。
バタン、とドアが閉まる。
取り残されたのは、清四郎。
小さく溜息をつくとテーブルに戻り、やりかけていた書類の整理に取り掛かった。
その口元は、苦々しげに歪められていた。


悠理と清四郎が身体だけの関係に終止符を打ってから、ひと月が経とうとしていた。
はじめのうち、悠理の清四郎に対する態度に変化はないように思われた。
しかし最近では、悠理の気が緩んできたようだ。
先程のように身体が触れそうになると、悠理ははっきりと身を強張らせる。

 

「触れられるのも、嫌という事ですか…」
清四郎はそう呟き、先程部屋を出て行く際に、何気なく悠理の背に添えられていた魅録の手を思い出し、嫌な気分になった。

そういえば昼休みも、美童に髪をくしゃくしゃと撫でられていた。
それは、いつも清四郎が癖のように悠理に対してしていたことであったのに。
今自分が頭を撫でようとすれば、悠理はきっとその手をかわすだろう。
自業自得。そうとは感じながらも、清四郎はいい気持ちがしなかった。

なんだか、むしゃくしゃする。

 

――これ以上部室にいても、一向に作業を進める気分にはなれない。
そう判断した清四郎は、書類を鞄に詰め込むと部室を後にした。
ちらりと、悠理と最後に身体を交わした窓枠に視線を投げかけて。



*****




自宅に戻ると、清四郎は制服からトレーナーにチノパンに着替えて机の前に座った。
そういえば、もうすぐ中間試験だ。
悠理のための擬似問題を作ってやらなければならない。
教科書とノートを取り出し、パソコンを起動させた。
暗い起動画面に、部屋の中が映る。
悠理と初めて、そして何度も身体を交わしたベッド。
思い出の中の悠理の肢体が、脳裏に浮かんだ。


肉付きの薄い、少年のような身体。
だが、胸の膨らみや臀部の丸みは間違えようも無く、女だった。
身体のラインに沿って手を滑らせ、唇を這わすといつも切なげに啼いた。その、甘い声。
秘めた部分に顔を埋め、舌で刺激すると跳ねる背中、彼の髪を掻き乱す白い手。
彼女の中に自分を埋め込む時、いつも涙を一杯に溜めて見返してきた、色の薄い大きな瞳。
あの表情が堪らず、いつも激しく口づけた。狂おしいほどに。
穿ち続けるほどに、絡み付き締め付けてくる温かな内部。
清四郎の腰を捉えて離さぬ長い足。
絶頂を迎えるときの、彼の名を呼ぶ声。
そして頭の芯が痺れるような―――


清四郎は
思わず、自分自身を握り締めた。
熱を持ち、硬く起ち上がってくる男の象徴。
突き上げてくるような、強い欲求を感じた。

 



清四郎は、自慰を好まない。

自分で慰めた後の虚しさを味わうくらいなら、恋愛感情など持てない相手でも、生身の女性の身体で冷ます方がいいと思っている。

だから今までは、健康な男子としての欲求を感じれば、迷わず夜の街に出ていた。
人並み外れた容姿を持つ清四郎にしてみれば、一夜の相手を見つけることぐらい、容易い事であったから。
けれどそれは、
悠理を抱くまでのこと。悠理の身体を知るまでのこと。
今は、悠理以外の女など抱く気にもなれない―――



舌打ちが漏れた。
忌々しげに唇を噛み、清四郎はティッシュの箱に手を伸ばした。
ズボンのファスナーを下げ、自分自身を取り出した。
射精しなければ収まらない、熱い高ぶり。
軽く宙を見上げて目を閉じ、ゆっくりと手を動かした。
思い描くのは、悠理の身体。思い出の中の、彼女を犯す。
熱い息が漏れ、手の動きが早くなる。
自らの指で先端を刺激し、快感を高める。
瞼の裏で、悠理が喘ぐ。
自分に抱きつき、嬌声を上げる姿。目に涙をため、自分を求める姿。
手の動きが、いっそう早まる。
そして、目の前が白く発光した―――


大きく息を吐き出し、清四郎は右手の動きをゆっくりと止めた。
身体の熱が収まると共に、なんとも言えぬ後味の悪さを覚えた。
自分が酷く汚れた存在であるかのような、酷く小さく、猥雑な存在であるかのような、

嫌悪の情。
――自分など、所詮ただの愚かな男に過ぎない。

 

ティッシュを握り潰すかのように丸め、ゴミ箱に叩き込んだ。
両手で頭を抱え、机に肘を突く。
「ゆう…り」
かすれた声で
、呟いた。

 



悠理と身体の関係を持っていた数ヶ月、いつも行為の後に清四郎は罪悪感を感じていた。
悠理が何故、抵抗もせずに自分に抱かれるのかがわからなかった。
別に自分に恋しているわけでもないのに。
「何故、僕に抱かれるのですか?」
そう聞いても、悠理はいつも薄く笑うだけで答えようとはしなかった。
おそらく、悠理にも答えようがないのだろうと思っていた。
ただ、身体の快楽を覚えてしまい、それを求めているだけだったのだろうから。
こんなことは、間違っている。終わりにしなければならない。
そう思いながらも、悠理の肌に溺れていた。
だから、悠理が「お前とはもう寝ない」と言った時、何故とも聞かずにそれを受け入れた。
当然の帰結だと思った。
恋愛感情の持てない相手と身体だけの関係を続けることの矛盾に、悠理は思い当たったのだろうと思った。



あの時、本当は聞きたかった。
もう一度、「何故、僕に抱かれていたのですか?」と。
そこに本当に、何の感情も無かったのかと。



―――僕は本当に愚かな男だ。
自慰の後の空虚な感情の中で、清四郎はやっとひとつのことに気が付いた。
いつもいつも悠理が自分に抱かれる理由ばかりを考えて、自分が何故、彼女を抱くのかを考えなかった。
何故いつも、彼女が自分を求めてくるまで執拗に責めていたのか。
何故いつも、自分に貫かれたときに彼女が見せる表情に、胸が締め付けられるような思いを味わっていたのか。
あの涙で一杯の瞳の中に、自分が何を求めていたのか。
たとえ、ほんの僅かな煌きでもいい、自分への「想い」を探していたのではなかったのか。
何度も「何故」と問いかけたのは―――


「悠理…ゆう、り……」
失った存在の大きさに、今になって気が付いた。
身体だけではない、心の底から湧き上がる、喪失感。
自分は取り返しのつかない間違いを犯してしまった。
何よりも大切な存在を、この腕に抱いていたのに気付かなかった。
身体を繋ぐだけで、心を繋ぐことに思い至らなかった。
もう遅い? もう、戻れない?



悠理……お前と心を繋ぐ機会は、まだ与えられるだろうか?




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