2.

 

 

 

「ただいま。あ〜久しぶり!」 

 

ドアを開けるなり、悠理は靴を脱ぎ捨てて叫んだ。

清四郎のマンションに来るのはおよそ3ヶ月ぶり。

最近は日本に帰って来ると、たいがいはこの部屋で寝起きしているから、悠理にとっては既にここが「我が家」となっているようだ。

 

勝手知ったる家の廊下を抜けて、リビングのドアを開ける。

壁のスイッチに手をやり、ぱちんと明かりをつけた途端、清四郎に後ろから抱きすくめられた。

 

 

Rへ  

 

 

何度も互いを求め合った後、二人は広いベッドの中央に、抱き合って横たわっていた。

心地よい疲れと、充足感。起き上がってパジャマを着るのも億劫で、裸のまま。

悠理に腕枕をした清四郎の手が、悠理の髪をもてあそぶ。

髪をいじられる心地よさに、悠理は猫のように目を細め、清四郎の胸に顔を擦り付けていた。

 

「なぁ…」

「ん?」

「おまえと結婚してさ、毎晩こんなだったら、あたし、身体もたないぞ」

笑いながら言う悠理に、清四郎は苦笑した。

「…毎晩こんなにするわけないでしょう? だいたい、結婚したからって、急にお前が毎晩一緒にいてくれるようになるわけでもないでしょうし…」

そして、にやりと意地悪く笑った。

「まぁ、お前が毎晩して欲しいというなら、善処しますがね」

「ばか! 誰が」

顔を赤くする悠理に、清四郎はくっくっと笑った。

 

 

「僕は明日は仕事なんですが、悠理はどうします?」

また、悠理の髪をいじりながら、眠たげな声で聞いた。

「ん、いったんうちに帰るよ。明日、野梨子がうちに来るから」

「そうですか。じゃあ、僕も仕事が終わったらそっちに行きましょうか…」

「うん! お前がうちに来るのは久しぶりだから、父ちゃんと母ちゃんも喜ぶぞ」

悠理は喜んで、すり、と清四郎の胸に頬をすり寄せた。

 

かすかに、清四郎の汗の匂いがする。

清四郎の体温と相まって、それはとても好ましくて、悠理を安心させる。

ずっと、こうやって清四郎に包まれながら、眠りたい。

その気持ちを素直に伝えたくて、悠理は清四郎の顔を見上げた。

 

 

「……」

穏やかな、寝息。

清四郎の満ち足りた寝顔が、そこにあった。

 

 

しばらくの間、悠理はその寝顔を見つめていた。

見ていると、悠理の心も満たされ、笑みが浮かぶ。

そっと、清四郎の顎の先にキスをひとつすると、悠理は清四郎の胸に顔をうずめて、目を閉じた。

 

幸福な、幸福な夜だった。

 

 

*****

 

 

翌日、清四郎は普段よりも早い時間に出社していた。

昨日悠理を迎えに行く為に早退したせいで、いつもの朝より多くの書類が机の上に重ねられている。

清四郎はその一つ一つにすばやく目を通し、サインをしていった。

 

 

「おはようさん」

「おはよー」

コンコンというノックの音とほぼ同時にドアが開き、この会社の重役である二人が入ってきた。

営業部長の美童、技術開発部長の魅録は、両部署に自室を構えてはいるが、出勤するとまずは、清四郎のいる社長室に顔を出す。

 

 

「あれまぁ、ずいぶんとすっきりした顔しちゃって。昨夜はさぞかし熱い夜を過ごしたんだろうね〜」

「そう茶化すなよ、美童。久しぶりの悠理との逢瀬だったんだぜ、なぁ?」

くくくと笑いながら、美童が応接椅子に腰掛け、魅録はニヤニヤしながら清四郎の机の端に腰をかけると、煙草を取り出した。

いつもの、朝の風景である。

 

「美童、この書類、計算ミスが2箇所もあるんですがね」

からかわれた清四郎は、平然とした顔つきで書類を美童に掲げて見せると、ぽんと放り渡した。

「あれぇ、本当だ」と、のんびりした様子で書類をめくる美童から視線を移し、清四郎は魅録の顔を見上げた。

「魅録、リーガル生命の社内情報システムの件は大丈夫ですか? 来週はいよいよコンペティションですよ」

「ああ、準備オーケーだ。まかせとけ」

魅録は余裕の表情で煙を吐き出し、にっと笑って見せた。

 

「頼りにしてますよ、大きな取引ですからね。美童の方も、大丈夫ですか?」

「うん、僕の方も大丈夫。まぁ、詳しい事は午後の会議でね。で、悠理にプロポーズしたの?」

何が何でも聞きたい、という様子の美童に、清四郎は苦笑した。

 

「ええ、まぁ」

「で、返事は?」

美童がたたみ掛ける。

「前向きに検討してくださるそうですよ」

「何だ、すぐにオーケーしなかったのかよ? 悠理の奴」

煙草を携帯灰皿に押し付け、魅録が呆れたような声を出す。清四郎は机の上にひじをついて指を組み合わせ、そこに顎を乗せた。

「まぁ、彼女も忙しい身ですしね。色々と考えることもあるんじゃないですか?」

「えらく余裕の発言だね。そうだ、早く結婚したいなら、剣菱のおじさんとおばさんの方に申し込めばいいんだよ。明日にでも、挙式の用意を整えてくれるんじゃない?」

「あ、そりゃいいアイディアだ」

美童と魅録が顔を見合わせて笑い、清四郎も微笑んだ。

 

「確かに、いい考えですね。どんな挙式を用意されるかと考えると、恐ろしい気もしますが」

「まったくだ。さて、と。仕事にかかるか…」

ひとしきり笑うと、まずは魅録が腰を上げた。

「ん、僕もそろそろ…」

美童も、書類を持って椅子から身を起こした。

「じゃな、午後の会議で」

軽く手を上げて見せ、二人は社長室から出て行った。

二人を笑顔で見送ると、清四郎は再び書類のチェックをはじめたが、頭の中には今朝の悠理とのやり取りが浮かんでくる。

 

 

*****

 

 

早く出勤するために、眠っている悠理をベッドに残したまま、清四郎はシャワーを浴びた。

スーツに着替え、コーヒーを入れ、朝刊を読みながらシリアルにミルクをかけて食べていると、悠理が起きてきた。

素肌の上に、清四郎の白いパジャマの上衣だけを着ている。

 

「おはよ〜」

「起きたんですか? まだ寝ていればいいのに…」

眠そうに目をこすっている悠理を、清四郎は気遣った。

「うん。でも、母ちゃんになるべく早い時間に帰って来いって言われてるから…」

悠理は大きなあくびをしながら、食パンをトースターに放り込み、冷蔵庫を開けて卵を二個取り出すと、清四郎を振り返った。

 

「清四郎も、食べる?」

今でもほとんど家事などしない悠理だが、清四郎の家に泊まった翌日は、自分で朝食を整える。

「いや、僕はもういいです」

朝刊をたたみながら清四郎は答え、腕時計を見ながら立ち上がった。

玄関に向かう清四郎に、悠理も見送る為についていく。

 

 

「なるべく早く仕事を済ませて、剣菱の家に行きますよ」

靴を履きながら、清四郎は言った。

「ん。晩御飯はうちで食べる?」

「そうさせていただきましょうか」

 

靴を履き終えて、悠理に向き直った。

と、清四郎はふと微笑んで、悠理のパジャマの襟元を人差し指で軽く押し下げた。

「今日は、襟ぐりの開いた服は着ない方がいいですね」

「え?」

一瞬ぽかんとした悠理だが、すぐに真っ赤になって両手で胸元を押さえた。

昨夜、清四郎に愛された跡が、花びらのように散っていることに気付いたのだ。

そんな悠理の反応を見て、清四郎はまたくすくすと笑い出し、悠理の頭を引き寄せた。

 

「じゃあ、行ってきます。鍵閉めるの忘れないで下さいね」

軽い口づけを交わし、悠理の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「ん、行ってらっしゃい」

まだ赤い頬をしたまま、悠理は上目遣いに言った。

その顔がかわいくて、清四郎はもう一度、悠理にキスをした。

 

 

*****

 

 

そんな情景を思い出していると、清四郎の口元は自然に緩んでくる。

それでも、手元の書類を迅速にチェックし、いくつかの書類に間違いを見つけると、すぐに担当部署に電話をかける。

内容もきちんと頭に入っているのだから、さすがとしか言いようがない。

机の上に載っていた書類を全て片付け終えると、時計は十時を少し回っていた。

今日はこの後、取引先を回る予定があった。それを昼前に済ませて、午後からの会議までの間に、行きたい所がひとつある。

清四郎は少し考えた後、電話でアポイントを取ると、外回りの支度のために立ち上がった。

 

 

 

大通りに面した白いビルの一階から三階に、ジュエリー・アキの店舗はある。

その店の中で、ケースの中の宝石をきちんと並べなおしていた可憐は、スィングドアを押して入ってきた、仕立ての良いスーツ姿の男に微笑みかけた。

 

「いらっしゃい、待ってたわよ」

「すみません、商談がちょっと長引いてしまいましてね」

片手を挙げて、清四郎は少し頭を下げた。

白いスーツをエレガントに着こなした可憐が、優雅に清四郎に向かって歩いてきた。

長い髪をきちんとアップにまとめ、とても一児の母とは思えないスタイルの良さだ。

 

 

「元気そうね。…上で話しましょうか?」

そう言って、可憐は人差し指を立てた。上階にある顧客応接フロアに行こうと言うのだ。

「いや、あまり時間がないので、ここで。午後から会議があるんですよ」

清四郎が人差し指でその場を示すと、可憐は眉をしかめた。

 

「なぁに、婚約指輪を選ぼうっていうのに、時間が無いなんて…相変わらずね、あんたも」

「いくつか選んでおいてくれたんでしょう? 可憐のセンスの良さを信頼してますから」

くすくす笑いながら、清四郎はショーケースの脇にある、カウンターテーブルの椅子を引いて腰掛けた。

可憐は女性スタッフに何か話すと、黒い枠のジュエリートレイを掲げて、清四郎の向かいに座った。

 

 

「まったく、美童とえらい違いよね。あいつが野梨子に贈る指輪を選んだときは、それは時間がかかったのよ。あれでもない、これでもないって…」

「でも結局、野梨子はシンプルな立て爪のを選んだんでしょう?」

「ええ、着物に合わせるのは、それが一番だからってね」

笑いながら、可憐は清四郎の前にいくつかデザインの違うリングを並べた。

 

「悠理なら、わりと大振りのデザインでも似合うわよね。でも、仕事してるときに邪魔にならないように、石はあまり出っ張ってないのがいいと思うのよ。普段も着けて欲しいんでしょ?」

「ええ。…これなんか、いいですね」

トレイに並べられたリングをざっと見比べて、清四郎はひとつのリングを指差した。

ラウンド・ブリリアントカットのダイヤモンドの周りにも、メレダイヤが幾つか散りばめられた、ボリュームのあるデザインである。

「あ、それは一番新しいデザインなのよ。あたしもそれがいいと思ったの。それにするなら、同じデザインのものは、もう作らないことにするわよ」

可憐はそのリングを手に取り、様々な角度から見られるように、向きを変えてみせた。

 

「石は、最高のクラリティのものに変えられるわ。ちょうど、いい石が入ったのよね。あれに変えて…」

「値段は、いくらぐらいになります?」

うっとりと、リングの仕上がりを想像していた可憐は、清四郎の現実的な問いに、いささかムッとしながらも、すばやく電卓を叩いた。

「ま、ちょうどあんたの月収三ヶ月分ってとこね」

すっと自分に向けられた電卓の数字を読んで、清四郎は片方の眉を上げた。

 

「魅録はそんなに貰ってるんですか? おかしいですね、僕たち三人の給料は同額の筈なんですが。一度、経理に確かめてみないといけませんね」

「あら、あたしは“月収”三ヶ月分って言ったのよ。あんたは株やなんかでそのぐらいは儲けてるんでしょ?だいたい、剣菱財閥の令嬢を貰うのに、あんまり安い指輪じゃ、失礼よ」

ぴしりと言われて、清四郎は溜息混じりに笑った。

「かないませんな、可憐には」

そう言うと、懐から財布を取り出し、金色のカードを抜き取って可憐に差し出した。

「毎度ありがとうございますぅ。一回払いね?」

両手でカードを受け取り、にっこりと笑う可憐に、清四郎はカウンターに頬杖をついて、苦笑しながら頷いた。

 

 

「失礼します」

声がして、女性スタッフが運んできたコーヒーを清四郎と可憐の前に置き、更にサンドイッチの皿を清四郎の前に置いた。

「どうせ時間が無くて、昼食もまだなんでしょ?」

もの問いた気に自分を見る清四郎に、可憐は微笑む。

「…相変わらず、気が利きますね、可憐は」

清四郎は感心したように頷き、サンドイッチを手に取った。

「いただきます」

軽く可憐と女性スタッフに頭を下げ、口に運ぶ。

 

「刻印は、どうするの? シンプルに“S to Y”でいいのかしら?」

可憐が、手に持ったペンをもてあそびながら聞いた。

「ええ。…いや、数字も入れられますか?」

「ええ、出来るわよ。何?」

清四郎は、可憐の手からペンを取ると、そこにあったメモにさっと数字の並びを書き付けて、可憐に渡した。

 

 

「……あんたも、ロマンチックなとこがあるのね」

かなり長い間、メモを見つめて考え込んでいた可憐が、ようやくその数列の意味に気付くと、感慨深げに呟いた。

清四郎は黙ったまま、サンドイッチの最後の一切れを口に放り込み、コーヒーで流し込んだ。

 

「いつ、あの子に渡すの?」

「出来れば、来週頭には渡したいんですが」

「はぁ? だったらもっと早く買いに来なさいよ、もう!」

可憐は慌てて立ち上がり、職人に電話をかけようとした。

 

「無理ですか?」

「特別に急いでやってもらうわよ、まったく…」

ブツブツ言う可憐をよそに、清四郎は腕時計を見ながら立ち上がった。

「そろそろ会社に戻らないと…、出来上がったら、連絡して下さい」

電話の相手と話し始めた可憐に、見送らなくていいと手で抑える仕草をし、清四郎は外に出た。

 

 

 

 

ジュエリー・アキの前の広い通りは、車の往来が激しい。

清四郎はタクシーを捕まえる為に、向こう側へと渡り、右から流れてくる車の中に、タクシーを探した。

この時間、フリーで走っているタクシーは少ない。

可憐に頼んで呼んでもらった方が良かったかと、溜息をつきつつ清四郎は腕時計に目をやった。

とその時、清四郎の後ろにぴたりとつくように、何人かの人が立った。

 

「…?」

不審に思い、振り返ろうとした清四郎のわき腹に、硬いものが押し当てられた。

「声を出すなよ、本物だ」

抑揚のない、声がした。

「ちょっと一緒に来てもらうぜ。妙な真似したら、そこの店に何発か銃弾を打ち込むからな」

また別の男が、ドスの利いた声で言った。

清四郎は、可憐がいる店に目をやり、唇を噛んだ。

 

 

 

 

ジュエリー・アキの店内で、可憐は職人への電話を終えて、ほっと息をついた。なんとか、来週の頭には間に合いそうだ。

そのことをすぐに伝えたくて、可憐は店のウィンドウ越しに、清四郎の姿を探した。

真昼の今、店の中からは往来の様子が良く見え、たくさんの車が行きかう車道の向こうでも、長身の清四郎の姿はすぐに目に付いた。

 

外に出て呼び止めようと、店の出口へと向かった可憐の足が、不意に止まった。

清四郎の後ろに、男が二人立ち、何やら清四郎に話しかけている。

どう見ても、まともな職業についているとは思えない風体の輩だ。

 

何か難癖でもつけているのだろうか?かわいそうに、あの男達。

清四郎の強さをよく知る可憐が、そう思って苦笑しかけた時―――

 

 

清四郎と男達の前に、黒塗りの車が止まった。

清四郎の後ろに立っていた男の一人が、何かを持った手を清四郎の頭に振り下ろす。

ぐらり、と、かしいだ清四郎の身体を男の一人が抱きとめ、すばやく開いた車のドアの中に押し込んだ。

 

 

「清四郎!!!」

思わず叫んで、店の外に飛び出した可憐の目の前で、車は急発進し、ものすごいスピードで走り去った。

「あ……」

可憐は両手で口を押さえ、呆然と立ちすくんだ。今見たものが何だったのか、とっさに理解が出来なかった。

「やだ、どうしよう…」

呟いて、はっと我に返ると、可憐は震える手で携帯電話を取り出した。

 

 

「もしもし、魅録? 清四郎が、清四郎が!!」

 

電話に向かう可憐の声は、絶叫に近かった。

 

 

 

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