第3章 中編
大広間の中から喧騒が聞こえる。アラク王が開く夜毎の淫猥な宴。 ふらリ、と大広間の入り口から一人の美しい女が抜け出した。 素晴らしい輪郭を描く、夜目にも白い透き通るような肌。 柔らかく波打つ亜麻色の髪。 長いまつげに覆われた瞳に整った鼻筋。 やや肉感的な厚さを持った赤い唇。 左目の下にぽつんと零れた涙のような黒子が印象的だ。 身に着けているのは簡素な白いトゥニカに飾り帯だけだが、その飾りの無さが帰って彼女の美しさを引き立てていた。
女は広間の中からひときわ高い嬌声が聞こえてくると、ちらりとそちらを見やって美しい眉を顰めた。 こういう宴は好きじゃない。 普段なら絶対に中に足を踏み入れないのだけど。 でも今日は宴に出席するようにと昼に義父様にきつく言われていた。 眼前で繰り広げられる猥雑な光景に胸が悪くなるような思いをしながらも、必死で顔には微笑を浮かべ続けた。 その我慢も限界だった。 目の前で義父の手に蹂躙される母親など見るに耐えない。 堪えかねて席を立つ彼女の姿を目の端に捉え、義父がニヤリと下卑た笑いを浮かべたようだった。
義務は果たしたわ。もう勘弁してもらってもいいわよね。 小さくひとつ溜息をつき、彼女は自分の部屋に向かって歩き始めた。 回廊を歩き出し、一つ目の角を折れた時、目に映った光景に再び彼女は眉を顰めた。 庭に面したバルコニーで、一組の男女が愛を語り合っている。 女の顔は見えないが、男の夜風に揺れる見事な金髪には見覚えがある。 ―――彼女の従兄弟だ。
そのままそ知らぬふりで行き過ぎようと思ったが、当の男に声を掛けられてしまった。 「これはカレン王女様。もうお休みの時間ですか?」 軽いからかいの混じった口調に彼女の柳眉が上がる。 今夜の彼は白いトゥニカに深い赤の胴衣を着け、深紅のマントを揺らしている。 「もう夜も更けたわよ。恋の狩人さんはこれから狩の時間?あまりそっちに夢中になりすぎて、廃嫡されないように気をお付けなさいな」 答える口調に毒を含ませる。 恋愛ゲームにうつつを抜かす皇太子に対する不満の声は多いと聞く。 尤も、アラク王にとってはそのほうが好都合なのだろうが。 「それは勘弁。でも僕を廃嫡したら誰を皇太子に立てるの?君かな?」 おどけて手を上げ、ゆったりと微笑む。 その仕草と表情の愛らしさにカレン王女はふ、と微笑む。 「おやすみなさい、狩人さん。良い夢を御覧なさいね」 軽く立てた人差し指を彼に向けて振って見せ、王女は歩き出した。 「おやすみ。…僕の女神さん」 ゆったりと微笑んで口にした言葉は彼女の耳には聞こえただろうか?
「ねぇ…」 しばらく放って置かれた格好であった彼の今夜の獲物が、彼の腕を引いて焦れたように呟く。 忘れてた…舌打ちしたい気分になった。 ついさっきまでは大いに乗り気な恋の遊戯であったのだが。 「ごめんね。僕今日はその気がなくなっちゃった」 爽やかに微笑みながら囁いた台詞に、大きく見開かれた瞳を冷ややかに見返す。 「ご主人が待ってるんじゃない?」 別れの台詞を投げつけると彼はそのまま踵を返して外へと歩き出した。
厩に着くとミルクのように真っ白い愛馬を引いてこさせ、ふわりと跨る。 「お供のものは…?」 問いかけた馬丁を青い瞳の一瞥で黙らせ、彼は馬の腹を蹴って夜の街に飛び出した。 「またぞろ夜歩きか…お好きだねぇ」 そんな呟きを後ろに聞きながら…
*****
ビドー王子が辿り着いたのは町外れにある瀟洒な屋敷だ。 ここはビドーの母が彼に遺した物で、お忍びで使うには調度良い場所であった。 王子は出迎えも待たずにさっさと邸内に入り、食堂として使っている部屋に向かった。 もう夜も更けていると言うのに、そこには男が二人、彼を待っていた。 一人は淡い緋色の髪をした若者、もう一人は黒い髪を後ろに撫で付けている。 ―――一人はミロク、そしてもう一人はセイシロウである。
「ごめんねぇ、待たせて。彼女がなかなか離してくれなくってさ」 二人の顔を見回しながら甘えたようにそう言うと、椅子を引き寄せて座る。 テーブルには葡萄酒の壜と杯が3つ。 テーブルの上に両肘をついて指を組み合わせ、そこに顎を乗せると二人の顔を見据えた。 「で、どう?セイシロウの特訓の成果は」 青い瞳が真剣な色を帯び、きらりと光った。 その瞳にニヤリと笑い、斜め向かいに座ったセイシロウを見やりながらミロクが答える。 「たった3ヶ月でえらい上達だぜ。ま、元が良いってことだな」 「ミロクの教え方がいいんですよ。さすがは護衛隊長のご子息だけはありますね」 テーブルに肘を着き、親指で唇を押さえながらセイシロウが答えた。 「じゃあ…そろそろ計画を実行に移せるかな。決行の日は…」 考え込む王子の瞳は、先程愛を語っていた時と同じ瞳とは思えぬほどの色を帯びていた。
―――ビドー皇太子殿下。アラク王の弟の忘れ形見。 前王が亡くなった時、王にはカレン王女しか子供がなく弟であるアラク殿下が次の王となった。 現アラク王には子供はいない。 その為にビドー王子が皇太子になったのであるが、その評判は必ずしも良くは無かった。 「恋愛こそこの世で最高のゲーム」そういって憚らない彼のご乱交ぶりには怒りよりも嘆きの声が多い。 あのご様子で王位など継ぐ事が出来るのだろうか…と。
だがそれがビドーの偽装であると見抜くことができる者はまず居なかった。 それゆえに彼は、十八歳になる今まで無事に皇太子の座に居続けられたのである。 もし彼が臣下の信頼を集める程に有能であることに気付いたなら、アラク王は必ずや彼を廃嫡するために姑息な手段に出るに違いない。 ちょうど彼が自分の兄や弟を葬り去った時のように。
幼いときからアラク王の非情なやり方を、嫌と言うほどに垣間見てきたビドーである。 目の前で彼の大事な友人の父親が殺され、自分をかわいがってくれた叔父が毒殺されたことを悟った。 だが彼がアラクを心から憎んだのは、彼の愛する叔母の苦しみを目の当たりにしてからだった。 先王の后、アキコ王妃。 母を亡くした後、自分をまるで実の子の様に慈しみ育ててくれた美しい叔母。 まだ先王の禊も終わらぬうちに、アラクは彼女を強引に我が物とした。 先王との間に生まれた幼い王女の命と貞潔を手玉に取られては、彼女は従うより他は無かったのだ。
だが王妃の自己犠牲も空しく、最近の王の歓心は美しく成長した王女にあるようだ。 彼女を見る王の眼に宿る紛れもない欲情に気付かぬビドーではない。 このままでは、王女の身体だけでなく、王妃の命が危ないかもしれない。 自分の目的を達するためならどんな事も厭わない非情な男だ。 ビドーは焦りを感じていた。 出来るだけ早く、好機を掴まねば―――
「セイシロウ、どう?王と戦って勝つ自信は?」 無言で考え込んでいたビドーがふいに顔を挙げ、目の前に座る男に声を掛けた。 セイシロウはどこか余裕を感じさせる笑みを浮かべた。 「…時を選べば。護衛がたくさん周りに居たのではやり辛いですがね。王が一人で居る時を狙いましょう」 「…王は普段は護衛を傍から離さない。でも…」 「女と褥を共にする時は別…ですか?」 「じゃあ、毎晩じゃねーのか?王の淫蕩ぶりは有名じゃないか」 「昔はそうだったけど…今はそうでもないよ。さすがに年を取って来てるしね。でも…」 はっとビドーは顔を上げた。 「3日後はカレンの十八歳の誕生日だ…盛大に晩餐会が開かれることになってる。それに…」 「王はカレン姫を狙ってるのかよ!」 信じられないと言った顔でミロクが聞く。 自分の后の娘で、血縁的には王の姪じゃないか! 「僕の目に狂いが無ければ。…その日は宮廷は無礼講だ。大勢の人が招かれるからお前達が忍び入る隙も出来る!」 熱っぽく捲し立てるビドーに、セイシロウは静かに頷きつつ同意する。 「…じゃあ、決まりですね。決行は3日後です」 「よしっ!」 ぱしっと自分の掌に拳をぶつけ、ミロクが気合を入れた。 「乾杯しようか?計画の成功を祈って」 ビドーが葡萄酒を注いだ杯を目の高さに掲げた。 「俺達の武運に」 ミロクが続けた。 「…僕達の未来に」 セイシロウが言い、3人は杯を空けた。
*****
ミロクが邸の中庭に面した回廊に出ると、セイシロウが一人そこに座ってぼんやりと空を眺めていた。 「邪魔していいか?」 「ええ、構いませんよ」 セイシロウは視線を変えぬままに答える。 「何見てんだ?」 「…月ですよ」 セイシロウが見上げる方を見てみると、たしかに冴え冴えとした光を放つ月が中空にあった。
しばしミロクもその月を眺め、セイシロウに視線を落とすと尋ねた。 「…ユーリのこと考えてんだろ?」 ミロクの問いに清四郎は微笑んだ。 月を眺めたまま、胸が痛くなる程に優しい瞳をして。 「…考えてますよ。いつもね」 余りに素直な答え方に、ミロクは顔を赤くした。 「えらく素直だな…」 「今宵の月の所為かも知れませんね。彼女みたいだと思って見てたんです」 「月がか?どっちかっていうと、太陽のがイメージに合うと思うがな」 「そうですね。でも僕がここに来る前、最後に会った時の彼女はね、まるであの月の…月の女神のようでしたよ」 あまりに普段のセイシロウにそぐわない話し方に、ミロクはやや呆気に取られた。
「…堂々と惚気てんじゃねーよ、全く。そうだ、今日の昼にユーリの邸に様子を見に行ってきたんだがよ…」 「どうでした?」 セイシロウがやっとミロクに顔を向け、何気なさを装って聞いた。 「どうしても取り次いでもらえなくってよ、会えなかったんだ。それでちょっと、顔見知りの門番に聞いてみたんだけど…」 セイシロウの顔に心配そうな影が差す。 「…元気そうにしてるらしいぜ。でも、な…」 何やら含みのある調子にセイシロウの顔が一瞬緊張する。 「…噂じゃお嬢様はどうも懐妊してるらしいって…お前の子だろ?」 「……」 ミロクの問いに、セイシロウは答えずにふいと目を逸らした。 「まったく、身分がどうのとか言ってた割には…」 忌々しそうにミロクが続ける。 「やるこたやってんじゃねーかよ!」 かすかに赤くなった顔を憮然とした様子で背けるセイシロウに、ミロクは思わず破顔した。
「…一手、お手合わせ願えますか?」 セイシロウが剣を手に取りながら聞いた。 柄に羽を広げた黒鷲が彫り込んである、ビドー王子より賜った剣だ。 「ああ、喜んで」 ミロクも柄に黄金の獅子が彫り込まれた自分の剣に手を掛けた。 立ち上がるとお互いに向き合い、剣を目の前にやや斜めに構える。 そのまましばらく睨み合い…
「はぁーっ!」 ミロクが気合と共に打ち込んだ剣をセイシロウが受け止める。 「はっ!」 力を込めて払い除け、逆に連続して打ち込む。 ガンッ!キンッ!ガッ!お互いの剣がぶつかる音が響く。 セイシロウの猛烈な打ち込みを己の剣で受け止めながらも、ミロクの身体はじりじりと後退していく。 ザッ!足元で土を抉る音が聞こえた。後ろ足を踏ん張り、身体の交代を食い止める。 ガシィン!振り下ろされたセイシロウの剣をミロクの剣が頭上で受け止めた。 渾身の力を込めて押し返し、また剣を構え、体勢を立て直したセイシロウと睨み合う。 「……」 「……」
不意にセイシロウがふっと息を吐き、剣を収めた。 ニヤリ…とミロクが笑いこちらも剣を収める。 「ってぇ。全く、本気で切り込んできやがって」 手が痺れちまったぜ…と、手を大仰に振りながら呟いた。 「手加減なんか無用でしょう?それに…」 セイシロウがしれっと言い、すぐに真摯な表情で言い添えた。 「王と切り合う時には、手を抜く暇などありませんよ」 「…失敗は出来ないからな」 ぶる…思わず武者震いをしながらミロクが答える。
「大丈夫…失敗などしません」 その黒い瞳に決意を滲ませて、セイシロウが言い、すっと自分の右肩に掌を沿わせた。 「必ず王を仕留めて見せますよ。…この刻印に懸けて…ね」 その仕草にミロクは眼を細めた。 「…ああ、いよいよだな。やるぜ!」 拳を握り固め、肘を曲げた腕をセイシロウに向かってぐっと突き出す。 セイシロウも同じ形で腕をミロクと合わせた。
天空に掛かる、冴えた月だけがそれを見ていた。
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