2.

 

 

翌朝、悠理は約束どおりの時間に来た。

ふたりで朝の鍛錬をし、悠理は清四郎の指導のもと、庭木に向かって飛び蹴りを食らわせ続けた。

ひと汗かいた後はテラスで朝食。別荘の管理人である三代澤さんが作ってくれるイギリス風の朝食を、悠理は大喜びでたいらげた。

その後は、お勉強の時間だ。

なんとなく察してはいたものの、悠理の底抜けの理解力のなさと勉強嫌いに、清四郎は呆れて大声を上げた。

 

「なんでこんな問題が解けないんだ? 中一の時に習ったじゃないか!」

「うるさいなぁ、わからないものはわからないんだよぉ。おまえとは頭の出来が違うんだってば!」

 

泣き声を上げる悠理に、「こんなに馬鹿だったなんて…」と、清四郎は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。

「清四郎? ご、ごめん。あたい、ちゃんとやるからさ〜」

悪いと思ったのか、突っ伏した清四郎の顔を覗き込むようにして、悠理は殊勝な声を出した。

 

「ちゃんとやる?」

清四郎はテーブルに顔をつけたまま、目だけを上げて聞いた。

「う、うん。ちゃんとやる…」

悠理の答えに、清四郎はすっと身体を起こし、にやりと笑った。

「よし! じゃあ、まず今日と明日で数学のプリントを片付けちゃおう。それから国語をやって、そのあとは…」

「えーっ! ちょっと待てよ」

「駄目。ちゃんとやるって言ったろ?」

「う……」

しまった、という顔をして黙り込んだ悠理に、清四郎は朗らかに笑った。

 

 

 

「なぁに、清四郎ったら、ずいぶん楽しそうね」

家の中からふたりの様子を見ていた姉の和子が、近くにいた母を振り返って言った。

「そうね。悠理ちゃんが来てくれてよかったわ。清四郎ったら、ここへ来てからなんだか元気がないようで心配だったのよ」

おっとりとした母の言葉に、和子はもう一度テラスのふたりを眺めた。

 

頭をかきむしりながら宿題に取り組んでいる悠理と、それを覗き込みながら何事か注意を与えている清四郎。

悠理が半泣きになって何か言い返すと、清四郎は今までに見たこともないような表情で笑った。

 

「ふぅ…ん」

和子は腕組みをして、何度も頷いた。

ふたりを観察していれば、自分も色々と楽しめそうだ。

 

 

 

*****

 

 

 

続く数日も、悠理は毎日早朝から清四郎の別荘を訪れた。

午前中を鍛錬と勉強で過ごし、昼食も清四郎と一緒に食べた。

もとは一流ホテルで料理の修行したという管理人の三代澤さんが作る料理は、どれも絶品だ。

だから悠理はどれだけ勉強で苦しい思いをしようとも、ここに来ることを止めないのかもしれないと、満面の笑みを浮かべて料理を平らげる悠理を見ながら、清四郎は思った。

 

午後からは、悠理がやりたいことに清四郎が付き合う番だ。

ふたりは近所を散策したり、軽井沢銀座でショッピングを楽しんだり。時には、別荘の周辺を競うように自転車をこいでサイクリングをしたりもした。

カラマツの並木道を、風を受けながら自転車で走るのは気持ちがいい。

途中通りがかった教会でウェディングドレス姿の花嫁が出てきた時、悠理が歓声をあげて自転車を止めた。

普段女らしいことにあまり興味がなさそうな彼女の意外な反応に、清四郎は少なからず驚いた。

 

「いいモン見ちゃったな、清四郎」

ゆっくりと自転車を押しながら、悠理が言った。

「…悠理も、ウェディングドレスとか興味あるんだ?」

「興味とかじゃなくって、すっごい幸せそうだったじゃん。だから、いいなぁ〜って」

「ふうん」

 

照れ笑いを浮かべた悠理に、清四郎は心の中でそっと花嫁衣裳を着せてみた。

どちらかといえば男顔の悠理だが、大きな瞳とふっくらした頬は充分かわいらしい。真っ白なドレスもなかなか似合う。

そして、なぜか隣に立つ自分の姿まで想像してしまい、清四郎は顔が赤らむのを感じて、片手で顔を覆った。

 

「どしたの清四郎、疲れた?」

「ううん。でも、もう帰ろうか?」

悠理の問いに、小さく首を振りながら答える。

「今日のオヤツはなんだろな〜」

悠理は目を細め、さっと自転車にまたがった。

「行くぞ、清四郎! おまえんちまで競争だ〜っ!」

 

ぐん、と力強くペダルを踏み、スタートダッシュをかけた悠理に、「負けたらオヤツ抜き?」とからかいの声をかけてから、清四郎も自転車にまたがった。

最初は力を抑えて悠理の後ろにぴったりと付き、追い抜くタイミングをうかがう。

二つ目の曲がり角を曲がった後の、直線道路でスパートをかけた。

追い抜きざまに、「しまった!」という顔をした悠理に軽くウィンクをし、強くペダルをこいだ。

「待て〜清四郎〜〜〜っ!!!」

後ろから聞こえてくる声に、清四郎は声を上げて笑った。

 

 

 

結果は、清四郎の圧勝だった。

別荘の門の前で、余裕の笑みを浮かべて待っていた清四郎に、悠理は真っ赤な顔でつかみかかった。

「あ、あたいは、競争って言っただけだぞ! オ、オヤツのことなんか、承諾してないかんな!」

必死の様相でそう言ってくる悠理を笑顔でかわしながら、ふたりでもつれあうようにリビングに入ると、そこにいた母と和子が目を丸くした。

 

「あらあら、どうしたの?」

「おばちゃーん、清四郎ってば、ひどいんだよ〜っ!」

悠理は清四郎の母に助けを求めた。

「清四郎、駄目よ、悠理ちゃんをいじめちゃ。ほらほら悠理ちゃん、オヤツにしましょう」

「やったーっ!」

 

悠理は清四郎に向かってあかんべをしてみせると、大喜びでテーブルに着いた。

「いじめてなんかいないよ…」と母に言いかけた清四郎も、悠理にべ、と舌を出し返した。

 

「あんたって、悠理ちゃんといる時は年相応の顔するのね」

悠理と入れ違いに席を立った和子が、清四郎の脇を通り抜けざまにくすくす笑いながらそう言った。

「え?」

「あら、自覚がないの? まぁ、頑張んなさい」

ポン、と励ますように肩を叩かれ、清四郎は憮然とした。

 

「清四郎〜、全部食べちゃうぞ〜♪」

能天気な悠理の声がした。

「あ、何してるんだ。負けたらオヤツ抜きって言ったろ?」

そう言いながら、悠理が抱え込んでいたケーキの皿を取り上げた。

「へへん、もう半分以上いただいちゃったもんね〜」

へらへら笑う悠理の頭に軽く拳骨を落とし、清四郎もケーキを食べ始めた。

 

夏が、少しずつ過ぎて行く。

 

 

 

*****

 

 

 

いつもなら、オヤツを食べ終わると悠理は自分の別荘に帰るのだが、その日はおやつを食べ終えたあとも、まだ悠理は清四郎のところに居座っていた。

和子が切ってくれたスイカを食べながら、テラスのテーブルで取りとめのない話をした。

こういうとき悠理の口からはよく、野梨子や可憐、美童、そして魅録の話が出た。

中三になるまで、これといって親しい友達がいなかったのは、野梨子だけではない。

悠理も同い年の友達はあまりいなかったから、今は彼らと過ごす時間が何より楽しいらしい。

 

「あいつらも、ここに来ればいいのにな〜」

悠理が言う。

「そうだね」

清四郎は相槌をうった。

「そしたらさ、絶対楽しいよな? 合宿みたいでさ」

そう言いながら悠理は同意を求めるように清四郎を見たが、不機嫌そうな彼の顔を見て、慌てて目をそらした。

 

―――僕だけじゃ、つまらない?

そんな言葉が浮かんできて、清四郎は口をつぐんでいた。

なんだか、胸がむかむかとした。

 

「暑いな。ちょっとシャワーを浴びてきてもいい?」

ポロシャツの胸元をつかんで風を入れながら、清四郎は聞いた。

「うん、どうぞ〜」

悠理は大きなスイカの切れにかぶりつきながら答えた。

 

「…今晩、花火しようか?」

出て行きざまに振り返ってそう言うと、悠理は顔を輝かせ、大きく頷いた。

その笑顔に、少し胸が温かくなった。

 

 

 

シャワーを浴びながら、清四郎は今日これからの事を考えて、楽しい気分に浸った。

着替えたら、悠理と花火を買いに行こう。

今日は夕飯も一緒に食べられたらいいな。誘ってみるか。お袋も姉貴も、駄目だとは言わないだろうし、三代澤さんも張り切って夕食を作ってくれるだろう。

夕食が終わったら、浴衣を着ようかな。悠理にも、姉貴が着せてくれるだろうか?

 

 

シャワーを終えてさっぱりとした清四郎は、薄いブルーのポロシャツに着替えて悠理のもとに戻った。

「悠理?」

 

―――花火を買いに行こう。

言いかけた言葉を、飲み込んだ。

悠理は、自分の腕を枕に、テーブルに顔を伏せて、眠っていた。

 

柔らかな髪が、時折吹いてくる風にふわふわとゆれる。

すねたように突き出した赤い唇から、すうすうと寝息が漏れる。

 

清四郎は悠理の脇に立って、寝顔をじっと見つめていた。

髪がひとすじ、頬に張り付いているのを取ってやろうと手を伸ばしたが、触れることが出来ずに手を止めた。

 

触れたら、起こしてしまうかもしれない。

 

 

清四郎の別荘の、彼のお気に入りの場所で、悠理はこんなにも無防備に眠っている。

普段は騒々しくて乱暴で大食らいで、男か女かわからないような奴なのに。

ランニングからむき出しの肩の、なんと華奢で頼りないことか。

閉じた目のまわりの、まつげのなんと長いこと。

 

たった今、自分だけがこの愛らしい少女を独り占めしている。

今、自分だけが、彼女のそばにいる。

ずっとずっと、そばにいたい。誰にも渡したくない、独占したい。

 

 

それは、清四郎がはじめて知った、激しく切ない感情だった。

 

 

 

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