5.
「熱い・・・・・・」 上に登るほど、灼熱地獄になっている。 濛々と立ち込める煙を吸い込むのは危険だ。清四郎は鼻と口に、濡れた布地をきっちりと当てながら、一歩一歩梯子を登った。
ふと梯子が途切れた感覚があり、手を伸ばすと、床板が触れる。やっと見張り台に到達したようだ。力を振り絞って床板に上がると、悠理はすぐ目の前でうずくまる様に倒れていた。
「悠理!」 清四郎は膝の上に悠理を抱え上げるが、返事はない。彼女の首がぐったりと背中側へ折れた。慌てて腕の中に抱き寄せ、薄く開いた唇に耳を寄せる。 かすかに息が触れた。脈も、微弱だが規則的に打っている。 清四郎はすぐさま悠理を腕の中に抱え込んだままシャツを絞り、わずかな水を悠理の口へと垂らした。 「悠理、悠理、口を開けろっ!」 だが、悠理はぐったりしたまま動かない。 船がガクンと音を立てて、傾く。悠理を抱えた清四郎は、柵のおかげでかろうじて海への転落を免れた。 時間がない。このままでは、ここに取り残されたまま、船が沈没してしまう。 清四郎は、急いで悠理にライフジャケットを着せると、数滴搾れるかどうかの水分を自分の口に含ませ、彼女の口に乱暴に押し当てた。
「お前は死なない」 何度でも言ってやる!
――― お前は死なない。悠理、目を開けろ!
喉に当てていた手に微かな感触。
彼女が、こくり、と水を飲み込む。
「悠理、悠理!」 手で顎を挟み、顔を揺すってやると、彼女はゆっくりと目を開けた。
「せいしろ・・・・・・」 こんな状況でなければ、安心させるように抱きしめてやりたいところだが、マストはいよいよ海に傾き、危うい状況になっていた。 「悠理、起き上がれるな?船が沈む。その前に海に飛び込むぞ」 軽く頬を叩くと、悠理はびっくりしたように目を大きく開けた。 すぐ近くで、魅録と万作の声が聞こえる。
「・・・清四郎!清四郎、聞こえるか?!」 「悠理、父ちゃんだ。聞こえるだか?!」 「父ちゃん!魅録!」 悠理が叫んだ。 「魅録、すぐ下にいるんですか?」 煙で下は見えない。 「ああ、多分間違いない。こっちはゴムボートだ。海に落ちてもいいから飛び込め!」 力強く、魅録が叫んだ。 「悠理、行くぞ!」 「う、うん」
そう言って、彼女の腰を掴んだ時だ。
もう一度、大きな爆発音がしたかと思うと、船体が左右に大きく揺れ始めた。 このままではどちらに振り落とされるのかわからない。 その上、不気味な轟音が下から響いてくる。 どこかで海流が渦を巻いているのかもしれない。 「・・・・・・清四郎ーーーーーーっ!」 近くに聞こえていたはずの魅録の声が遠ざかって行く。
「清四郎!危ないっ!」
突如、耳元で甲高い声がし、悠理がしがみついて来たと思うと、とてつもなく大きな波が横から襲いかかってきた。
沈没する!!!
「悠理っ!」
目の前は暗くなり、耳を裂く轟音も、叫び声も。
――― やがて、何も聞こえなくなった。
*****
轟音と共に、左右に大きく船が揺れ、大波を被った後、海の底へ引きずり込まれるのだと思っていた。 だが、気がつくと、清四郎と悠理は大量の船の残骸と共に、大海原を彷徨っていた。
この状況で、悠理を手放さなかったのは奇跡のようなものだ。 あちこちで軋む身体を何とか動かし、辺りを見回すと、木製の小さなボートが漂っている。 確か、新しい救命用ゴムボートとは別に、骨董品のように昔のボートが船体に置いてあった、と記憶している。どうやら、そのボートは、爆発の衝撃でも破壊を免れたらしかった。 幸運なことに、オールも流されずついている。 先に船に乗り上げた清四郎は、船体がバラバラになる衝撃で再び気絶した悠理を海から引き上げた。
エンジンなどない、古ぼけたボート。 それでもその昔は釣りに使っていたらしく、釣竿、網などが船体に残されていた。 船は、ただゆっくりと海流に流されて行く。清四郎は、海上を漂う帆船の残骸を見渡し、役に立ちそうなものを船に引き寄せた。ところ処焼け焦げた帆、ロープ、そして頑丈な箱の為か破壊を免れた骨董品の箱。何もないよりはマシだ。
ひと息をつくと、横に倒れている悠理を抱き起こす。 青白い顔をしているが、上下に動く胸を見て、生きているのだと確認できた。 「・・・・・・・何とか助かった」 安堵に震える手で、顔にかかる髪を梳いてやる。
ゆうり・・・・・・
その名を口に乗せると、どうしようもない愛しさが込上げた。
「文句なら、後で聞いてやる」
その時、きつく合わせた唇を、彼女が覚えているのかどうかはわからない。 掻き抱くように腕の中に入れていると、悠理はぴくりと指を動かし、やがてゆっくりと目を開けた。
「せい・・・しろう?」 「暢気ですな。やっとお目覚めですか」 清四郎はおどけたように悠理に笑いかけた。 「・・・・・暑いな。ここどこ?」 清四郎の腕を振りほどき、勢いよく起き上がったかと思うと、キョロキョロと辺りを見回す。 「さあねぇ」 非常事態ではあるが、彼女のあどけない子供のような姿は、清四郎をほっとさせる。 思わずからかうように両手を広げ、おどけて見せると、 「さぁ、ってお前・・・・・・・」 悠理は絶句した。
そうれはそうだろう。 見渡す限りの大海原。見るも無残な船の残骸。煤で真っ黒な帆。浮いているのが不思議なくらいだ。 「助かった、のかな?あたい達」 不安そうな顔で悠理が清四郎を見た。 「まぁ、一応」 清四郎は肩をすくめて見せた。 「まぁ、とか、さぁ、とかお前何考えてんだよ!ええっと携帯、携帯・・・・・」 「そんなもの、海の上では使えませんよ」 焦る悠理に、清四郎は落ち着いて言い返す。 かっと頭に血が上ったのか、悠理は真っ赤になった。 「じゃ、何か音の出るものないのかよ!魅録は?父ちゃんは?!」 船内を引っ掻き回す。 「無駄だと思いますけどねぇ」 清四郎は苦笑しながら答えた。 助けを呼ぶ為に役に立ちそうなものは何もなかった。 「お前なぁ!頭がいいんだから、何とか考えろよ!」 悠理は清四郎の腕を掴み、振り回す。 「救助が呼べないなら、まずは水と食料だ!」 「良くわかっているじゃないですか。そういうところが好きですよ」 思わず慣れた言葉が口から滑り出た。
命だけはあるらしい。だが、この先大丈夫、と言える状況にはない。 とりあえず、悠理が考えるようにできることをするのみだ。 「悠理、しばらくダイエットだとでも思って絶食するしかありません。水は、とりあえず帆を綺麗にして船の上に張って置きましょう。雨でも降れば水が溜まる」 「・・・・・・・・・。お前さぁ、何でそんなに冷静なわけ?」 彼女が呆れたように呟いた。 「これでもね。十分動揺してますよ」 ほら、と悠理の手を取り、胸に手を当てさせる。 「なにすっ!・・・・・」 悠理は驚いて真っ赤になり、立ち上がろうとした。 船が大きく揺れる。 「ば、馬鹿っ、立つな!」 「痛てぇっ!」 悠理の腕を引き、慌てて抱き止めた。 「何すんだよぉ・・・・・・びっくりするじゃんか・・・・・・」 悠理は腕の中でバクバク踊っていそうな胸を押さえている。 「危うく2回目の沈没ですよ」 さすがの清四郎もドキドキしていた。そして、なぜだか笑いが込み上げる。 「お前といると、死ぬ間際まで退屈しそうにありませんな。ひょっとしたら死んでも退屈しないかもしれない」 ずっと一緒にいられるのなら、という言葉を清四郎は飲み込んだ。 「縁起でもないこと言うな!死ぬ間際までお前の嫌味に付き合うなんてまっぴらだい!」 悠理はむくれてそっぽを向いた。
それでも、彼女は清四郎の腕の中にいる。
「お前が死ななくて良かった」 耳元で低く囁く。 「お前も」 と小さな声で悠理が答えた。
それきり、大した会話をすることもなく、疲れと喉の渇きに耐えながら二晩も過ごすと、船は3日目の明け方、ガタンという音と共に海岸に打ち上げられた。
*****
「悠理!遠くへ行くんじゃありませんよ!」 「うるさい奴だなぁ。それ、何回も聞いた!」 「人に同じことを何回も言わせるんじゃありません」 「屁理屈の唐変木!」 「・・・・・・・・・・悠理、またお仕置きを受けたいんですか?」 ギロリと睨まれ、悠理は、わー待った!待った!と手の平を清四郎に向けた。 「せせ清四郎ちゃん、めめめめめっそうもございません!」 調理担当は清四郎だ。夕食抜きの懲罰は相当懲りたらしい。 「わかれば宜しい。行って来なさい。但し、滝までですよ」 清四郎は念を押した。 悠理はくるりと背を向け歩き出す。 「何だよ、頑固じじぃ」 「何ですって?」 びくんと立ち止まった。 「いえ、何でもありません!」 時折幻覚で見え隠れする尻尾を振りながら、悠理はへへへっと愛想笑いをして走って行った。
・・・・・・まったく。 清四郎は呆れてため息をついた。もう一度、様子を伺うように周りを見渡し、砂浜を真っ直ぐ歩き始める。
この島に漂着したのは、数日前だ。とにかく過酷な海での生活を早期に切り上げられたのは良かった。島へ上陸するとすぐに、清四郎と悠理は水を探した。 互いに日頃から尋常離れした体力を維持していて良かったと思う。 こんな状況に晒されたのが、野梨子や可憐、美童であったなら、間違いなく今頃命はない。 用心深く林の中を進んで行くと、やがて小さな川があり、真水を見つけた。 ところどころにバナナの木があり、他にもいつくか食べられそうな果物の実があった。 釣り道具と網があるから、魚を手に入れれば、生きていけないことはない。火を起こす術は、幸いなことに二人とも東村寺の和尚から学んでいた。大抵のサバイバル術も。
とにかく、安心して眠れる場所を確保しなくてはならない。清四郎は浜からそう遠くはない場所に簡素な小屋を建てようと考えていた。昨日から海岸を歩き、流木を集めている。 最初は探検のようなつもりで生活していたが、悠理の疲労も清四郎自身の疲労もしだいに濃くなっていた。 毎夜火を起し、交代で見張りをしながら木陰で眠るのも限界だ。
船は、相変わらず、一隻も通らない。 珊瑚礁が作る自然の防波堤は、波打ち際から数十メートルに及んでいた。目の前には青く美しい海が広がり、遠くで白波が上がっているところが、外洋との境らしい。 清四郎が歩いている砂浜は、プライベートビーチと呼べそうなほど小さく、右も左も5~6メートルはありそうな絶壁の岩場となっていて、その先は何らかの方法で海を経由するか、陸側から林を通り迂回するしかない。だが、岩の向こうへ回ってみたからと言って、この島に船を停泊できるような場所があるのか、全く分からなかった。 ここ数日で知る限り、人の気配はない。 仮に人がこの島のどこかに住んでいるとしても、海流がかなり複雑で、大きな船の航路からは随分と外れているのかもしれなかった。
助かる術を。 いや、ここで生きる術を、考えなければならない。 いつか仲間が探し出してくれる。 それまで何とか、生き延びよう。
あれが、今生の別れだったとは思っていない。 あの日、悪夢のような出来事からでさえ、二人は生き延びたのだから。
流木と椰子の葉をかき集め、二人がかりで一週間も作業すると、何とか風雨をしのげそうな小屋ができあがった。
二人が島に来て、2週間が経とうとしていた。
|
Material By 自然いっぱいの素材集さま