2.
小さくて目立たない外観だが、一歩中に入ると落ち着いて洒落た佇まいの一軒のホテル。 待ち合わせの時間に少し遅れて、悠理は入り口のスィングドアをくぐった。 ロビーのソファに腰掛けていた男と一瞬だけ視線を絡ませ、真っ直ぐにエレベーターに向かう。 エレベーターが下降して来るのを待っている間に男が隣に並んだ。 視線は合わせない。
エレベーターの扉が開き、悠理は一番奥に乗り込んで振り返るとじっと前を見つめた。 エレベーターボーイも、他の乗員もいない。 扉の横に立った男がゆっくりと最上階のボタンを押した。 扉が閉まる。軽い気圧の変化を感じる。 二人は無言のまま、目の前の扉を眺め続ける。
ポーン、と柔らかな音がして最上階の扉が開いた。 男に続いて悠理もエレベーターを降りる。 最上階には二室しかない。 そのうちの一室のドアの前に立ち、男はカードキーをスリットに差し込む。 重いドアを開き、片手で抑えると、男は少し後ろを振り返った。 男の脇をするりとすり抜け、悠理は室内に歩を進めた。 バタン…ドアが閉まる鈍い音。 ぎゅ、と後ろから抱きすくめられた。
「悠理…来てくれた……」 痛いほどに強く自分を抱きしめる腕に手を添え、悠理は男の胸に頭をもたせかけた。 「清四郎……」 心の底から搾り出すように、男の名を呼んだ。
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あの夜から、二人は何度か会っては酒を酌み交わした。 いつも他愛無い会話の応酬を繰り返すだけの、無垢な関係だった。 けれど、二人の内面では何かが変わっていっていた。 少しずつ、少しずつ、無言で見詰め合う時が多くなり…… ついに、心の奥底で堰き止めていた感情が、荒れ狂う奔流となって溢れ出してしまった。
その夜… 悠理は、掴まれた腕を振り解けなかった。 清四郎は、悠理の手を離す事が出来なかった。 ホテルのベッドで、二人は激しく求め合った。 常識も、しがらみも、二人を隔てるものの事など何も考えることが出来ずに。 二人の間にあったのは、ただお互いを思う、激しく切ないまでの想い。
そうして、二人は落ちていったのだ。 恋と呼ぶには、余りにも背徳的な感情に。
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お互いの肌を激しく貪りあった後、悠理は清四郎の腕に包まれてまどろんでいた。 清四郎は悠理の髪に顔を埋め、物思いに落ちていた。 静かな吐息。 甘い髪の香り。 無意識に彼の胸に擦り寄る仕草も。 全てが自分のものだと思えた。 今、こうしているときだけは。 本当はそうでない事など、わかり過ぎる位にわかっているというのに。
自分のしていることは、大切な親友を裏切ること。 悠理は、魅録の妻なのだ。 何故にもっと早く、彼女を愛さなかったのだろう? 魅録が彼女を愛する前に。
悠理がまどろみから覚めると、清四郎は軽い寝息を立てていた。 穏やかな寝顔。 前髪の下りたこの男は、いつも少し幼く見える。 そっと彼の前髪を掻き上げ、首を伸ばしてその額に口づけた。 「ん…悠理……」 寝言でさえも、自分の名を呼んでくれる。 そんな事がただ、愛しくて愛しくて… そっと起き上がった悠理は涙を流した。 閉じたカーテンの隙間から冴え冴えとした月が見えた。
自分のしていることは、大切な夫を裏切ること。 自分には、魅録と言う夫がいるのだ。 何故もっと早く、清四郎を愛さなかったのか? 魅録に愛される前に。
悠理の胸がずきずきと痛み出した。 耐え切れず、胸に手を当てる。 恋がこんなに苦しいものだなんて、知らなかった。 魅録に恋したときは、ただ幸せで。 暖かい太陽に包まれているようだったのに。
初めて知った。 ずっと恋というのは「する」ものだと思っていたのに。 本当は、気づいたらただ「落ちて」いるものだったのだ。 そうして、自分は落ちてしまった。 この男との行くあてのない恋に。
腕の中の悠理が起き上がった気配に、清四郎は目を開いた。 悠理はベッドの上に座ったまま、ぼんやりと窓の方を見つめている。 カーテンの隙間から漏れる月明かりが彼女の肢体を照らす。 闇の中に浮かび上がる、一糸纏わぬその細い身体。 ―――綺麗だ。 何の邪念も挟まず、素直にそう思った。 だが、同時に彼女にこんな姿は似合わないとも思う。
悠理が一番煌くのは、やはり陽の光の下で笑っている時ではないのだろうか。 天真爛漫な悠理。 魅録と愛し合っている時の悠理は、彼の瞳には内から輝いているかのように見えていた。
魅録は彼女をあんなにも煌かせていたというのに。 自分はといえば、悠理を暗い影の中に誘い込んでしまっただけだ。 自分達二人は、陽の光の下で寄り添って歩くことさえ許されない。 こんな関係が、彼女のために良い筈はない。 それでも、彼女を離す事など出来そうにはなかった。
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悠理が自宅に戻ったのは、もう夜明けも近い時間だった。 一晩留守にした家には、ひやりとした空気が漂っているような気がする。 悠理は小さく溜息をつきながら、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。 一口飲みながら、寝室に向かった。 もう一眠りしよう… 朝には魅録が帰ってくる筈だった。
パジャマに着替え、ベッドに倒れ込んだ。 身体を横向きにうつ伏せ、ゆっくりと目を閉じて。 悠理が思うのは、さっきまで肌を合わせていた男のことだ。 清四郎と愛し合った後、悠理はシャワーは浴びないことにしていた。 出来るだけ長く彼の痕跡を、この身体に留めて置きたいのだ。 今もまだ、自分の身体のそこかしこから仄かに立ち昇る、あの男の残り香。 まだ彼に抱きしめられているような心地がして、うっとりと目を閉じた。
清四郎は、一緒にいる間はたとえ一時でも彼女を腕の中から離そうとはしない。 常に彼女を抱きしめ、耳元で甘く囁き続ける。 「情熱的」という言葉からは、最もかけ離れていると思っていた男の、意外な側面。 悠理を愛するときの彼の仕草は、乱暴とも言えるほどに荒々しく、だけど甘く優しくて。 彼の手は、唇は、言葉は、いつも悠理を狂わせた。 自分がこんなにも激しく、一人の男にのめり込む事が出来るなんて、彼女には思ってもみなかったことだった。
目を閉じて、思いにふけっていた悠理は、いつの間にか浅い夢の中を漂っていた。 ふいに、髪を撫でられているのを感じて目を開けた。 髪を撫でている人物の顔を、見ることが悠理には出来なかった。 それは、自分がたった今夢想していた男の物とは、違う手だとわかっていたから。
思いがけなく、涙が溢れて頬を伝い落ち、手でシーツをぎゅっと掴む。
「悠理?」 聞こえてくる優しい声は当然、あの男のものではない。 声の主は訝しげに悠理の顔を覗き込む。 悠理は必死で視線をそらした。 彼女が泣いていることに気づくと、彼は手を差し伸べて悠理の涙を拭った。 広いベッドの悠理のすぐ脇に身体を横たえ、そっと抱きしめてくる。 悠理を疑うことを知らない彼は、きっと自分の不在が彼女の涙の理由だと思っているのだろう。
魅録はしばらくの間、悠理を優しく抱きしめて、彼女の髪をゆっくりと撫でていた。 やがて、彼の腕に力が篭り、悠理の額に口づけてくる。 悠理はその腕の中で、ぎゅっと目を閉じて身体を強張らせた。 魅録の口づけが悠理の唇に軽く落とされ、首筋から胸元に移った時…… 「い、嫌だっ!」 悠理は力一杯魅録の身体を押し返していた。
「悠理?」 理由が分からないといった様子の魅録の顔。 ベッドに起き上がった悠理は、その表情を見つめながらとめどなく涙を流していた。 (あたしはなんて酷い女だ!) 自分に対する嫌悪で胸が苦しい。 魅録を押し返した時に悠理の頭に浮かんだのは、 「清四郎の匂いが消えてしまう!」という事だけだったのだから。 自分を愛する夫への罪悪感でも、裏切ったことへの後悔でも、何でもなく。
悠理はただ激しく泣きじゃくり続けた。 謝罪の言葉すら、その唇に上せる事も出来ず。 謝ったって、到底赦される様な事なんかではないのだから。 呆然と自分を見詰める魅録の視線が、痛くてたまらなかった。
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悠理の様子がどことなくおかしいことに、魅録はずいぶん前から気付いてはいた。 ただ、そのことを気にする時間と、精神的な余裕が彼にはなかったのだ。 最初は、あまり一緒にいてやれない自分に怒っているのだと思った。
いや、そう思いたかった。 けれど今朝の悠理の反応は、彼を酷く戸惑わせた。 (いったい悠理はどうしたんだ?) 頭に浮かぶ理由はひとつしかなかった。 だが、彼はそれを認めたくはなかった。
誰かに相談したくて、彼は家を出た。 こういうことに関しては、頼りになる友人が彼には二人いる。 恋多き友人、可憐と美童。 だが、彼が向かったのは二人の内のどちらでもなく、むしろこういったことには最も不適切だと思える友人の許だった。 ―――清四郎。 魅録は、おそらく彼がもっとも悠理の事を理解しているだろうと思っていたから。
外科医として忙しい日々を送る彼に、アポ無しで会いに行っても、話す時間が取れるかどうかはわからなかったが。 どうしても今日、彼に話したかった。会って意見を聞きたかった。 「悠理に限ってそんなこと。魅録の勘違いですよ」 そう言って、笑い飛ばして欲しかった。
菊正宗病院のロビーに歩を進めた魅録は、すぐにガラス窓から見える中庭に、目指す相手の姿を見つけた。 ゆっくりと彼に向かって歩いていき、呼びかけた。 「清四郎!」 同僚と思しき人物と話しながら歩いていた清四郎が、その声にゆっくりと顔を向けた。 「……魅録」 掠れた声で旧友に応え、清四郎は歩みを止めた。
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