4.
サラサラと、清四郎はペンを走らせる。 午後の診察時間が終わり、清四郎は一人で患者のカルテを整理していた。
「清四郎、入るぞ」 ノックの音もなく、入ってきた人物に清四郎は顔も上げずに応えた。 「なんですか?忙しいんですけど」 「…相変わらず可愛げのない奴だな、お前は」 清四郎の机の前にもたれ、彼の父は煙草を取り出して火をつける。 「ここは禁煙ですよ」 「固いことを言うな」 清四郎は顔を伏せたまま、軽く眉をひそめた。 修平はうまそうに煙を吐き出し、ポケットから携帯用の灰皿を取り出して灰を落とした。
「僕に何か用ですか?」 清四郎はようやく顔を上げて父親をにらみ付けた。 「いや何。お前の顔が見たくなってな」 清四郎は、今度ははっきりと顔をしかめて見せた。 「…見合いの話なら、僕は受けませんよ。断っておいて下さい」 「そう言うなよ。ワシが母さんに怒られる」 「甘んじて受けてください。跡継ぎなら、姉さんとこの修一郎がいるでしょう?」 姉の和子は3年前に大学時代の同級生と結婚し、一男をもうけている。 清四郎はまた、手元のカルテに視線を移した。
「お前は…好きな女の一人くらいはおらんのか?」 修平が、すぱすぱと煙草をふかしながら聞いてきた。 「僕は……恋愛には興味がないんです」 「何を言うか。結構遊んどるのは知っとるぞ」 「…それと恋愛とは別ですよ」
しれっととんでもないことを言う息子に、修平は何とも言えぬ複雑な思いを味わった。 ここ半年ほどの間、息子が恋をしていると思っていたのは自分の思い違いだったのだろうか? だが、清四郎が身に纏う空気の変化に気づいていたのは、修平だけではない。 噂好きなナースたちの間でも、それは頻繁に話題にされていたと言うのに。
しかしここ二ヶ月程、清四郎の雰囲気が変わったこともまた、噂になっていた。 父親である修平の目に映った清四郎の様子。 それはまるで手の届かぬ月や太陽に恋焦がれ、それを得る事と諦め、共に何もかもを諦めた男のようだった。
しかし、彼は仕事に対しては投げやりになっているような様子はない。 むしろ悲壮なまでに打ち込んでいるように見えた。 だからこそ、修平は余計に息子のことが心配になった。 もしも家業が彼の足枷になっているのなら、そこから開放してやりたいと思うほどに。
「清四郎……」 父親の呼びかけに、清四郎は俯いたままで上目遣いに視線を向けた。 「…無理はするなよ」 もっと他に言い様もあるだろうが、修平が口に出来たのはそれだけであった。 清四郎は少し片眉を上げ、また視線を手元に戻した。 何も応えようとしない息子に、修平は大きな溜息をひとつ吐くと、部屋を出て行った。
バタン…
ドアが閉じると。清四郎は机の上にペンを放り出し、椅子の背凭れにもたれて天井を見上げた。 片手で顔を覆い、小さく嘆息する。 父がわざわざ何を言いに来たのか、彼にはわかるような気がしていた。 ここ二ヶ月、自分でも無茶な仕事ぶりだと思ってはいた。 連日の勤務。休みは一日も取ってはいない。
休みを取るのが怖かった。 仕事をしていれば、他のことは考えなくて済む。 いや、それは嘘だ。 仕事中でも、気を抜けば彼女のことが頭に浮かんでくる。
彼女の笑顔や、彼の愛撫に揺れる肢体。彼の名を呼ぶ、愛おしい声。 そして、彼女に別れを告げたときに、嗚咽しながら彼女が言った言葉―――
「あたしは…何もかも…捨ててもいいって…思って……でも、出来なかっ……」
会うことを止めれば、忘れられると思っていた。 胸の痛みも、自責の念に駆られることも、時間が経てば消えていくだろうと。 彼女と愛し合ったこの半年間の記憶も、胸に宿る愛しい面影も、この先もずっと自分の中で消える筈も無いのに。 日が経てば経つほどに、胸の痛みは耐えがたい渇望となって彼を苦しめる。 会いたい…会いたい…会いたい、悠理!
意気地が無いのは僕の方だ。 僕に全てを捨てる覚悟さえあれば、この苦しみに終わりを告げることが出来たのかもしれない。 仕事、今の生活、大切な友人達や家族を裏切ってでも?
この思いさえも捨てられない僕に、そんなことが出来ただろうか……
*****
あたしは何とか、うまくやっているよな。 悠理は自分に問いかけた。 この二ヶ月、悠理は家事を覚えることに没頭していた。 朝起きて、朝食の用意をする。洗濯機を回す。家の中を片付けて、掃除機をかける。 普通の主婦なら当たり前のことなのに、結婚してからも悠理はずっとそれをしないできた。
買い物に行き、四苦八苦しながら夕食を作る。食べたらすぐに後片付け。 一日中、悠理はくるくると動き回っていた。 動きを止めたら、二度と動き出すことが出来なくなりそうで。
表面上は、穏やかな日々。 魅録は相変わらず仕事が忙しくて、なかなか家に帰っては来れないが。 たまの休みには二人して出かけたり、この間は久々にツーリングにも行った。 魅録とそうして過ごすことは、学生時代と変わらずに楽しく感じた。
だけど、ふとした時に自分が何かを探していることに気づくのだ。 あの男の面影を。愛し合った半年間の記憶を。 日が経つほどに、それは鮮やかに色を増して悠理の中に蘇る。 こんなにも、あの男に囚われていた事にようやく気づいた。 会いたさに胸が引き絞られるようだった。
もし、全てを捨てることがあたしに出来たなら。 大切なものを全部失ってでも、あいつの許に行く勇気があったなら。 今でも、側にいられたかな? ……そんなこと、できる筈がないのに。
*****
魅録は、戸惑っていた。 清四郎が言ったように、悠理は自分の許に戻ってきたようだ。 何故……? 俺への愛で? …そうじゃない。
悠理が自分に向ける笑顔が、あの日の清四郎の微笑みに重なる。 あまりにも透明で、今にも壊れそうな笑顔。 こんな表情をさせる為に、俺は悠理を愛したんじゃない。 誰よりも愛する妻と、無二の親友と。 二人を傷つけ、苦しめているのは俺の存在。 だったら俺は……
*****
「きくまさむねせんせい!」 幼い呼び声に、清四郎は振り返った。 ばら色の頬をして微笑む少女。傍らに立つ少女の母親が会釈している。 2週間前に、清四郎が心房中隔欠損症の手術を行った少女。 手術後に肺高血圧を起こし重症に陥ったものの、清四郎の懸命な治療の甲斐あって回復し、一般小児病棟に移っていたのだ。
「礼奈ちゃん、今日退院でしたね。おめでとう」 大股に少女に近寄り、微笑んで声をかけた。 「本当に菊正宗先生にはお世話になりました。この子がこうして元気に退院できるのも全て先生のおかげです」 母親がぺこぺこと頭を下げる。 清四郎は片手を上げて母親の感謝の言葉を制し、かがみこんで少女と視線を合わせると話しかけた。 「礼奈ちゃんが頑張ったからですよ。礼奈ちゃん、良かったね」
「せんせいのおかげです。ありがとうございました」 5歳の少女は至近距離で清四郎に見つめられ、真っ赤になりながらもそう言った。 清四郎は嬉しげに微笑むと、手を伸ばして少女の頭を撫でた。 母親がくすくす笑う。 「この子ったら、先生に恋しちゃったんですよ。初恋なんですって」 「ママ!いっちゃダメー!」 少女は怒って母親をぶつ真似をし、恥ずかしげに母親のスカートの陰に隠れた。
「それは…光栄ですね」 少し目を見開いて清四郎が応える。 少女は母親のスカートに顔を押し付けたままだ。 「ほら、先生に渡すものがあるんでしょ?」 母親に促され、少女はまた清四郎に向き合うと小さなこぶしを差し出した。 「これ…せんせいにあげる」
差し出した清四郎の手のひらに乗せられたのは、小さな丸い金属でできた小石。 「おまもり。先生、ときどきつらそうだったから」 「これ!この子ったら……すみません、それ、主人が買って来た物なんですけど、礼奈がどうしても先生にって」 少し呆然としながら、清四郎は手のひらの上の「おまもり」を見つめた。 文字が彫り付けてある。 『大丈夫、なんとかなる』
清四郎はじっとその文字を見つめ、ゆっくりと握り締めた。
誰も知るはずのない彼の心の葛藤を、何故か少女が感じ取り、彼の背中を押そうとしているように感じた。
「ありがとう。大事にしますよ」 自らが命を救った少女にそう告げると、清四郎はにっこりと微笑んだ。
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