2.

 

 

「・・・これに乗るんですのね」

南国の眩しい青空に向かってそびえ立ち、圧倒的な威圧感で迫りくる船体を見上げながら野梨子がため息をつく。

「んまぁ、ロマンティック♪」

可憐も感嘆の声を上げた。

「釣りもできるかな」

「機関室も楽しそうだぜ」

美童と魅録、男二人の目にもその姿は魅力的に映ったようだった。

 

 

多くのヨットが身を寄せ合うように停泊している港に、ひと際大きな帆船がその存在を誇示していた。

ボディーに、kenbishi の白い文字が流れるように書かれている。

優に100人は乗船可能と思われる船だ。

「まさか、とは思いますが、この船を買ったんですか?」

清四郎は、唖然として万作に聞いた。

「いや〜大したことないだよ。ギリシャで帆船運航を手がけるグラスホッパー社に代理店をやらねーかと持ちかけられただ。何人か知人を紹介したら見返りにこの船を譲ってくれただよ」

万作は大したことないと笑っているが、紹介した何人かの知人とやらが、世界に名だたるクルーズ会社、グラスホッパーにどれだけの利益を与えたかこの船の豪華さを見れば知れるというものだ。しかも、フィギュアヘッドは、妻の百合子を女神に模って作られている。

「かないませんね。おじさんには」

豪快に笑う万作の横で清四郎も笑った。

 

「父ちゃん、本当にその格好で乗るの?」

笑い合う二人の横で悠理は眉をひそめた。

「あたりめーだ。わしが船長だがや」

そう胸を張る万作は、ロンゲ、にはしていないが、頭にバンダナを巻きエンペラのような帽子をかぶり、腰にジャラジャラと妙なアクセサリーを巻きつけている。

「・・・子供の夢を壊さないで欲しいよ」

先日見たばかりの映画を思い、悠理はうなだれた。。

「まあ、まあ、いくつになっても海は男のロマンですよ」

嘆く悠理の頭に手を乗せ清四郎は苦笑した。

 

 

 

全員が乗り込むと船はゆっくりと動きだし、美しい街並みを見ながら静かにハーバーブリッジを越えて行く。

やがて外洋へ出た。

海風を受けてパンと晴れやかに帆を広げる。

白い帆は、夕陽を受けてオレンジ色に輝いた。

 

 

*****

 

 

「さあ、皆、遠慮なく食べるだよ。和洋中、どの料理人も剣菱系列選りすぐりのレストランから連れてきただ」

帆船運航を手がける会社から譲りうけたというこの船は、豪華客船ほどの広さはない。

夕食を取るべく一行が集まっているメインダイニングとバーカウンターのあるラウンジ、客室、娯楽室が数室あるのみだ。だが、床も壁も木という木は徹底して磨かれており、重厚な趣を放っていた。

時折、キーッと音を立てる古い船独特の揺れに身をまかせながら、一行は食事の席についた。

まるで中世の時代に航海しているような気分になる。

恭しく、しかし、フレンドリーに接するクルーに微笑みながら、「ドレスを持ってこればよかったわね」と可憐は野梨子に耳打ちした。

「全くですわ」

野梨子も同意する。

乗った者全員がため息をつくほど、この船は中世の香りを色濃く残していた。

 

「随分と古い物が置いてあるんですね」

食事の後、ラウンジで寛ぎながら清四郎は船内を見回す。

誰の顔かもわからないような古い写真、カチカチと歴史を刻む古い時計。タイムトラベラーになったような気分にさせられる。

「そういやそうだよな。エンジンは新しい物に変えてあったけど、機関室にも相当な年代物が置いてあったぜ」

うっとりと、思い出すように魅録が語ると可憐は眉をひそめた。

「何か油臭いと思ってたのよ、魅録!」

可憐が清四郎と魅録の間に割って入り、臭いと言い放った男の袖を掴んだ。

「そうか?悪りぃ、悪りぃ」

魅録は袖の匂いをクンクンと犬のように嗅み、はにかむように笑った。

「まったく。機械を見たらいじらずにはいられない、その性格はどこへ行っても変りませんね」

清四郎もつられて微笑む。

のん気に笑っている男二人をきっと睨み、可憐は「早くシャワーを浴びなさいよ」と促した。

 

「この船は、世界で一番古い帆船だがや。わしが買い取るまでは海上博物館になってギリシャの港に停泊してただよ」

「え?!」

万作が言うと、全員の顔が蒼白になった。

「わはははは。心配するでねーよ。エンジンは最新だから安心して寝るだ」

万作は豪快に笑いながら「明日は、この辺りまで行くだよ」と地図を指し示すと朝は、デッキのダイニングで朝食を取ろう、と言い、部屋へと戻って行った。

「あら、マイタイ王国の近くまで行くんですのね」

地図を覗き込んだ野梨子がローマ字で小さく書かれたのMAITAIの文字を見つける。

「俺、煙草吸ってから部屋に戻るわ」

はじかれたように魅録が席を立った。

 

 

*****

 

 

真っ暗な海に灰を落としながら、時折聞こえる波の音に魅録は耳をすませていた。

思い出さないようにすればするほど、彼女の声が聞こえる。

聞こえてしまう。

 

「僕にも一本もらえますか?」

 

思いがけない言葉に魅録は思考を止めて、声のする方へ振り返った。

この男は煙草を吸わない。魅録はそう思っていた。

「聞こえませんでしたか?僕にも」

「あ、ああ」

魅録は間の抜けた返事をして煙草を取り出した。

清四郎はそれを口に咥えると、ライターを差し出した魅録の腕に顔を近づける。

「ありがとう」

彼が海の方を向くと、魅録はやっと我に帰った。

「お前、いつから始めたんだ?」

清四郎はちらりと横目で魅録を見ると、すぐに前を向き、クククと笑う。

「僕が品行方正な男だと思っていましたか?」

「思ってねーけどよ。お前、いかにも健康優良児って感じじゃねーか。身体に悪い煙草は吸わないと思ってた」

「ま、ね。基本的にはそう思っていますよ。でも、男としてはそれで間を持たせたいという時もあるでしょう」

「意味深だな」

「そうですか?」

「ああ」

二人は同時にくすりと笑うと、また前を向いて煙草を吸った。

 

「・・・まだ忘れられませんか」

語尾を上げるような、下げるような、どちらともつかないイントネーションで清四郎は魅録に問いかけた。

誰を、とは言わず。

 

“簡単に忘れられるくらいなら、苦労はしねーよ”

 

そう思いながら、魅録は反対の言葉をつぶやく。

「忘れたさ。オレには縁のない世界のことだ」

 

しばらく間を空けて煙を吐き出すと、清四郎は「忘れてなんかいないでしょう。忘れる必要もない」と言って魅録を見た。

「もう一度会ってみたらどうです?数年前と同じ気持ちになるとは限らない。それで区切りをつけられることだってある」

およそ色恋の似合わぬ男に、男女の仲について講釈を受けるとは思わなかった。

魅録は、「ああ、そうだな」と曖昧に答えた。

 

「お前はどうなんだよ、うまくいってるのか?」

大学に入り、外部から入学してきた才媛と清四郎が付き合っている、という話は学園中の噂になっていた。かの人と大学構内を並んで歩いているところを魅録もよく見るし、デートを目撃した、という話も聞いたことがある。

探りを入れるかのように魅録が聞くと、「まあ、それなりに」と清四郎は目を合わさないままさらりとかわした。

 

こういう時、さらりとかわす男が可愛くない、と魅録は思う。

少しくらい照れる振りでもすりゃいいものを、と。

坊ちゃんヅラしているくせに手の早そうな男を見て、魅録は“それなりに”の程度を予想した。

男としては、少しばかりの羨望と悔しさを感じる。

だが、静かに煙草を吸うクールな男を見ていると、とても恋に落ちているようには見えなかった。

感情の読み取れない鉄面皮。

 

 

 

「お前がああいうタイプの女に惚れるとは思わなかったぜ」

魅録は思ったままを口にした。

「ああいうタイプ?」

「男と女、なんてのはな。互いに持ってない物に惹かれ合うから好きになるんだろ?彼女は、どこから見てもお前と同類に見えるけどな。完璧な容姿、高い頭脳、挫折を知らないところなんてそっくりじゃねーか」

「完璧な人間なんていませんよ」

「そうか?お前は限りなく完璧に近い男だと思うけどな」

「魅録だって相当な男でしょうが。僕が認める数少ない男の一人ですよ」

ひとしきり言い合うと、お互いに顔を合わせて笑った。

 

「で、お前らどこまで行ってんだ?本気なのか?」

下世話な質問だと思いながら、魅録は聞いた。

清四郎がピクリと片方の眉を上げる。

「・・・いや、興味本位って訳じゃねーけどよ。本気ならうまくやれよ、と思っただけだ」

奴らには言わねーよ、じゃ、寝るわ、と魅録は煙草を携帯灰皿に落とし、それを清四郎に手渡すとデッキを降りて行った。

 

すこしばかり風が強くなる。

漆黒の海は何も写さないが、数メートル下から波しぶきだけが聞こえていた。

 

「僕は何も言ってないじゃないですか」

デッキに残された清四郎は一人苦笑していた。

 

噂をされている彼女と付き合っているのか、と問われれば、そうだと言える。

聡明な彼女とは大学のゼミで知り合った。

彼女は地方出身の大物政治家の娘だ。家柄も良く、可憐ほど肉欲的ではないが女性らしい容姿と明晰な頭脳を兼ね備えていた。頭脳という意味では野梨子といい勝負だったが、彼女には倶楽部の女性人と決定的な違いがあった。“野心”だ。

「あなたとはずっとうまくやっていけそうな気がするのよ。菊正宗病院をより大きくすることだって、父の跡を継いで政治家になることだってできるわ。二人で新しいビジネスを始めたっていい」

夜遅くまで議論を戦わせているうち「どう?」と誘ってきた彼女の唇を半ば強引に塞いだのが始まりだった。

「貴方ほど私にふさわしいと思った人はいないのよ。そして、私も与えられるの。貴方が欲しいと思うものを、全部ね。お願い。父と会って」

ベッドを共にした何度目かの夜、先に部屋を出ようとする清四郎に彼女が言った。

「僕を利用するんですか?」

振り返ってそう聞くと、

「貴方も私を利用すればいいのよ」と微笑みながら返ってきた。

相当な自信家だと思った。いつかの自分のように。

 

やんわりと返事をそらせていたが、最近になって、彼女の誘いに乗るのも悪くない。

そう思い始めている。

 

魅録が言うように彼女に惚れているからじゃない。

それは自棄にも似た思いだった。

 

「ふさわしい人、ね」

 

清四郎は苦笑する。

彼女と話をしていると、成り行きとはいえ、一度は自分の妻として欲しいと願った友人をいつも思い出すのだ。

もう少し自分に余裕があれば、幼い彼女の成長を待つことだってできた。彼女を変えようとするのではなく、自分こそが純粋な彼女にふさわしい人間になることも。

 

魅録へ言ったことは、清四郎が自身へ向けた言葉でもあった。

“区切りをつける”

かつて、自分の妻にはこういう女がふさわしい、と願っていた人物が目の前に現れたのだから。


それでもどこか心の奥底で。

“悠理”

と、友人の名を呼ぶ声が聞こえていた。

 

 

 

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