第2章 後編



寝台に身を投げ出して、ユーリはうつらうつらとしていた。
身体が重く、だるい。
パタンと寝返りを打ち、身体をぎゅっと縮込める。
瞳を閉じたまま、ユーリは思い出す。
―――想いがすれ違ってしまった夜のことを。
あの夜、ユーリが欲しかったのはセイシロウの身体だけではなかったのに。


あれからセイシロウとユーリの間には、大きな隔てが出来てしまったようだ。
屋敷内で見かけても、セイシロウはこちらを見てはくれない。
大切なものを失ってしまった。自分の手で壊してしまった。
自己不信に陥っていると、吐き気が込み上げてきて、ユーリは口元を押さえた。
うっと小さく餌付く。
何とも言えないむかつきを堪え、ユーリは枕に顔を押し付けた。




                    *****





セイシロウは夢を見ていた。

悪い夢。いつもの夢。


―――夢の中では自分はまだ少年だった。
そして、冷酷な瞳が彼を見つめていた。
温度の無い、左右色の違う瞳。
その瞳に見据えられ、身動きすることも出来ない。
ゆっくりと、鈍く光る剣先が自分に向けられ―――


自分の叫び声で目が覚めた。寝台の上に起き上がる。
裸の胸に、汗が流れ落ちていく。
心臓の音は早鐘のようだ。
両手で顔を覆い、俯く。
くぐもったうめき声がその口から漏れた。


…カタン。かすかな物音が聞こえ、はっとして音の方に顔を向ける。戸口に誰か立っている。
「どうした、真っ青だぜ」

からかうような、声が掛けられた。
「誰だ?」
セイシロウは首を傾げ、その人物を怪訝そうに見つめた。
淡い緋色の髪をした若者―――ミロクが立っていた。


 

「…確かミロク様、ですね。どうしてここに…。こんな時間に、何の用です?」
訝しげに尋ねるセイシロウに、ミロクは挑むような口調で答える。
「”様”はいらねーよ。俺はあんたのご主人様じゃないからな。ちょっと付き合ってもらえねーか?」
そう言って、外へ顎をしゃくって見せた。
「付き合えといわれましても…何処へです?」
「来りゃわかるさ」
そう言ってミロクは先に外へ出て行く。
セイシロウは仕方なく衣服を着ると、彼を追って外に出た。


すたすたと歩き出すミロクを追い、後ろから声を掛けた。
「屋敷の外へ行くつもりですか?ご存知でしょうが、僕は勝手にうろつくことなど許されない身なんですが」
「わかってるよ」
「じゃぁ、どうするんです?」
「任せなって。抜かりはねーよ」
ニッと片目を瞑って、親指で指差す方向には、門番の小屋が見える。
門番や警備の者たちが、酔いつぶれて思い思いに倒れ臥しているのが見えた。

 

「ちょっとキツい酒を差し入れといたんだ。のんべぇだからな、奴らは」
ミロクの言葉にセイシロウは少し顔を顰めたが、何も言わずに共に屋敷の外へと出た。
暗がりで見事な栗毛の馬が待っている。ミロクはひょいと飛び乗ると
「乗れよ」
と、後ろを指し示す。

セイシロウは無言で従った。



半時ほども馬を走らせただろうか。
ミロクは構えは小さいが、きちんと手入れされた様子の屋敷内に馬を進めた。
「着いたぜ」
ミロクに続いて、セイシロウもゆっくりと馬から下りる。
辺りを気にもかけず、ミロクは屋敷内の一室へとセイシロウを導く。
―――ここは?護衛官様のお屋敷ではないようだが…
セイシロウは部屋の中を見回す。
落ち着いた調度品が置かれた、贅沢だが華美ではない室内。
奥の一角に分厚い緞帳が掛けられている。
―――もうひとつ部屋があるのか。
「セイシロウをお連れしました」
ミロクが部屋の奥に向かって声を掛けた。


 

すっ…と布の分け目から白い手が覗く。
宝石の嵌った指輪をいくつも着けた手。
分厚い布を横に押しやり、優雅な、だがしっかりとした足取りでこちらに歩いてくる姿がある。
さらり…と金色の髪がなびく。

透き通るように白い肌に宿る、穏やかな光を放つ青い瞳。


「久しぶりだね、セイシロウ」
寛いだ声がかけられ、じっと声の主を見つめたセイシロウは、慌てて膝を折った。
跪き、信じられぬ思いで見つめる。

 

「ビドー様…いえ、皇太子殿下。お久しぶりです」
「ミロクから君の事を聞いてね、びっくりしたよ。都に戻ってたんだね」
「お仕えしている方の屋敷が、都にありますので…」
「会いたかったよ。元気にしてた?」
「…はい」
ビドーは顔に掛かった髪を掻き上げつつ傍らの椅子に座り、セイシロウに親しげに話しかける。
セイシロウはその前に跪いたままで答える。
壁にもたれて、その様子をじっと見詰めながら、ミロクは昨夜ビドーから聞いた話を思い出していた。

 

―――セイシロウの過去に起こった出来事を。




                    *****





現王の2番目の弟の息子、ビドー王子はいつものように宮殿の庭で、乳母や下女達に囲まれて遊んでいた。
ふと見ると、目の前の回廊を王室付きの医師シュウヘイと、その息子のセイシロウが歩いてくる。
しばらく前から王は病に臥せっている。その様子を見に行くのであろう。

 

「セイシロウ、遊ぼう!」
ビドーは駆け寄りながら、幼馴染の名を呼んだ。
セイシロウは小さい頃から、父に連れられて宮廷に出入りしている。
ビドーにとっては、数少ない遊び友達であった。
「すみません、ビドー様。これから父が、陛下のご病状を伺いに行くところですので…それが終わったら遊びましょう」
ビドーと同じ歳なのに、幼い頃から「神童」と誉めそやされる彼は、とても大人びた口をきく。
「ふ〜ん、つまんないの」

ビドーは真っ赤な唇を尖らせながら、セイシロウの後についていく。

 

幼い頃に父と母を流行り病で亡くしている彼を、王は自分の子供と同じようにかわいがってくれている。
その王の容態は、ビドーにとっても気がかりであった。


 

「失礼します、陛下。」
王の寝所へ一礼して入ったシュウヘイは、王の手を取り脈を確かめる。
頑強な身体を持っていた王もすっかりやせ細り、力なく寝台に横たわっていた。
その様子をビドーは、部屋口にかけられた緋色の緞帳の間から覗き見る。
王の寝台の脇に、王のすぐ下の弟であるアラク殿下が立っていた。
その姿を認めると、
ビドーの空の色をした瞳が曇り、すっと細められた。


ビドーはこのアラク殿下が好きではない。
亡くなった父のすぐ上の兄だが、小さい頃から、その何を考えているのかわからない冷たい瞳を見ると、怖気が起きたものだ。
―――相変わらず蛇かなんかみたい、あの目。
そう思わせる男は、今も冷たい瞳でシュウヘイの動きを見つめている。
その片方が茶色、もう片方が緑色の目を見て、ビドーの身体に身震いが起きた。
―――外で待ってよっと。
踵を返しかけたビドーの耳に冷たい声が響いてきた。


「…それで、どうなのだ陛下のご様態は?」
「殿下、ですからこの間も申しましたとおり、陛下は毒を飲ませられ続けているご様子です。早く毒の出所を調べて手を打ちませんと、陛下のお命が…」
「はて…私も調べては見たが、そのような不埒な真似をする輩はおらぬようだが?そなたの見立て違いではないのか」
アラクは顎の手をかけ、首を捻って見せている。
だが、その口調にはどこか揶揄するような響きがあった。
「しかし、陛下は現に…」
言いかけたシュウヘイの目が、はっとしたかのように見開かれた。
「まさか…まさか殿下、あなたが…」
アラクはゆっくりと顎から手を下ろし、シュウヘイをじっと見下しながら答えた。
「私が?私が何をしたと言うのだ?」
そう言いながら、ゆっくりと腰に差した剣の柄に手をかける。
そのとき、寝台に横たわっていた王が突然咳き込みだし、シュウヘイは振り返って王の手を取った。
「これはいけない!セイシロウ!」
「はいっ!」
少し離れたところに立っていたセイシロウが、急いで父の元に駆け寄り、手を貸した。
王は激しく咳き込み続け、その口から血が流れる。
シュウヘイとセイシロウは必死で零れる血を受け、何とか王を落ち着かせようと懸命になっていた。



「お前は見立てを間違った。責任を取らねばならぬな」
不意に冷たい声が響き、驚いて振り返ったシュウヘイの身体に、重たい剣が振り落とされ
た。
「ぎゃああああ!」
「父上っ!」
絶叫が響き、ビドーは思わず瞳を硬く閉じた。緞帳を握り締める手が震える。
「父上!父上っ!」
セイシロウが叫び続けている。
目を開けてまた覗き込むと、切られた父親の体を抱いて、床に座り込んでいるのが見える。
返り血を浴びた顔が、蒼白になって眼前の人物を凝視していた。
ゆっくりと剣の切っ先が、清四郎の喉元に突きつけられる。

 

―――どうしよう…セイシロウが殺されちゃう…
助けなくちゃ…と思うのに、ビドーの足はがたがたと震えて動かない。
ゆっくりと剣先が持ち上げられ、ビドーはまた目を逸らそうとした。
その時―――


 

ふわりと、たおやかな姿がビドーの脇をすり抜けて部屋に飛び込み、セイシロウを庇う様に抱きしめた。
「…何のつもりだ?アキコ」
「まだ子供です。私に免じてお許しを」
王の寵妃、アキコが美しい面差しを真っ直ぐに向けて懇願した。

 

「……よかろう」
しばらく逡巡の後、アラクはゆっくりと剣を収めた。
「だが、罪人の子を捨て置くわけには行かぬな。衛兵!」
高らかにそう呼ばわると、2〜3人の衛兵が部屋に走りこんできた。
「罪人を処罰した。死体を始末しろ。その子倅は…奴隷の身に落とせ。それから…」
ニヤリと口元に冷たい笑いを浮かべる。
「王は逝去なされた」
ぐっとアラクを睨み付けていたアキコの瞳から、涙が零れ落ちた。




                    *****





「セイシロウ、今の御世をどう思う?」
穏やかなビドーの声に、魅録ははっと我に返り二人を見た。
「…僕には政治の世界のことはわかりかねます」
セイシロウは跪いたままだ。
「アラク王の治世が始まってから、国はめちゃめちゃだよ。宮廷は策謀が渦巻いてるし、臣民は重税にあえいでる。何とかしなくっちゃ。ミロク!」
「はい」
呼ばれてミロクは一歩前にでた。

 

「僕達は王を討つつもりだ。セイシロウ」
ビドーは椅子から立ち上がると、跪くセイシロウの前に立ち、両肩を掴んだ。
「お前も知っている通り、王はかなりの剣の使い手だ。このミロクもかなりなものだけど、お前にも力を貸して欲しいんだ。宮廷の剣術師に『天才』とまで言わしめた腕を見せてくれ」
「そうおっしゃられましても…今の僕は一介の奴隷に過ぎません。剣の稽古など、もう何年もしていませんよ」
「誤魔化すなよ。お前のその身体、それが何の鍛錬もしてこなかった身体の筈ないだろ!」
いつもは穏やかなビドーの瞳が青く燃え上がった。
その瞳の色の懐かしさに、セイシロウは薄く微笑んだ。


「この身体は、奴隷としての日々の労働の成果に過ぎませんよ。僕などに頼らなくても、腕のいい騎士は他にもいるでしょう」
「…僕は、本当に信頼できる奴にしか頼まない」
憤りたいのを抑えて、ビドーは冷静な言葉を述べる。
「お前の力を借りたい。事が成就した後はお前の身分を元に戻そう」
セイシロウの黒い瞳が、じっとビドーの目を見つめた。が、それはすぐに逸らされる。

 

「…僕には出来ません。申し訳ありませんが、他を当たって下さい。…ミロク様」
「なんだ?」
「すみませんが、屋敷まで送ってもらえますか?」

 

「……それでいいのかよ?」
腕組みをしたまま、ミロクが聞いた。セイシロウが頷く。
「申し訳ありません、ビドー様。お役には立てません。でも……僕のことを覚えていてくださったのは、嬉しかったです」
そのままビドーに一礼すると、セイシロウは立ち上がって屋敷の外へ歩き出した。


 

ユーリの屋敷の近くで馬を止めると、セイシロウはひらりと降り立ち、ミロクに黙って頭を下げると、歩き去ろうとした。
その背に向かって、ミロクが投げつけるように声を掛けた。

 

「ユーリのことが好きなんじゃないのかよ?今の身分のままじゃ、あいつをモノに出来ないぜ」
小さく溜息をつくと、セイシロウは振り返り、馬上のミロクを見上げて答えた。
「僕のことを、単なる奴隷としか思っていない人に惚れて、どうなると言うんです?」
「…奴隷としか思われてない?」
「そうです。…悲しいことですが」
ためらうように言い添えて、セイシロウはふ、と笑って見せた。

 

「だとしても…今はそうでも…お前の身分が元にもどりゃ…」
ミロクは言い澱んだ。
「今のままでも、お傍には居られますから」
悟りきったような顔でそう嘘吹くセイシロウに、ミロクは急にむかむかと怒りが込み上げてきた。


「だからって、今の状態のままで一生過ごす気かよ!ざけんじゃねぇ!好きだったら奪ってでもモノにしろよ!お前は単に、怖がってるだけじゃないのかよ!」

一気にそう捲し立てるミロクに、セイシロウの目が呆然と開かれる。
「…それは、そうかもしれませんが」
「俺だったら何としてでもモノにする。本当に惚れたんだったらな」
ミロクの中に、一人の女の姿が浮かぶ。―――ノリコ。

 

セイシロウはしばらく考えているようだったが、寂しそうな微笑を見せた。
「それは、あなたが貴族と言う立場で生きてこられたからですよ。ミロク様。僕は、6年間奴隷として生きてきました。そして分かったんですよ。奴隷というのはね…」
すっ…と息を吸い込み、溜息を吐き出すように続ける。
「自分の運命を自分で決めることなど許されないんです」
ミロクは、次の言葉を失った。


 

 

「失礼します」
ミロクに向かって一礼し、セイシロウは歩き出す。その背に向かってミロクが呟いた。
「もし、そうだとしても…お前は心まで奴隷でいるつもりなのかよ…」
その声が聞こえたのか、セイシロウは一瞬立ち止まった。
が、彼はまた歩き出した。
そして、振り返ることはなかった。




                    *****





自室に戻ると、セイシロウは寝台に寝転がった。
目を閉じて考えにふける。
―――ビドー殿下、昔は甘えたで少女のようだったが、立派になられたものだ。

 

昔のことを思い出すと、ざわざわといつもの悪い夢が戻ってくる。
いや、夢ではない。それは現実に起こったこと。
目の前に突きつけられた剣先、そしてあの冷たい瞳。
がくがくと身体が震えだした。
唇を噛み、うつ伏せになって震えを押さえようとする。

 

―――そう、僕は怖いんですよ。ミロク。あの剣先が、あの瞳が。こんな僕が王を討つことなどできそうにない。

 

「…くっ、ユーリ…」
噛み締めた唇から愛しい人の名が漏れる。
安堵感が身体を包み、震えが止まった。



 

―――ユーリ、あなたが僕を愛してくれるなら…僕自身を心から欲してくれるなら…
―――僕は、この運命に立ち向かえるかも知れないのに…


 

セイシロウは瞳を閉じ、眠りに落ちていった。
夜明けは近い。それまでの、短い眠りに。




 


中編へ 第3章へ


TOP