第3章 前編

 

 


薄ぼんやりと曇った午後だった。
セイシロウはいつものように、言いつけられた仕事を淡々とこなしていた。
胸中に浮かぶのは、ユーリのこと、ビドー王子のこと、そして自分に課せられた運命のこと。

我知らず小さく溜息をつき、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
ビドー王子に再会してから、ふた月程が経過していた。
あれからミロクは、しばしばセイシロウの元を訪れるようになっている。
かといって、別にビドー王子の計画への参加を勧めるでもない。
いつも何かしら酒類などを持参し、ただセイシロウと話すことを楽しんでいるようであった。
セイシロウにしても、今まで同性の友人と語り合うことなど無きに等しい生活だったので、ミロクと話すことは楽しみだった。

―――不思議に人を惹き付ける男ですね。
そう思う。ユーリが仲良くなった理由も、ビドー王子が信頼する理由もよく分かる様な気がする。
正義感が強く、真っ直ぐな性格。どこか屈折していると自覚しているセイシロウには、眩しくさえ思えた。
ふと昨夜、ミロクが帰る際にぽつりと言った台詞が浮かぶ。
「ノリコがさ、会いたがってたぞ。お前に。」
俯いたまま、足元の地面を蹴りながら呟かれた台詞に、彼の恋心が知れた。
「…ノリコが慕っているのは幼い時の僕ですよ。今の僕じゃありません」
セイシロウは、きっぱりとそう言えた。
―――ノリコがあなたの方を向くのは時間の問題だと思いますがね。

その言葉は口にしなかったが。



***





そんなことを、ぼんやりと考えながら仕事を続けていたセイシロウは、不意に自分の前に立った人影に気付き、驚いて顔を上げた。
「…ホウサク様」
ユーリの兄ホウサクが、相変わらずの人のよさそうな微笑を浮かべて、そこに立っていた。

 

「久しぶりだね、セイシロウ。元気かい?」
「はい。いつこちらへ?」
「今朝着いたところだよ。ユーリの乳母に呼ばれて、あれの様子が気になってね」
「ユーリ様の…?」
「乳母から何も聞いていないのかい?」
穏やかに問いかけられて、セイシロウは思いを巡らす。確かに、ユーリがここの所ずっと伏せっているのは聞いていた。
気にはなっていたが、あの日以来ユーリに呼ばれることはないし、お召しもないのにのこのこ部屋へご機嫌を伺いに行くことも出来ない。
「ご気分が優れないようだとは伺っておりますが。何処か身体がお悪いのでしょうか?」
ぎゅっと心臓を掴まれるような気がする。

「……ちょっと、いいかい?」
ホウサクはやや逡巡した様子だったが、声を潜めてセイシロウを誘った。
セイシロウは頷き、抱えていた天使を模した像をそこに置くと、他の奴隷たちに目くばせし、許しを得た。

 

「また変なものが増えたようだね」
ホウサクは、セイシロウが置いた像を目に止めると顔を顰めた。
「奥様が、ご旅行先で買ってこられたんですよ。少し庭の様子に手を入れたいということで」
「いい方に変えてくれるといいけどね…」
たいして期待していない様子で呟き、セイシロウを庭の一角にある東屋に連れて行く。
東屋は木立に囲まれていて人気がない。どうやら人に聞かれるのを憚る様なことらしい。

 

東屋に据えられた長椅子に腰掛けると、ホウサクは腕を組み、前に立つセイシロウを見上げた。
「あれの乳母やが言うことにはね…」
そこで一旦口をつぐみ、言い辛そうに続けた。
「…あれは懐妊しているらしい」

 

セイシロウの目が大きく見開かれた。と同時に胸が怪しく騒ぎ出し、こめかみに汗が浮かぶ。
「相手はお前かい?セイシロウ」

セイシロウは視線を彷徨わせた。
ユーリが懐妊しているとすれば、お腹の子の父親はまず、自分であろう。
ユーリは初めてだったし、あの後で他の男に身を任せたとは思えない。
だが、何と答えれば良い?
もとより言い訳も言い逃れもするつもりはないが、それをホウサクに何と告げればいいのか。
セイシロウには、あの時ユーリが自分を求めたのは、自分を愛するが故ではなく、
お気に入りのおもちゃを取られることを恐れた子供っぽい独占欲からとしか思えなかった。
何と答えればいいのだろう?なんと言えば…

何度も口を開きかけては、またつぐむ事を繰り返しているセイシロウの様子に、ホウサクは溜息をついた。
「やはり、そうなんだね。セイシロウ」
「…確かに…一度、ユーリ様と…その…契りを交わしました」
そう言ってしまうと、セイシロウは改めて何と大それたことをしたことか…と顔色を無くす思いであった。
ただ一度の戯れといっても、ユーリはそれで自分の子を宿してしまった。
このことが旦那様…いや、奥方様に知れれば、自分は間違いなく殺されるだろう。
いや、自分が殺されるのは覚悟の上だが、ユーリは…お腹の子は…

「…まあね、いつかはこんなことになるんじゃないかとは思っていたんだけど…」
思い悩んでいたセイシロウは、ホウサクのその言葉に弾かれたように顔を上げた。
ホウサクは存外にも、セイシロウに優しい目を向けていた。
「お前とユーリがお互いに思いあっているのはわかっていたからね。でもね…」
その言葉に驚き、ホウサクを見つめるセイシロウに、諭すように言葉を続ける。

 

「子供が出来たというのはね…ユーリは産むと言ってきかないんだけど」
「ユーリ様は…子供を産むと?」
「ああ、今朝着いてすぐにあれに会って説得したんだけどね。相手の名前は言えない、子供は産むの一点張りでね」

 

そうであろうと、セイシロウにはわかる気がした。
ユーリの性格からして、セイシロウに累が及ぶことは口が裂けても言わないであろうし、子供を水に流すなど考えもしないだろう。

 

だが、ユーリが…子を産むと…自分の子を産んでくれると…

 

そんなセイシロウの感慨は。ホウサクのきっぱりとした声に遮られた。
「お前の口から、ユーリを説得してはもらえないかい?子供を、その…」
ホウサクはその先を言いよどんだ。セイシロウの顔に苦渋の色が浮かぶ。
「僕の口から…ですか?」
「ああ、辛いだろうけどね、でもこれがお前に科せられた罰だよ。」
椅子から立ち上がり、困ったような顔をして言い添える。
「この事はまだ父上にも母上にも知らせていないんだ。母上に知られたら…二人とも無事では済まないからね。」
さあ、ユーリは部屋にいるから…とセイシロウを促して歩きかけたホウサクの前に、ユーリの乳母がぱたぱたと泡を食ったように駆けて来た。

「ホウサク様!お嬢様が!」
「ユーリがどうかしたのかい?」
泣きそうな顔をしている乳母に向かって、ホウサクはおっとりと問いかけた。
「ちょっと気晴らしをしてくると言われて、馬でお出掛けに…もうじき雨になりそうですのに…」
「馬で?また馬鹿なことを…」
「…僕が捜して参ります。」
絶句するホウサクの横をすっと通り抜けながら、セイシロウは足早に厩へと向かった。
「頼んだよ、セイシロウ」
…もうひとつの事もね。ホウサクは胸の中でそう言い添えた。



「それで、ユーリ様は何処へ行かれると?」
厩に着くと、セイシロウはスクリオを囲いから引き出しながら、顔馴染みの馬丁に尋ねた。
「さぁ…ただちょっと行ってくるって言って。リゼルヴァに乗ってさっさと行っちまったんで」
馬丁がボリボリと頭を掻きながら答える。
セイシロウは小さく溜息をつくと考えた。この屋敷に来てからもユーリとは何回か遠乗りをしている。その時に行った内の何処かか…

セイシロウは、今にも降り出しそうにどんよりと曇った空を見上げた。
―――くそっ、あちこち探している時間などなさそうだ。

 

「スクリオ、ユーリとリゼルヴァが何処へ行ったかわかるか?」
馬に乗り、たてがみを撫でながらそう尋ねると、スクリオは頭を振り上げ、一声高くいなないた。
「よし、いくぞ!スクリオ」
ひとつ腹に蹴りを入れると、スクリオは真っ直ぐに走り出した。



***





「なんか遠くまで来ちゃったなぁ。」
ユーリはリゼルヴァから飛び降りると、手綱を引いて歩き始めた。
「雨も降りそうだし…」
つと、空を見上げて呟く。
ユーリは、屋敷からかなり離れた木立の中にある、湖の側に来ていた。

 

 

いつか、セイシロウと二人でここに遠乗りに来たことがあった。
あの日は天気が良く日差しも暑かったので、ユーリはここに来ると足を湖に浸して、ばしゃばしゃと水を跳ね上げたものだった。
「気持ち良い!」
そう言って振り返ると、穏やかに笑うセイシロウの姿があった。
―――何処で間違っちゃったんだろう?
ユーリは込み上げて来る涙を抑えようと、強く唇を噛み締める。
―――こんなに好きなのに。あいつの顔を見るのも辛くなっちゃうなんて。

 

今朝のホウサクの言葉を思い出す。
「ユーリ、お腹の子の父親は誰だい?」
「お前が言わなくても、薄々わかってるよ」
「その子を産むことは出来ないよ。わかるね、ユーリ」

わからない…わからない…わからない…
なんでだよっ!あいつの子なのに。産んじゃいけないなんて…

ふらふらと、ユーリは湖に向かって歩き出した。
あの日みたいに湖に足を浸せば―――あの日に戻れるかもしれない。


「ユーリっ!」
ふいに名前を呼ばれ、後ろから抱きすくめられた。
「…え?…」
「ユーリ、この馬鹿!何をするつもりなんです?」
って。え、セイシロウ?
「変なことを考えないでください。あなたがいなくなったら、僕はどうやって生きていけばいい?」
強く抱きしめられ、首筋に埋められたセイシロウの顔。耳元で囁かれる声に、ユーリの五感が麻痺する。

「セイシロウ…何でここにいんの?」
ようやく、ユーリは言葉を絞り出す。
「乳母からあなたが馬に乗って出て行ったと聞いて…探しに来たんですよ」
「…よくここがわかったなー」
抱きしめる腕の力強さに、うっとりと笑みがこぼれる。
「スクリオが連れてきてくれたんです。それより…ホウサク様から聞きましたよ。あなたのお腹に僕の子がいると。お願いですから、その子と一緒に死のうなんて思わないでください」
「死ぬ?誰が?」
思いもかけないことをいわれて、ユーリは聞き返す。その問いに今度はセイシロウが驚く。
「誰がって…今、湖に入って行こうとしてたじゃないですか」
「あたしはただ、足を浸そうと思っただけだよ。何で死ななきゃいけないんだよ」
むっとしたようにそう言い返されて、セイシロウは唖然とした。だがすぐにくっくっと笑い始めた。
「確かに…あなたが死のうなんて考える訳はないですね。ああ…」
安心したとたんに力が抜けたのか、セイシロウはその場に座り込んでしまった。ユーリを膝の上に乗せて。


しばらくの間二人は何も口をきかなかった。
セイシロウはユーリを抱きしめ、その首筋に頭を埋めたままだ。ユーリは自分を抱きしめる腕に両手を添えていた。
「ユーリ」
ようやくセイシロウが口を開いた。その声の甘さにユーリの口元が綻ぶ。
「本当に、僕の子を産むつもりですか?」
「うん」
「母親のあなたが貴族でも、父親の僕が奴隷であれば、その子は奴隷になるんですよ。それでも?」
「いいよ」
ユーリはゆったりと笑って答えた。
「この子が奴隷だというんなら、あたしも同じ奴隷の身分に落ちるから」

 

セイシロウは顔を上げ、信じ難い思いでユーリの顔を覗き込んだ。
ユーリはセイシロウのほうへ顔を向け、その瞳を見つめ返す。微笑んだまま。

 

さぁっと雨が降りだした。全ての誤解や惑いを打ち流すかのような雨が。


 

身体に当たる雨粒にセイシロウは我に返り、近くの木の下へとユーリを連れて行った。

幸い枝葉が良く茂っていて、雨に濡れる心配はない。
次にスクリオとリゼルヴァも近くの木に繋ぎ、積んできた毛布を取ってセイシロウはユーリの元に戻った。
ふわり、と毛布を広げてユーリと自分を包み、後ろから抱きしめた。

 

「ユーリ、今の話ですけど…」
「んー?」
セイシロウは、後ろからユーリの顔を覗き込むようにしながら尋ねる。
「あなたも奴隷の身に落ちるって…何故そこまでしようと?」
ユーリはきょとん、とセイシロウの顔を見返した。
「なんでって…お前のことが好きだから…お腹の子だって大事だし…それで、一緒にいられるなら…」
切れ切れにようやくそう言い終えると、ぎゅっと唇を結び、射るような瞳でセイシロウを見た。

 

「……」
ユーリのあまりにも真摯な瞳に、セイシロウは一瞬言葉を失った。
「僕を…好きだから?ユーリ、それは…一人の男としてですか?」
しばらく後に、口を開いたセイシロウの声は、ひどく擦れていた。
ユーリはぎゅっと眉を顰める。こんなにはっきり言っているのに、何でわからないんだ。この男は…

 

 

「他にどういう『好き』があるってんだよ!この朴念仁」
その言葉に―――
今度こそはっきりとセイシロウは悟った。
自分が一人の男として、ユーリに愛されていると言うことを。


 

「じゃあ、あの時僕を求めたのは、僕を好きだからだったんですか?だったら僕は…」
抱きしめる手に力を込める。
「あなたに酷いことをしてしまった」
「お前が悪いんじゃないよ。あの時はあたしだってわかってなかったんだから。何であんなに腹が立ってたのか」
悠理は軽く首を振りながら、セイシロウの方へ振り向いた。
「お前を誰にも渡したくなくって…自分の物だって確かめたくって。でもそれが何でだかわかんなかった…」
「ユーリ…」
「でも今はわかってる。お前を愛してるからだったって…」
その言葉に、セイシロウは強く強くユーリを抱きしめた。

 

「ユーリ…愛してる…」
ずっと言いたかった、でも言えずに心に秘めていた言葉を囁く。
「セイシロウ…あたしも愛してる…」
吐息のようなユーリの言葉が、セイシロウの身体に火をつけた。ためらいなど無かった。
ユーリの白い首筋に顔を埋め、そこに口づけを落とす。
「ん……」
ユーリが喉を反らせる。その喉元に唇をつけ、強く吸った。
「あ……」
そのまま唇を滑らせ、鎖骨を辿り胸元へと口づけを繰り返す。
顔を上げ、見つめあう。唇を軽く触れ合わせる。
もう一度強く抱きしめ、そっと身体を横たえた。雨音が激しくなる…

唇を合わせる。雨の所為で冷たくなっていた互いの唇が熱を持つ。
吐息を絡め合い、ねっとりとお互いの口中を探る。
ユーリの腕がセイシロウの首へと回され、手の平が逞しい肩を撫でた。
ふと、指先が肩に刻まれた刻印に触れる。一瞬戸惑う指。だがやがてゆっくりと愛しげにそれを辿る。
―――この刻印までも愛してる…。心が、震える。

 

セイシロウの愛撫がユーリの全身を這う。
柔らかな胸を味わい、まだ膨らみを感じさせない腹へ、そしてその下に息づく花弁に。
「あ…あ、うん……」
思わず声を上げ、跳ね上がる背中をセイシロウの逞しい腕が抱きしめる。
思うさま花弁に潜む蜜を味わう。舌を深く差し入れ、蜜を掻き出す。
「う…ううん……あっ、ああっ……」
ユーリの声が一段高くなる。セイシロウの背に回した腕に力が籠もり、やがて緩む。

ゆるゆると、舌と唇による愛撫をもと来た道へと辿らせる。
唇が二人の愛の結晶が宿る場所に辿り着くと、愛撫は優しく、愛しげなものに変わった。
セイシロウは、自分自身が今までに感じたことがないほどに高鳴っているのを感じる。

 

ずっと欲しかったものをやっと手に入れた。彼女の心さえも。

 

もう押さえつけている事など出来ない、自分を彼女の中に触れさせたい。
身体をぴったりと重ねるようにして腰を押し付け、熱く屹立した自分自身を花弁の中に潜り込ませる。
「う…くっ…」
「あ、ああん!」
同時に声が漏れる。
全身に響くような快感に、すぐに限界に達しそうになるのを必死で押さえ、腰をゆっくりと押し付けるように動かす。
両手でユーリの弓なりにしなる背中を抱き、掌で優しく撫でながら。
「ユーリ…愛してる…愛してる……」
そっと耳朶を甘く噛むようにして囁き続ける。
「…あ……や…くう…ん……んっ!ううんっ…」
ユーリの口から漏れる嬌声が激しくなる。
その声を奪い取るかのように唇を合わせ、強く吸う。セイシロウの律動が早まる。
ほどなく、目も眩むような快感が身体を突き抜けセイシロウは自分を解放した。
「ユーリ…ユーリッ」
愛しい人の名を呼びながら。



***





降り続いていた雨が、勢いを弱めてきた。
「ユーリ…寒くないですか?」
後ろから抱きしめた、腕の中の愛しい人に尋ねる。
「ううん、大丈夫。すごくあったかい」
振り返って微笑むその唇に、もう一度口づけを落とす。
ぎゅっと抱きしめる。愛しくて堪らないかのように、その首筋に頬を摺り寄せる。
ユーリも答えて頬を摺り寄せてくる。ずっとこうして居たいと思った。
思いが通じたと言うことはこんなにも幸せなことなのか。

雨が止めば、屋敷に戻らなければならないとは思っていた。
でも屋敷に戻ったら、こんな風に抱き合って一緒にいることは出来るのだろうか?
自分が貴族の娘で居続ける限り、そんな幸せな時を持てないのであれば、今すぐにでも身分など捨てよう。
ユーリは、そう決めていた。


 

だが、セイシロウも覚悟を決めていた。
これから自分が進むべき道を。
この愛しい人を、その身に宿る大切な命を、奴隷の身に落とすことなど絶対に出来ない。
生まれてくる子の肩に、自分と同じ刻印など決して刻ませはしない。

 

―――その為に自分が取るべき道は唯一つ。


 

「ユーリ」
決意を込めて、その名を呼ぶ。
その声音の真剣さに、呼ばれたユーリも真摯な瞳で見つめ返す。
「僕を信じてくれますか?」
「…信じてるよ」
真っ直ぐに答える。セイシロウも、てらいの無い言葉を口にする。
「僕はあなたを愛しています。たとえ今あなたから離れても、きっと戻ってきます」
ユーリの瞳が震えた。
「…何処かへ行くの?」
「自分の誇りを取り戻しに行きます。ユーリ、あなたの為に。生まれて来る僕達の子供の為に」
セイシロウの瞳がユーリの瞳を捉えていた。
ユーリの瞳がじっと愛しい男の瞳を見据えた。
黒い、黒い澄み切った夜空のような瞳。その瞳の中に煌めくのは…


 

しばしの沈黙の後、ユーリはきっぱりとした口調で答えた。
「わかった。待ってる。それまでお腹の子はあたしが守るから」
「ユーリ、ありがとう。ユーリ…」
セイシロウがほっとしたような笑みを見せた。
もう一度固く抱き合い、口づけを交わす。触れ合わせるだけのものから、段々に深く。
ユーリの腕はセイシロウの首に回され、自分に強く引き寄せる。離れがたくて。
こうしていられるのは、今この時だけ…そう思うとユーリの瞳から涙が零れ落ちる。
セイシロウの唇がそっとその涙を吸い上げた。
―――雨が止まなければいい。そう願うユーリの心に、セイシロウの声が響く。
「ユーリ、愛しています…ずっと…これまでも、この先もずっと…僕は、あなたのものだ」




 

―――雨がやみ、ユーリはひとり、自分の屋敷へと戻ってきた。
セイシロウとスクリオの姿は、その日以来この屋敷から消えた。






第二章後編へ 編へ


TOP