2.
「悠理っ!」 部屋を出て行く、彼女の背中に叫んだ。 逃げてゆく、僕の恋に。
情けないことに。 僕には悠理を追いかける気力がなかった。 「悠理、これが答えですか…」 手酷い、拒絶。 見事に、玉砕。 さっきまで彼女が腰掛けていた椅子に座り込み、テーブルに片肘を突いて顔を覆う。 「くっ、くくく……」 自嘲の笑いが込み上げる。 「くくく……ふっ…う……」 ……情けない。 こんなことで、泣くなどとは。 唇を噛み締めて、嗚咽を堪えた。 流れ落ちる涙は、止められはしなかったが。 悠理…悠理…… 今更ながらに、思い知る。 こんなにも、あなたを思っていたことを。
バタン。 部室のドアを閉め、鍵をかけると溜息が漏れた。 昨日までは、居心地が良かったこの部屋。 明日からは……わからない。
校舎を出て、学園の外へと歩き出す。 すれ違う、プレジデント生達の視線を感じる。 いつもなら、「ごきげんよう、菊正宗君」などと声をかけられるのに、今日は皆声をかけるのを躊躇っているようだ。 僕は、そんなにひどい顔をしているのだろうか。 確かに、目の縁は赤くなっているだろう。 だが、それを隠すために俯いて歩くには、僕のプライドは高過ぎた。
*****
重いチーク材のドアを開けると、スローなジャズが流れている。 控えめな照明が、落ち着いたインテリアを照らし出す。 男だけで飲むときには、いつも利用しているBAR。 家に着いた途端、鳴り出した携帯のメールでここに呼び出された。
一枚板のカウンターの端で、光沢のある淡いピンクのシャツを着た美童が手を振った。 白いTシャツ姿の魅録が、グラスを掲げて見せる。 「よぉ、遅かったな」 「すみませんね。メールが来たときは、家に帰ったばかりだったので」 「で、どうだったんだよ?報告、報告〜」
僕は、困った顔で眉を下げた。 その表情に、美童がはっとした顔を見せる。青い瞳が、曇った。 「え……駄目、だったの?」 「マジかよ?」 「見事に玉砕です。振られてしまいましたよ」 僕は魅録の隣に腰掛けると、マスターにスコッチウィスキーのダブルを注文する。
「俺はてっきり、悠理もお前さんに惚れてると思ってたんだがな」 「僕もだよぉ。っかしーな、何考えてんだ?悠理の奴」 「まぁ…僕ももしかしたら、とは思ったりもしてたんですがね。ご覧のありさまですよ」 琥珀色の液体を満たしたグラスが、目の前に置かれた。 グラスを取り上げ、友人たちに軽くウィンクして見せる。 「今日は…とことん付き合ってもらいますよ。呼び出したのは貴方達の方ですからね」 「げ、やぶへび」 美童は、携帯のボタンを忙しく操作しだした。 大方、今日の相手に断りのメールを打っているのだろう。ピ、と送信ボタンを押すと携帯を閉じた。
「んじゃ、振られ男に乾杯!」 美童がブラッディ・マリーのグラスを掲げ、粋に首をかしげる。 「しょうがないな、付き合うぜ」 魅録も、バーボンのグラスを掲げる。 三人揃って、それぞれのグラスの中の液体をぐっ、と飲み干す。 「一本、いいですか?」 カウンターの上に置かれていた魅録のタバコに手を伸ばし、口に咥える。 魅録がZippoを手に取り、カキンと音をさせて蓋を開けると、僕のタバコに火をつける。 そのまま、自分のタバコにも火をつけ、二人同時に煙を吐き出す。 カウンターに着いた腕に顔を乗せた美童が、黙ってそれを眺める。
一人でいたくない、こんな夜に。 共に飲んだくれてくれる友人たちの存在に、僕は心の底から感謝した。
*****
「うっ、ふぇ…ひっく、ひっく、ひっ……」 家に帰り着いてからも、あたいはまだ泣き続けていた。 ベッドに突っ伏し、枕を抱きしめて。 何をそんなに泣くことがあるのか、まるでわかんない。
ただ、ずっと今日の清四郎を思い出していた。 あたいに向けられた、熱っぽい瞳。 困惑したような顔。 呆れたような、でも優しい瞳。 写真の中の、あたいに対する思いが溢れ出ているかのような表情。 …そうだ、あの写真どこへやったかな?
「悠理?ヤダ、あんた何で泣いてんのよお」 急に背後で響いた声に、鞄をかき回して写真を探していたあたいはワタワタした。 可憐? 「どうしましたの?清四郎に何かされたんですの?」 …野梨子も、なんで? 可憐はあたいの側に来るとぎゅっとあたいを抱きしめてくれた。 その暖かさに、流れ続けていた涙が止まる。
「清四郎に、告白されたんじゃなかったの?」 あたいの頭の上で、響く可憐の優しい声。 「わかんない…」 すり、と可憐の豊かな胸に頬を摺り寄せて呟く。 「わかんないんだよ。清四郎がどういう気持ちなのか、あたいがどうしたいのか」 思ったことを、正直に言ってみた。 「清四郎は、なんと言いましたの?」 隣に座り、あたいの頭を撫でながら野梨子が聞く。 「誤解しないでくれって」 「え?」 「お前と特別な関係になりたいとか、そんなんじゃないって」 「そんなんじゃない?」 「ただ、ずっと側にいたいって…」
二人はお互いに顔を見合わせ、大仰に溜息をついた。 「まったく、あの男ときたら…」 「何でもそつなくこなすくせに、こういうことに関してはまるきり駄目なんですから…」 「「悠理」」 二人でタイミングを合わせたかのように、あたいに向き直る。 「何?」 すっかり涙の止まったあたいは、可憐の腕を離れて、ベッドの上に胡坐をかいて座った。 「悠理は、清四郎のことどう思ってるの?」 「どうって…」 「好き?嫌い?」 「キライじゃないよ。ダチだし…」 「友達として、だけですの?」
あたいは目をぱちぱちさせた。 二人の言うことが、よくわからない。 「まったく…清四郎もだけど、あんたも厄介よね」 可憐が、あたいの様子を見て、また溜息をつく。 「いーい、例えばの話よ。もし清四郎が、他の子と付き合い出したらどう?」 「どうって…」 「もう、あんたをいじめたり、かまったり、勉強見てもくれなくなるの。 幽霊に合っても助けてくれないし、頭をくしゃくしゃしたりなんかも、してくれなくなるのよ」 頭くしゃくしゃも、してくれなくなる?あんな優しい目で、見てもくれなくなるってこと?
「…やだよぉ」 止まってた涙が、また湧き上がってきた。 やだよ、そんなの。 清四郎が、他の人のものになっちゃうなんて――― あ?それって…
「…あたい、清四郎のことが好きだ」 目が、覚めたような気分。 知らなかった。やっと気付いた。 あんまりにも自然な感情だったから、ずっと気付けなかった。 清四郎が、どんなに大事な存在だったかを。
「そうよ、やっとわかったの?」 「本当に、世話をかけますこと」 ほっとしたように、可憐と野梨子は笑う。あ、でも… 「でも…いいの?野梨子。清四郎が…他の人、その…あたいのものになっちゃっても?」 野梨子にとって、清四郎は大事な幼馴染。 「まぁ、悠理ったら」 ころころと、笑う野梨子。 「清四郎と私は単なる幼馴染ですわよ。悠理がいいなら、熨斗をつけて差し上げますわ。もっとも……」 ふわり、綺麗な野梨子が、花がほころぶように笑った。 「清四郎は、ずっと前から私のものではなく、悠理のものでしたけど」 「……」
あたいの胸に、花が咲いた。 固いつぼみのまま、花咲く日を待っていた。 清四郎が咲かせてくれる日を、ずっと待ってた。
♪〜〜 不意に、携帯のメロディーが鳴り出した。 可憐が自分の携帯を取り出して手早くチェックし、パタンと閉じる。 「清四郎、飲んだくれてるらしいわよ。行く?」 「行く!」
今度は、あたいから言おう。 逃げちゃってごめんって。 清四郎が、大好きだよって。
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