蝉の声が聞こえる。

人気のない校舎の階段を、清四郎はハンカチで額の汗を拭きながら上っていた。

 

この夏最高の気温を記録したこの日、聖プレジデント学園は登校日となっていた。

外はうだるような暑さでも、そこは上流家庭の子弟が通う聖プレジデント、校舎内は冷暖房完備になっている。

快適な気温の校舎内で、生徒達は久々の友人達との会合にはしゃぎつつ集会とホームルームを終え、今はほぼ全ての生徒達が帰宅したところだ。

 

職員室で教師達と9月の始業式の打ち合わせをしていた清四郎は、鞄を取るために有閑倶楽部の部室に向かっていた。

しんとした校舎の中は、職員室とニ、三の部屋を除いてすでにクーラーが切られている。

そのため少し動いただけでも汗が吹き出てくるので、部室にたどり着き、ドアを押し開いてクーラーの冷気に迎られた時にはほっとした。

 

 

薄暗い廊下から日の光溢れる部室に入ったため、一瞬目の前が白くなる。

「お疲れ」

部屋の奥から聞こえたハスキーな声に、清四郎は目を細めて部室の中を見回した。重厚なテーブルの周りには、誰もいない。

明るさに目が慣れてくると、窓枠に悠理が腰掛けているのが見えた。

 

「悠理、残っていたんですか? 皆は?」

清四郎は奥へと歩を進めながら、悠理に問いかけた。

「皆、うちに帰ったよ。魅録も、車の準備しないといけないからって」

「そうですか。悠理は? 仕度はもう出来ているんですか?」

「うん。オヤツもいっぱい詰めた」

 

悠理らしい答えに、清四郎は微笑んだ。

今日は夕方から、6人で軽井沢にある菊正宗家の別荘に泊まりに行くことになっている。

遅夏の幾日かを、皆でいつものように楽しく過ごそうという計画だ。

 

「冷蔵庫に麦茶冷えてるぞ。可憐が入れてた」

「ありがたい。職員室からここまで来る間にひどく汗をかいたので、喉がカラカラですよ」

清四郎は、キッチンの冷蔵庫を開けて麦茶のポットを取り出すと、グラスになみなみと注いで一気に飲み干した。

 

「悠理も飲みますか?」

もう一杯グラスに麦茶を注ぎながら聞くと、悠理はふるふると首を横に振り、そっけなく言い足した。

「いらない。飲んだら、ポットは洗っておけってさ」

清四郎は少し苦い顔をしながら悠理を見、ゆっくりと二杯目の麦茶を飲んだ。

悠理は清四郎の視線など気にならない様子で、足をぶらぶらとさせながら窓の外を見ていた。

少年のような、凛々しくさえある横顔。

 

 

「それにしても、今日は暑いですな」

二杯目の麦茶も飲み終え、グラスを流しに置き、ポットと共に洗いながら清四郎は言った。

「うん。軽井沢も、暑いかな?」

悠理の声が聞こえる。

「日中は暑くても、夕方からはぐっと涼しくなりますよ、あそこは」

「そうだったな。昔、寝冷えしてお腹が痛くなったんだった」

きゅ、と蛇口をひねって水を止め、清四郎は振り返った。悠理は相変わらず、窓の外を見つめたまま。

 

「……昔?」

「…中坊んとき。昼間いっぱいスイカ食べて、腹出して寝てて…」

 

清四郎はふっと笑った。

「あの時?」

「そう、あの時。」

悠理がゆっくりと、清四郎に視線を向けた。ふわふわとした髪が、窓越しの光に透けた。

やけに大人びて見える悠理の顔に、清四郎は、もう少しふっくらとした頬をした少女の面影を重ねた。

 

 

あの夏、彼が恋した少女の面影を。

 

 

 

 

         

 

 

 

高等部に進むまで、夏休みには軽井沢の別荘に一〜二週間滞在するのが、清四郎の習慣だった。

病院長として忙しい父はなかなか一緒には来れなかったが、母と姉の和子が一緒だった。

東京とは違い、朝夕にはぐっと気温が下がり過ごしやすい軽井沢で、勉学や趣味の研究にいそしんだり、武道の鍛錬に励んだりするのを、清四郎は毎夏の楽しみにしていた。

 

 

中学三年の夏。

その年、いつもとは違ってあまり気乗りがしないまま、清四郎は別荘に到着した。

その少し前から、幼馴染の野梨子とともに、悠理、魅録、可憐、美童という、後に「有閑倶楽部」を結成するメンバーとつるむことが多くなっていた。

清四郎にとってそれがとても楽しく、東京を離れて、仲間達と会えない時間を過ごすことは、ひどくつまらなく思えたのだった。

6人で一緒にどこかに旅行しようという案も出ていたのだが、なかなか親達の同意を得ることが出来ず、夏休みを迎えてしまった。

 

そういうわけで、別荘に到着して最初のニ、三日は、いつものようにジョギングがてらに付近を散策する気も起こらず、自室やテラスで、本を読みながらだらだらと過ごした。

だが、さすがに四日目ともなると、持ち前の勤勉さが頭をもたげ、「これではいけない」と思い直した。

せっかくの夏休みだ、有意義に過ごさねば。そう思い返し、早起きして武芸の鍛錬に精を出した。

高原の朝は爽やかだ。涼やかな外気の中、思いっきり身体を動かし汗を流すと、もやもやしていた気分がすっきりとした。

 

シャワーを浴びて朝食をると、中庭に面したテラスのテーブルについた。

木々に囲まれたこの場所は、いつも涼しい風が通るお気に入りの場所だ。

清四郎は、昨日こちらに転送されてきた暑中見舞いのはがきを手に取り、一枚一枚をもう一度じっくりと読み返した。

野梨子からのはがきは、涼しげな朝顔の柄に、筆文字で暑中見舞いの文字が書かれている。華やかな薔薇のポストカードに、カラフルな色ペンで文字が書かれているのは可憐から。

美童のは、リゾート地のものらしい真っ青な海のポストカードに、英文で綴られている。

男らしい、少し角ばった字で最近の出来事が綴られているのが魅録から。はがきの端に、何故かペンギンの絵が描かれているところがちょっと笑えた。

あとは、東村寺の和尚からのや、清四郎が出入りしている研究会の仲間からのもの。全てを、清四郎は差出人の顔を思い浮かべながら読み返した。

 

仲間内ではただ一人、悠理からの暑中見舞いが届いていないが、それは望む方が無理というものだろう。

勉強嫌いで、ひたすら闊達な悠理。彼女が誰かに宛てて暑中見舞いを書くなんて想像もできない。

―――だから、彼女からはがきが来ていないことを、気にする必要は無い。

清四郎は、意味もなく自分自身にそう言い聞かせると、気晴らしのために散策に出ることにした。

 

 

菊正宗家の別荘は、軽井沢の別荘地の中でも、わりに古くから開発された地区にある。

「異国情緒溢れる」という表現が似合うこの一帯を、ゆっくりと散策するのも清四郎の毎夏の楽しみであった。

まだ「別荘を持つ」ということが、非常に限られた人たちにしか出来なかった時代に建てられた物が多い為、一つ一つの敷地が非常に大きく、それぞれに贅を尽くした造りである。

その中でも特に清四郎が気に入っている、以前は華族所有だったという別荘の前まで来た時、彼はあんぐりと口を開けた。

 

去年までは、くすんだ茶色の壁に白く塗られた窓枠がクラシックなイメージを醸し出していた建物の、壁全体が淡いピンクに塗り替えられ、妙にメルヘンちっくな外観に変っていた。

庭木などが控えめに配置されてすっきりしていた前庭にも、ギリシャ風の女神や何風かよくわからない彫像などが置かれ、摩訶不思議な空間を作り出している。

なんてことだ、悪趣味も甚だしい。けど、どこかで似たような雰囲気の屋敷を見たような気が…と、清四郎が呆れつつ考えを巡らせていた時、ふいに屋敷のドアが大きく開いた。

 

 

「いけませんお嬢さまっ! 宿題をしてくださらないと、私どもが五代さんに叱られますっ!」

「うるさいなぁ、後でやるってば!」

 

追いすがるメイドの手を易々とかわし走り出てきたのは、カラフルなタンクトップとショートパンツ姿の、ほっそりとした薄茶の髪の少女。

 

「悠理?!」

思わず、清四郎は叫んだ。

「あ、あれ? 清四郎?」

悠理は清四郎の姿を認め、長いまつげに覆われた瞳を見開き、門の外に立つ彼に向かって走り寄ってきた。

 

「なにおまえ、こんなとこで何やってんの?」

「この近くにうちの別荘があるんだ。悠理こそ…」

「あー、ここ、最近父ちゃんが買ったんだよ。んで、涼しくてよくベンキョー出来るだろうから行けって、かあちゃんが…」

「なるほど、それでか…」

清四郎は何度も頷きながら、改めて庭や屋敷の変容ぶりを眺めた。おそらく、悠理の母の好みに合わせて改装したに違いない。

 

「なぁ、おまえんちに行ってもいい?」

「別にいいけど…」

「よかったーーっ! あたいこの家、落ち着かないんだよ。すごいんだぜ、中。レースとフリルがビラビラビラってさー。早く行こうぜ!」

宿題は?と聞きかけた清四郎の言葉を遮るかのように、悠理はぐいっと彼の腕を取った。

そのまま、その腕を小脇に抱え込むようにして、ぐいぐいと引っ張りつつ歩いていく。

思いがけない状況。むき出しの腕に柔らかな感触。清四郎は顔が赤らむのを感じて、内心焦った。

 

悠理とは共に学級委員を務める間柄だが、こんな風に密着したことはなかった。

もともと清四郎の事を「弱虫、優等生のお坊っちゃん」と毛嫌いしていた悠理だ。

仲間になってからも、清四郎がいつの間にか自分よりも強くなっていたことがショックだったのか、どこかよそよそしい態度をとり続けていた。

そんな悠理と、今ここにふたりでいることが、清四郎にはなんだか不思議に思えた。

 

 

「ねぇ、悠理」

隣を、上機嫌で歩いている悠理に呼びかける。

「なに?」

「うちの別荘、反対方向なんだけど」

「えっ? なんだ、早く言えよ!」

「いや、なかなかいい感触だったもんで、つい」

「?」

ぺろりと舌を出す清四郎の顔を不思議そうに見上げる悠理に、清四郎はにっこりと笑いながら、抱え込まれた腕を揺すった。

 

「わわっ!」

焦った声を上げ、悠理は飛びずさって逃げた。

「なんだよ、このどスケベ!」

「失礼だな。僕の腕を抱きかかえたのは、悠理の方じゃないか」

 

憤慨する悠理にしれっと言い返すと、清四郎はくるりと向きを変えて歩き出した。

「ほら、こっち」

「あ、待てよ、清四郎!」

悠理が慌ててぱたぱたと後を追い、ふたりは清四郎の別荘へと向かった。

 

 

 

「あ、いいなここ。なんだか落ち着く〜」

どうぞ、と通されたテラスのテーブルに身体を伏せ、手をぐーっと伸ばしながら悠理は幸せそうに言った。

彼女の表情は、この別荘の管理人夫人がお茶と共に運んできたタルトを口に入れたとき、よりいっそう輝いた。

「ん、まーい! このブルーベリーのタルト、最高!」

「浅間ベリーだよ。ブルーベリーとはちょっと味わいが違うでしょ」

「なんでもいい。旨けりゃいい」

 

ひたすらガツガツとタルトを頬張る悠理を見て、清四郎は微笑んだ。「かわいい」と思ったのだ。

そして、そう思うとなんとなくいじめてみたくなった。

「そういえば、宿題はしたの? お手伝いさんが何か叫んでたけど」

さりげなく聞くと、悠理はゴホゴホと咳き込んだ。

「お、思い出させんなよ〜」

悠理は涙目になって、喉元をこぶしで叩いている。どうやら、タルトが喉に詰まって苦しかったらしい。

 

「だって、涼しくて勉強がはかどるだろうからって、ここに来たんでしょ?」

「だーかーら、それは母ちゃんの考えだいっ! あたいは勉強なんかまっぴらだ!」

わめく悠理を清四郎はまぁまぁと両手で制した。

「でもさ、どうせ宿題はやらなきゃいけないだろ? どうせなら、ここでやれば? 教えてあげるよ」

「……明日も、タルト食べさしてくれる?」

悠理はしばし考えた後、フォークを噛みながら上目遣いに聞いた。

 

「タルトかどうかわからないけど、ケーキはいつもおやつに出るよ」

「ほんと? じゃあ、明日も来る! そうだ、あれ教えてくれよ。飛び蹴り!」

「飛び蹴り?」

「うん、南中の番長やっつけた時のやつ。あれ、かっこよかった〜! 身長差がある相手とやる時にいいよな、あれ」

 

「かっこよかった」と悠理に言われて、清四郎の頬が緩んだ。

「いいよ。でも、鍛錬は朝早くにやってるんだ。起きられる?」

「起きる! 何時?」

「…6時半」

本当は6時と言いたいところだったのだが、相手の事を考えて30分遅くした。

「オッケー、余裕余裕!」

そう言ってニカッと笑う悠理に、清四郎は目を細めた。

 

まるでひまわりのような悠理の笑顔。ようやく、ここに来てよかったと思うことが出来た。

 

今年の夏は、とびきり楽しくなりそうだ。

 

 

 

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