国際線の到着口から空港ロビーに出ると、悠理はほっと息を吐き出した。

周りを行き交う人々は皆日本人で、聞こえてくる言葉も日本語。

そんな当たり前のことが、しばらく日本を離れていた身には嬉しい。

どれだけ海外滞在が頻繁になろうと、英語が上達しようと、悠理にとって心落ち着くのはこの国である。

 

鼻歌を歌いたい気分で歩き出した。表には、名輪が迎えにきているはずだ。

車の中から清四郎に電話をして、待ち合わせ場所を決めよう。

どこかいいレストランを、清四郎が予約しておいてくれているはず。

そこで夕食をとった後は、清四郎のマンションに行って―――

楽しい予定を心に描きながら出口へと向かっていた悠理は、自動ドアから急ぎ足で入ってきた、背の高い男の姿を認めて目を丸くした。

 

「清四郎?!」

悠理に気付いて微笑む彼に、駆け寄る。

「ああ、よかった。間に合いましたね。おかえり、悠理」

「迎えに来てくれたのか?仕事は?」

「フルスピードで片付けてきたんですよ。久しぶりですから…」

 

清四郎はにっこりと笑うと、ぽんぽんと軽く悠理の頭を叩いた。

友人だった時から変わらぬ、悠理への親愛の情を示す仕草。

あの頃と違うのは、そのまま手を悠理の肩へと滑らせ、ぐっと引き寄せること。

 

「さぁ、行きましょうか?外に車を待たせてありますから」

「明輪は?」

「僕が迎えに行きますからと、連絡済みですよ」

悠理の問いに、清四郎は軽くウィンクしながら答えると、悠理を予定のコースへと連れ出した。

 

 

 

*****

 

 

 

「ささ、どうぞおひとつ」

ふざけた様子で徳利を手にする悠理に、清四郎は柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

清四郎が悠理を連れてきたのは、静かな料亭。

車からおりたとき、特に看板もなく、古風な民家のような門構えに、「ここ?」と不思議そうに悠理は尋ねた。

 

「ええ。やっぱり和食がいいかと思いましてね。さぁ…」

 

肩を押されて、門の内側に足を踏み入れた悠理は、思っていたよりもずいぶんと広い前庭に目を見張った。

しっとりと打ち水がされた通り口を抜け、清四郎が先に立って格子戸を開けた。

 

「わ!」

 

悠理は小さく驚きの声を上げた。

こういった料亭には、財閥令嬢である悠理は何度も来た事がある。

だから、扉を開けると広々とした玄関が現れるものだと思っていたのだが、そこにあったのは、使い込まれた木で作られたバーカウンターだった。

「いらっしゃいませ、菊正宗さま」

奥から出てきた和服姿の女性が、にこやかにバーカウンターへと二人を誘った。

 

「食前酒をどうぞ。何にします?」

「じゃあ、キール」

清四郎はジン&ビターをオーダーし、悠理に身体を向けた。

 

「ウェイティング・バーになっているんですよね。洒落てるでしょう?」

「うん!イイ感じ」

重厚な木のスツールに腰掛けて、悠理は瞳を輝かせた。

 

 

 

久しぶりの日本での食事を、悠理は心の底から楽しんでいた。

案内された部屋は、料亭の定石どおりに奥に床の間がしつらえられた和室であったが、運ばれてくる会席料理の品々には、日本料理の枠に収まらない、モダンなアレンジがされていた。

今も、焼き物として運ばれてきた牡蠣の味噌焼きにトマトピューレが加えられている事に気づき、悠理が感嘆の声を上げたところだった。

 

「おいしい?」

盃を手に、満足気な表情で清四郎が聞く。

「うん!すげーなー、この店。うちの店もこういうの作らせてみよっかな」

「…今回はレストラン事業での渡欧でしたね。首尾はどうです?」

「うん。毎日ビール飲んでた」

料理に夢中な悠理の簡略化された答えに、清四郎は思わず笑ってしまった。

 

 

普段は剣菱のスポーツ支援事業に関わっている悠理だが、今回は剣菱が新しく手がけるレストランチェーンの企画に借り出され、欧州各国に食材探しに行っていたということを、清四郎は知っていた。

だから悠理の答えから、ドイツでビール工場を回り、片っ端から試飲を繰り返している悠理の姿が思い浮かんだのだ。

きっと仕事とはいえ、大いにそれを楽しんだことだろう。

 

「いい銘柄は見つかりましたか?」

「うん!いっぱいありすぎてどれを店で出すか悩むぐらい。うんでさ、ドイツのおっちゃんたちって皆すごく気がよくってさ、ビジネスで来てんのに、試飲の途中からチーズやらソーセージやらが出てきて、飲めや歌えやになっちゃうの。

だから、一日に7〜8軒の醸造所を回るのが精一杯でさ〜。ドイツのビール醸造所って1300ヶ所くらいもあるから、すごい時間かかっちゃった」

「7〜8軒回れるだけでも、たいしたもんですよ。さすがの底なし胃袋ですね」

 

笑いながら、清四郎は悠理の相変わらずさに感慨を覚えた。

どこの醸造所でも飲めや歌えやの歓迎になってしまうのは、ドイツ人が日本贔屓という所為もあるだろうが、やはり悠理の天真爛漫さが、彼らの心を捉えてしまうからだろう。

この分では、仕事の首尾は上々であっただろう。

 

「しかし毎日ビール漬けでは、さぞかしお腹回りが太くなったんじゃないですか?そういえばさっき見たとき…」

清四郎は意地悪くそう言って、座卓の下から悠理のウェストをチェックする振りをした。

「馬鹿言え!太ってなんかないぞ。毎朝ジョギングしてたんだからな」

悠理が座卓の下でキックするように足を出す。

 

「そうですか?まぁ、そのあたりは後でじっくり確認させていただくとしましょう」

「スケベ。そういうお前こそ、仕事仕事で鍛錬を怠ってるんじゃないのか?」

「鍛錬は欠かしていませんよ。この間も和尚に頼まれて、久しぶりに武道奨励会に参加しましてね…」

「勝った?」

「もちろん、優勝です」

清四郎は、余裕の笑みを浮かべた。

 

 

そうして二人きりの会食は楽しく進み、料理の締めくくりに出てきた、餅りんごのお汁粉を前に、悠理は幸福そうに溜息をついた。

「ああ、やっぱり日本はいいなぁ。料理はうまいし、女も綺麗だ」

優雅に礼をして部屋を出て行く仲居の姿を目で追いながら、悠理は呟き、盃に残った酒をぐい、と一息に飲み干した。

そのまま、部屋から見える庭の景色にと視線を移す。

所々に置かれた置き行灯が柔らかに照らし出す情景を、悠理はうっとりと見つめた。

そんな悠理の横顔をじっと見つめ、清四郎も盃の酒をぐっと飲み干し、話の糸口を探した。

 

 

「…美童と野梨子が、式を挙げるようですね」

「…ああ、野梨子からメールが来てた。6月だって?」

視線を清四郎に戻して、悠理は楽しそうに答えた。

 

「大学を出てすぐに婚約したのにさ、長い婚約期間だったよなぁ、あいつらも」

「二人とも忙しい身でしたからね。野梨子は家元修行でいっぱいいっぱいの状態だったし…」

「それでも美童がいたから、頑張ってこれた…なんて、さんざん惚気られちゃった」

 

悠理が笑う。

親しい友の幸せは、彼女にとって自分のことのように嬉しいこと。

その笑顔に後押しされて、清四郎は今日言おうと決心してきた言葉を押し出す。

 

 

 

「悠理、僕達もそろそろ……結婚しませんか?」

 

え、と悠理が顔を起こす。

 

「僕と、結婚してくれませんか?」

 

 

 

「……今?」

不安げな悠理の問いに、清四郎は苦笑した。

「いや、別に今すぐというわけじゃありませんよ。色々準備もいることですし…。でも、そうですね。今年の秋ぐらいに式を挙げられたらいいですね」

 

「秋……?」

悠理は小声で繰り返すと、お汁粉の椀を持ち上げて一口すすった。

椀をテーブルの上に置いても、そのまま手を離さずにじっと椀の中を見つめ、一心に考え込んでいるようだ。

その様子を見て、清四郎の胸に不安がよぎる。

 

「その…結婚するからって、お前に仕事を辞めてくれというつもりもないし、お前の行動を束縛するつもりもない。ただ…」

「ただ?」

悠理にじっと見つめられ、清四郎は言いよどんだ。ただ…自分は何を言うつもりだっただろう?

 

 

 

「結婚、したいんです」

それが、素直な心情。理由など、特にあるわけでもない。

「嫌、ですか?」

らしくもなく、不安げな声で聞くと、悠理はぶんぶんと首を横に振った。

 

「嫌じゃない、そんなんじゃないよ。結婚するんなら、相手は清四郎しかいないし、清四郎とじゃなきゃ嫌だし。でも…」

「でも?」

「今、やりかけてる仕事が色々とあるし…結婚したらどうなるんだろうとか考えちゃうし…なんか…」

悠理は自分の頭を抱え込んだ。

「駄目だ。なんかパニクッちゃって、わけわかんない。ちょっと待って…」

頭を抱えたまま、目を白黒とさせている悠理の姿に、清四郎はほっと息を吐き出した。

安心すると共に、笑みが浮かぶ。

 

「答えは、急がなくていいです。前向きに検討してください」

「うん、そうする。あ…ありがと」

 

 

赤くなりだした頬を両手でぱちぱちと叩きながら、悠理は清四郎に礼を言った。

まだ自分の心は定まらなくても、プロポーズが嬉しいことにかわりはない。

 

「ありがとう、清四郎」

もう一度、きちんと清四郎の顔を見て言う。

清四郎は嬉しそうに笑うと、「そろそろ、出ましょうか」と、スーツの上着を手に取った。

 

 

店の外に出ると、冬の夜とは思えない暖かな風が吹いてきた。

どこからか、かすかに漂う梅の香りを、悠理は胸いっぱいに吸い込み、もうすぐ春だな、と思った。

 

 

 

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