2.
「何か、気分悪い」 そう言って悠理は早々に帰宅していた。 家に帰り着いても、悠理は今までに感じたことのない感情に戸惑っていた。 清四郎に対する、暗い怒りの感情。 生まれたときから周囲の人に愛され、何不自由なく暮らしてきた悠理は、正義感からの怒りを抱くことはあっても、人を妬んだり憎んだりといった負の感情とは無縁の生活を送ってきた。 それなのに―――
清四郎が、憎かった。 散々自分の身体を貪ったくせに、その感触も消えぬうちに自分を「女に見えない」と言い放った無神経さが。 そして同時に、悲しかった。 「女に見えない」それは確かだと思えたから。 仲間の可憐や野梨子と違って、自分には女らしい身体の線や魅力などが欠けているのは承知していた。 でもそれを清四郎に言われるなんて… 湧き上がってきた涙を止めることも出来ず、悠理はクッションを抱きしめて泣きじゃくりだした。 腹が立つ、悔しい、悲しい。 清四郎なんか、だいっキライだ……
コンコン。 軽いノックの音がした。 「悠理?入りますよ」 今一番聞きたくない、男の声。 ドアが開き、入ってきた男の顔を悠理は睨み付けた。 まだ、涙がその頬を濡らしていた。
「悠理、どうしたんです?そんなに気分が悪いのか?」 泣いている悠理を見て、清四郎は驚いたらしい。 気遣わしげにそう言うと、ソファの悠理の隣に腰掛け、清四郎は悠理の額に手を当てた。 「…熱はないようですね。薬をいくつか持ってきたから、どこが気持ち悪いのか言ってみろ」 「……」
清四郎は、面倒見がいい。 悠理が風邪を引いたり気分が悪いといえば、いつも帰宅後に薬を携えて尋ねてくる。 だから今日も、来るだろうとは思っていた。
「悠理?」 黙り込んだまま自分を睨み付けている悠理を不審に思ってか、清四郎は訝しげに瞳を覗き込んできた。 じっと探るように、黒い瞳が悠理を見つめる。 すっと清四郎の手が伸びてきて、悠理の頬に触れた。 そのまま、その手を悠理の髪の中に滑らせると、引き寄せられた。 ―――口づけられる?
「…やっ!」 悠理は瞬間的に顔を背け、身体を捻って避けた。 清四郎の手が、宙に残された。 「悠理?」
不審げに、清四郎は悠理を見つめた。
「……お前とは、寝ない」 「え?」 「もう、お前とは寝ない!」 「……」 叩きつけるように、そう言った。 心臓がどきどきする。目が眩みそうだ。 身体を背け、悠理は清四郎の答えを待った。
「…そう、ですか」 静かな清四郎の声。 悠理は驚いて振り返り、彼の顔を見つめた。 「何故?」てっきり、そう問われると思っていた。
「そうですね、こんなことはもう終わりにしなければならない」 目を細めて、悠理は清四郎の本意を探ろうと彼の顔を見詰めた。 けれどそこにあるのは、あくまでも穏やかな彼の表の顔。 「今まで…すみませんでした。悠理」
――すみませんでした? 一瞬、意味がわからず目の前がぼやけた。 そんな言葉を言われるとは、思ってもみなかった。 たたそれだけの言葉で、関係を解消されるとも。
自分が「もう寝ない」と言ったのに、自分から、関係を解消する気だったはずなのに。 悠理の中で矛盾した感情が沸きあがってくる。 ―――これでもう、終わり?
「なんて顔してるんですか」 クッと小さく笑うと、清四郎は悠理の髪をくしゃくしゃと撫でた。 いつもそうする時と同じ、優しい瞳で。そして急に、不安げな色がその瞳に浮かんだ。 「…でも、友人としては今までどおりに付き合ってもらえますよね?」 「あたりまえだろ」 考えることもなく、悠理は答えていた。 「許せない」さっきまでそう思っていたくせに、友人としての清四郎まで失うのは、悠理にも耐えがたかった。
「良かった…ありがとう、悠理。今日はもう帰ります」 ソファから立ち上がると、清四郎はゆっくりとドアの方へと歩き出した。 ドアの前まで来ると立ち止まり、ソファの方へ振り返った。 「悠理…」 一瞬、何か言おうとするように清四郎の唇が開いた。 1秒…2秒…逡巡するように間が空いた後、おやすみ、とだけ言って、清四郎は帰っていった。
清四郎が帰った後、悠理はぼんやりとソファの前のテーブルに目をやった。 テーブルの上には、清四郎が置いていったいくつかの薬の包みが残されていた。 それぞれ色の違う薬包紙に、ひとつひとつ「頭痛」「腹痛」「風邪薬」と薬の種類が清四郎の几帳面な字で記されている。 「どうせおまえのことだ、口で説明しておいてもすぐに忘れてしまうだろう?」 そう言って笑う、清四郎の顔が見えるような気がした。
*****
―――その夜。 真夜中に、肌寒さを感じて悠理は目を覚ました。 肩が、背中が、ひやりとしている。 悠理は布団を身体に巻きつけて、目を閉じた。 明日からは毛布を追加した方がいいな、と思いながら。
この数ヶ月の間、清四郎の腕に包まれて眠ることが多かった。 行為を終えた後、うとうとしている悠理をいつも清四郎のたくましい腕が包んでくれていた。 温かい胸に顔を摺り寄せて目を開くと、いつも穏やかな黒い瞳がそこにあった。 微笑む清四郎と、まるで小鳥のように唇を触れ合わせ、舌を絡め、軽いキスを何度も交し合っているうちに、いつしかどちらともなく眠りに落ちていく。
そんな夜が、悠理は大好きだった。
罪悪感なんて、感じなかった。 間違っているとも、思わなかった。 ただ肌を合わせることが、自然なことだと感じていた。
悠理は布団の奥深くに潜りこみ、ぎゅっと目を瞑った。 小さな肩が、小刻みに震えた。
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