3.



菊正宗病院の応接室のひとつで、彼らは向き合って座っていた。
「久しぶりですね、魅録。どうしたんですか?急に」
白衣を着た清四郎は、身を乗り出すように膝の上に肘を着いて指を組み合わせた。


「忙しいのに悪いな。ちょっと相談したいことがあってよ」
スーツ姿の魅録は、落ちつかなげに煙草を取り出すと口に咥えた。
灰皿を探すかのように視線を彷徨わせ、煙草に火をつける。
ゆっくりと吸い込み、煙を吐き出す。
ようやく人心地着いたかのように、魅録は視線を清四郎に合わせた。



先程中庭で声をかけた時から、魅録は久しぶりに会った清四郎が身に纏う空気の変化に驚いていた。
昔は武道家らしく、どこかピンと張り詰めた、時には近寄り辛い雰囲気さえ漂わせていものだが
しかし今この男の周囲に漂うのは、驚くほどに柔らかな空気。
それは思いつめた魅録の肩の力を、ふっと抜かせてしまうほどに。


おそらくは、医者としての彼の姿勢がこの変化を与えたのであろう。
成程、確かに天才外科医と言われたあの父の子だけはある。
今の彼なら患者の身体の病だけでなく、心まで癒してしまいそうだ。
一瞬、己の悩みの通俗さが恥ずかしくも思えたが、魅録はひとつ咳払いをすると話し出した。
目の前の男に真っ直ぐに視線を向けて。
「実は、悠理のことなんだが……」
清四郎が、軽く唇を噛んで頷いた。



魅録は一つ一つ、言葉を確かめるように話し続けた。
悠理の変化。
それに対する自分の気持ち。
最初は仕事でろくに一緒にいてやれないことが、寂しいのだろうと思っていた。
けれど、それはいつしかある疑いへと変化していったこと。
だが、
それを認めたくはなかったこと。
そして、今朝の出来事。
力一杯自分を突き放して、激しく泣きじゃくった悠理……



清四郎は時折相槌を打ちながら、魅録の話をじっと聞いていた。
自分の心にある動揺を気取られないようにと祈りながら。
中庭で魅録に声をかけられたとき、清四郎は「遂に来たか…」と諦観した。
言い訳など出来るはずもない、自分は彼の妻を寝取ったのだから。
だから清四郎は、殺されることも覚悟して、魅録の怒りを受け止めるつもりだった。
だが、魅録の口をついて出た言葉は、清四郎の予測とは大きく外れたものだった。


魅録は自分の妻の不実を確信し、それに対する相談として清四郎の許を訪れたのだ。
彼が心の底から信頼する、無二の親友としての清四郎に。
それは殴られる事よりも、罵倒される事よりも強く、清四郎を打ちのめした。


「…それが今朝のことですか?」
清四郎の声は、穏やかだった。
「ああ、さすがに俺もどうして良いのかわからなくなっちまってよ。あいつを置いたまま出て来ちまった」
魅録はテーブルに肘を着いて頭を抱え、ばしばしと叩いた。
清四郎は、確かめるように魅録に問いかけた。
「それで、何故僕に相談を?こういう事なら可憐か美童のほうが適任でしょうに」
「いや…悠理のことなら、あんたが一番よく理解してるだろう?」
「理解…ですか……」

 

 

清四郎は、魅録の言葉を噛み締めるように反芻した。何の他意もない、その言葉。
魅録は学生時代と全く変わらない。
真っ直ぐで、友情に厚く、表裏がない。
(……こんな男に敵うわけがない)

今までもずっと心の中では思っていながらも、認めたくはなかった、敗北。
けれども今、
打ちひしがれている魅録を前に、清四郎は自分の心を決めた。



「魅録、僕はあなたと悠理のことをずっと見てきました。だから言わせて貰いますが」
まっすぐに、魅録を見つめて話しかける。
「悠理が…仮に他の男に心を奪われていたとしても」
声が震えてはいないか、顔が強張ってはいないか。
「それはきっと一時の気の迷いですよ。悠理は必ずあなたの元に戻ってきます。それも…そう遠くないでしょう」

膝の上に置いた手をぐっと握り締めた。
「悠理を、待ってやってくれませんか?」



ぽかん、と魅録は清四郎を見返した。
「お前…まさか何か知って……」
問いかける魅録の声が震えている。
清四郎はさらに強く手を握り締めた。血の気を失うほどに。
「いえ、僕は何も知りません」
軽く頭を振って否定を表す。
嘘なら今までに幾らでも吐いてきた。顔に表さない自信はある。
「悠理には長らく会っていません。でも…そう、僕の勘ですね」



魅録はソファから身を乗り出すようにして、清四郎の顔をじっと見つめて話を聞いていた。が、ふいにふっと息を吐くと、背凭れにもたれた。
「そうか…そう思うか。そうだな…」
ばっと身を起こして清四郎の顔を見ると、にやっと笑った。

「ありがとよ、清四郎。俺、信じて待ってみるわ。悠理は…俺の女房だもんな」
「そうですよ、魅録」
落ち着いた声でそう言うと、清四郎は微かに微笑んだ。

その微笑みがあまりにも透明で、わずかに諦めや悲しみを含んでいるかのように見えて、魅録は何故か、胸が痛むのを感じた。


「清四郎は…好きな女はいないのか?」
思わず聞いた。
「何でそんなこと聞くんです?僕は相変わらず、忙しすぎて女性にまで手が回らないんですよ」
清四郎は少し口の端を下げ、ぶっきらぼうに答えた。

学生時代とまるで変わらないその表情に、魅録は微笑んだ。
「そうか…いや、悪かったな。忙しいのにつまんない事で愚痴っちまって。俺、帰るわ」
「つまらない事なんかじゃないでしょう?大切な友人の事なのに」


魅録と清四郎は立ち上がり、ドアを開けて廊下に出た。
向かい合わせに立ち、言葉を交わす。
「じゃぁ、僕は回診があるのでこれで」
「ああ、ありがとな。清四郎」
清四郎は微笑み、ぽんと魅録の肩をひとつ叩きながら歩き去った。



「……」

魅録はゆっくりと振り返って、その後姿を見詰めて立ち竦んだ。
すれ違うときに、清四郎の身体から感じた微かな香り。
それは今朝、悠理の身体から立ち昇っていた残り香にあまりにも似ていた。



イラスト By たむらんさま


(まさか……)

急に世界が色を無くし、周囲の物音が何も聞こえなくなった。
(まさか…そんな筈は……)
ガクガクする膝を叱咤し、魅録は無理やり前へと歩き出す。

だが、心に湧いた疑念は確信へと変わっていった。
やっとの思いで菊正宗病院を後にすると、魅録はふらふらと彷徨い歩いた。
途方に暮れた少年のような瞳をして。

信じていたものが、足元から崩れ去っていったような、虚実感を抱えて。





*****






悠理が清四郎からのメールを受け取ったのは、先日の逢瀬から10日程経ってからの事だった。
いつものように時間だけを告げる、そっけない文面を消去しようとして、悠理は何故か一瞬躊躇した。
もしこのメールを消してしまったら、二度と清四郎に会うことが出来なくなるんじゃないか。
そんな考えが頭を過ぎり、喩えようも無く不安になった。




あの朝、どこかへ出ていった魅録は遅くまで戻らなかった。
悠理は罪悪感に打ちのめされながら、魅録が帰ってくるのをじっと待っていた。
ようやくドアが開く音に、玄関に飛び出していった悠理の顔を見ると、魅録は薄く笑った。
「よぉ、腹へってねーか?何か食いに行こうぜ」

と言い、いつもの癖で悠理の髪をくしゃくしゃと撫でた。


中華料理をつつきながら、二人はありきたりな会話を交わした。
今朝のことなど気にしていないのか、魅録の様子は普段と何も変わらず、悠理は落ち着かない思いを抱きながらも、何処となくほっとしていた。


食事を終えて、一杯飲みに行ってから二人は帰宅した。
シャワーを浴びに浴室へ向かおうとしていた時、魅録が悠理を後ろから抱きとめた。
わずかに息を飲んだ悠理に、魅録は
「俺はお前を信じてるから。悠理」
とだけ言うと手を離し、ゆっくりと寝室に入っていった。


シャワーを浴びながら、悠理はとめどなく涙を流した。
魅録の気持ちが痛くて苦しくて。
もう、終わりにしよう。

今度会ったら、清四郎に別れを告げよう。いや、もう会わないでおこう。

 

そう決心した筈なのに、清四郎からのメールにまた心を動かされてしまう自分がいた。
会えなくなる事への不安に、押しつぶされそうな自分がいた。
「今日だけ…今日で終わりにするから……」
携帯を握り締めて悠理はそう呟き、身支度をした。

 

 

着信履歴は、消せなかった。




*****





いつものホテル。
いつも二人が逢瀬に使う、最上階の一室。
二人はベッドの上で固く抱き合っていた。
一糸も纏わぬ、生まれたままの姿で。


肌を滑る清四郎の手と唇に、悠理は喘ぎ続けた。
いつもの乱暴なまでの愛撫とは違う。
ひとつひとつ、悠理の反応を確かめていくかのような愛撫に、悠理は激しく乱れた。


「清四郎…あっ、清四郎っ!清四郎……」
何度も何度もm男の名を繰り返して呼んだ。
「悠理……悠理…くっ、悠理っ!」
華奢な身体を責めながら、清四郎もまた彼女の名を呼び続けた。



二人同時に絶頂を迎えた後。
清四郎は悠理の身体を抱きしめ、覆いかぶさったまま、しばらく身動きもしなかった。
「…清四郎?」
悠理が不審そうな声を漏らす。
清四郎の肩を抱きしめた手を、彼の頬に滑らせようとした。
その時、
清四郎が悠理の胸元に埋めていた顔を上げ、彼女の瞳を見つめて微笑んだ。

 

胸が痛くなるほどに優しく、どこか悲しげな頬笑み。


そっと目を閉じると、清四郎がゆっくりと悠理に口づけてきた。
柔々と、唇の感触を確かめるような接吻。
(どうしよう…今日で終わりにしようと思ってたのに……)
悠理の心が乱れる。
(やっぱり、離れるなんて出来ないよ……)


「つうっ!」

急に胸元を強く吸われ、その痛みに悠理の意識が覚醒した。
驚いて目を開け、自分の胸に散らされた花弁に目をやる。

赤く赤く、白い胸に付けられた愛の刻印。

 

清四郎がこんなことをしたのは初めてだった。
情事の痕跡を残す事は、避けていた筈だったのに…
「何すん……」
咎めようと清四郎の顔を見上げた悠理の瞳が、大きく見開かれた。



ぽつん、と、悠理の頬に水滴が当たった。

―――清四郎が、泣いていた。
悠理の身体の脇に両手をついて、彼女を見下ろしながら。

声も立てずに、ただ涙を流し続けていた。
精悍な顎が、微かに震えている。
泣きながらも、清四郎はじっと悠理を見詰め続けた。


悠理は、清四郎の瞳をじっと見つめ返していた。
やがて、ゆっくりと両手で自分の顔を覆い、その手の脇から涙が零れだした。

悠理の手に、清四郎の涙が落ちて音を立てる。

声も立てずに、二人はただ泣き続けた。

 

 

 

やがて、清四郎が掠れた声を絞り出して告げる。

「もう、終わりにしよう。悠理…」





悠理は顔を覆ったまま、ひとつ頷いた。
堪え切れない嗚咽が、喉の奥から漏れた。



イラスト By たむらんさま





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