fallin'
携帯電話から、微かな音。 柔らかく、切ないメロディー。 この音を耳にすると、悠理はいつも泣きそうになる。
真っ暗な部屋。ソファに寝転んだまま携帯を手に取る。 ディスプレイに浮かぶ文字を追う。
発信者は……“ダチ“ メール本文は……「明日、8時に」
ただそれだけの文字を確認すると、悠理はボタンを押してメールを消去した。 ピッ。それだけで消えてしまう、儚い通信。
ピッ。そんな風に、二人の関係も消去してしまえたらいいのに。 そんな事を考え、悠理は両手で自分の顔を覆った。 顔を覆った手の、親指の脇から涙が流れ落ちて、ソファに染みを作っていく。 (そんなに辛いなら、やめればいいじゃんか) (その方が、あいつのためにもいいだろ?) 何度も繰り返す、自分への決まりきった問いかけ。 けれど、その答えはいつも……
ガチャン、 玄関のドアが開く音に、悠理の心臓が跳ねた。 慌ててソファから飛び起き、こぶしで涙を拭う。
パチン、軽い音がして、リビングのライトが点けられた。 「あ?なんだ、いたのか。悠理」 「…おかえり、魅録。何で?早いじゃん」 「ああ、ようやくヤマが一段落してな。どした?電気もつけないで。メシ食ったか?」 「うん…うちで食ってきた。魅録は?」 「ああ。俺も外で済ませてきた」
話しながら悠理に近づいた魅録は、悠理の頭をガシガシガシと撫でた。 「どした?寂しかったのか?」 悠理の顔を覗き込む。 その視線から顔をそらせながら、悠理は答える。 「別に…さっき帰ってきたとこで、うとうとしてたんだよ」 「そか。風呂入るか?」 「後でいいよ。魅録、先入って」 「じゃ、入ってくるわ」
上機嫌で鼻歌を歌いながら、魅録はバスルームへと消えた。 魅録は多くを聞かない。 刑事として、日々犯罪の謎に取り組んでいる彼だ。 妻の行動の謎など些細なことなのかもしれない。 いや、彼は信頼しきっているのだ。 彼の妻を。 学生時代からずっとつるんできた、無二の親友としての彼女を。
そして悠理は、またソファに腰を下ろした。 膝に両肘をつき、手のひらに顔を埋める。 そして心の中で侘び続ける。 (ごめん、魅録……ごめん……)
*****
短いメールを打ち、送信した後で。 清四郎は送信履歴を確認する。
送信先は……Y ただ一文字だけの、そっけない宛名。
ピッ。ボタンを押して、清四郎は送信履歴を削除した。 彼女から、返信が来ることはない。
ピッ。そんな風に、この思いも消去してしまえたらいいのに。 そんなことを考えて、苦笑する。 微かな笑みが強張り、彼の表情が苦しげなものに変わる。 (こんなに辛い思いをするなら、やめればいいじゃないか) (そうすれば、誰も傷つけずに済むのに) 何度も言い聞かせる、自分への叱咤の言葉。 けれど、それに対する答えはいつも……
*****
悠理と清四郎はずっと単なる友人だった。 だから聖プレジデントの高等部を卒業してすぐに悠理が魅録と付き合い始め、大学卒業とほぼ同時に結婚した時も、清四郎は心から二人を祝福したものだ。 自分自身は相変わらず恋愛に興味を持てないでいたが、二人のことは似合いのカップルだと思っていた。
そんな清四郎と悠理の関係が変わったのは、半年ほど前のことだった。
その日、父の元で心臓血管外科医として働く清四郎の担当していた一人の患者が亡くなった。 もとより、医学部を卒業してインターンになった時から、多くの患者の死には立ち会ってきた。 しかしその日亡くなったのは、清四郎が心から助けたいと思い、また助けることが出来ると思っていた小さな命だった。 まだ5つにもならない少女の命が、あっけなく閉じられてしまった。 その時、清四郎の心は医師を目指してから初めて激しく揺れ動いた。 医師として自分の力が及ばなかったことに対する、自責の念。 自分を責め続ける清四郎に対し、院長である彼の父は 「今夜は早く帰って寝ろ」と、清四郎の肩を叩いた。
言いつけに従い自宅へ戻ろうとした時、携帯が鳴った。 発信者は―――悠理。
「せーしろー!お前、今日ヒマ?」 相変わらず、何も悩みなどなさそうな声。 「……暇じゃありませんよ」 そっけなく、言い返す。 「なんだそっかぁ。あ〜、退屈だじょ」 「魅録はどうしてるんです?」 「なんかでかい事件でずっと帰ってこない。可憐も美童も野梨子も忙しいって言うし〜」 「僕は最後ですか。全く…」 少し、忌々しい。 「い、いや、お前が一番忙しそうだから、遠慮してたんだけどさぁ。忙しいよな、やっぱ……」 気まずそうな声で、必死に彼への言い訳を口にする悠理の声。 ふと、心がほどけた。
「いいですよ」 「へ?」 「付き合いますよ。どこに行けばいいんです?」
それは、ほんの気まぐれ。 家に帰りたくない、一人でいたくないという、清四郎には珍しい衝動。 そのときにはまだ、悠理に対しては友人以上の何の感情も、持ってはいなかった。
*****
久しぶりに会った悠理は、呆れるほどに変わっていなかった。 相変わらず服装は珍妙だし、ふわふわした髪もあっちこっちに飛び跳ねたまま。 言葉遣いも乱暴だし、気が遠くなるほどの馬鹿さも昔のまま。 けれど、その変わらなさが清四郎の心を癒した。
悠理が指定したにしては落ち着いた感じのBar。 カウンターに腰掛けた二人は、酒杯を重ねながら他愛もない会話に打ち興じた。 様々なカクテルを片っ端から飲み干していく悠理。 手の中のウィスキーのロックが入ったグラスを揺らし、ぐっと飲み干す清四郎。 夜も更けたころ、悠理が清四郎に問いかけた。
「なぁ、何かあったのか?」 伺うように、清四郎の顔を覗き込む。 「……別に、何もありませんよ。何故そんなこと聞くんです?」 「何か変だもん、お前。いつもと違うぞ」 苦笑する。こいつにも分かるほどに、今日の僕は情けない顔をしているのか? 「…参りましたね。野生の勘か?変わらないな、お前は」 「何があったんだ?」 「……医師として、越えなければいけない事…です」
カラン……清四郎が手に持ったグラスの中の氷が音を立てた。 張り詰めていた感情が、堰を切って流れ出すのを感じた。 グラスを握り締めた両手に顔を埋める。 清四郎の広く男らしい肩が僅かに揺れていた。 悠理は、ただそれをじっと見つめていた。
何か慰めの言葉を掛けたかった。 手を伸ばして彼の頭を撫でてやりたかった。 いつも彼女が悩んでいる時や泣いている時に彼がそうしてくれた様に。
そっ…と手を伸ばして清四郎の頭に手を置いてみた。 清四郎の肩がびくり、と震えた。 軽く、ぽんぽんと叩いてみる。 清四郎は俯いたまま。 悠理が頭に置いた手を後悔し始めた時、くぐもった声が聞こえた。
「…ありがとう、悠理」
店を出て悠理がタクシーに乗り込むときには、清四郎はいつもの笑みを取り戻していた。 「魅録によろしく」 微笑みながらそういう清四郎の瞳を、悠理は何故かまともに見ることが出来なかった。 「ゴメンな。無理やり付き合わせて」 「とんでもない。僕の方こそ、すみませんでした。また誘ってください」 「いいのか?」 「もちろんです」 にっこりと笑って清四郎が言う。 悠理もつられて微笑んだ。 「じゃな。ありがと」
「悠理っ!」 タクシーのドアが閉まりかけた時、突然清四郎がそのドアを止めて呼びかけた。 「……今日は本当に…ありがとう、悠理」 悠理は呆然と男の顔を見つめた。 清四郎の、黒い瞳が揺れていた。 ドアが閉まり、タクシーが滑るように動き出す。 身体を横にずらし、振り返って悠理は清四郎の姿を捜した。 歩道に佇む長身の男。 いつもは自信に満ちた男の姿が、やけに頼りなげに見える。 ずくん…音を立てて悠理の胸が痛んだ。 駆け戻って、その姿を抱きしめてやりたいと思った。
―――その感情をなんと呼ぶのか。その時の悠理にはまだ、わからなかった。
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