3.
―――――――― そして、二夜目。
深夜。 生徒も、教師も、二日つづけてのハードな運動に疲れ果てて、すっかり寝入っている。
体力が自慢の悠理も、皆と同じく熟睡していたが、酷い空腹を感じて、真夜中に目覚めた。
たっぷり運動したのに、通常の一人前の夕食しか食べられなかったのが原因だろう。身体が栄養補給を求めている。だが、生憎にも、持参した菓子の類はすべて食べてしまっていたし、この時間だと、さすがに館内の売店も閉まっていた。 眠気に打ち勝つ空腹感を朝まで堪えられるほど、悠理は我慢強くない。昼間、目の前の砂浜からコンビニエンスストアの看板が見えていたことを思い出し、そっとベッドを脱け出した。
靴を履き、財布を持って、一階に下りる。 玄関を避けて、非常口から外へ出た。 足元を見ると、非常口が完全に閉まらぬように、扉の隅に丸めた紙が噛ませてある。何故だろうと首を傾げつつも、そのままにして、コンビニエンスストアへ向かった。
オニギリやサンドイッチを袋いっぱいに買い込み、来た道を戻る。 しかし、宿泊施設の前まで来て、立ち止まった。 クラスメイトが寝ている部屋で、がつがつ食べていたら、さすがにまずいだろう。 かといって、ホールや廊下で食べていたら、口煩い教師に見つかる危険が大きい。 幸いにも、空には真ん丸い月が輝いていて、辺りは夜でも明るい。 悠理は建物に背を向けて、砂浜へと続く道を進んだ。
まばらな松林を抜けると、砂浜には、波音が満ちていた。 月光が海面を照らし、細波がきらきらと光っている。 夜の海ならではの、怖いくらいに澄んだ景色だ。
昼間よりも砂浜が狭くなっていて、波打ち際がやけに近い。 少し怖気づいた悠理は、砂浜に下りず、浜木綿の繁る草叢に腰を下ろした。 ビニール袋を漁り、オニギリを食べはじめる。 研ぎ澄まされた景色の中にひとりでいるのは怖いけれど、夜の海を独り占めできるなんて、なかなか素敵なことではないか。 そんなことを思いながら、オニギリを頬張っているとき、2メートルほど離れた流木の上に、白い布がかかっているのに気づいた。 「?」 思わず近寄って、手に取ってみる。 悠理が着ているのと同じ、学園指定の体操服だ。 瞬間、非常口のドアに噛ませた紙くずを思い出す。 きっとドアはオートロックになっていて、外からは鍵がないと開けられないのだ。 と、いうことは、あれは悠理より先に、誰かが宿から抜け出した証拠ではないか。
悠理は体操服を月光に照らし、胸の縫い取りを確かめた。 学園の体操服には、胸に持ち主の名前が縫い取られている。
―― 菊正宗。
月光に浮かび上がった名前を見たら、胸が、どきんと鳴った。
海を見る。 誰の姿もない。
胸が、どきどきと早鐘を打ちはじめる。
悠理の左手から、食べかけのオニギリが零れ落ちる。
「せ・・・」
叫ぼうとした、まさにそのとき。
細波がきらめく海面から、すらりとした影が立ち上がった。
影が、こちらを向く。 顔は見えないが、均整の取れたシルエットに、見覚えがあった。 悠理はその場にへなへなと座り込み、安堵の息を吐いた。 あまりにも驚いたせいで、空腹感は、どこかへ飛んでいってしまった。
悠理が脱力して俯いていると、波音に紛れて、さくさくと砂を踏む足音が聞こえた。 「・・・悠理?」 幼稚舎の頃から聞いていた声が、頭上から降ってきた。 いつもと変わらぬ、落ち着いた声に、怒りが湧いた。 驚かせてくれたことに、文句のひとつも言ってやろうと、悠理は勢いよく顔を上げた。 そして、月下に佇む同級生の姿を見て、息を呑んだ。
清四郎は、満月を背に、悠理を見つめていた。
腕を伝う雫が、月光を吸い込んで、静かに輝いている。 濡れて額に貼りついた黒髪の隙間から、夜よりも黒い瞳が覗いている。 何も着けていない上半身が、あどけなさの残る頬が、夜に青く染まって、異質なものに見えた。
昼間に見る清四郎とは、まったく違う、夜の姿。
悠理は、ぽかんと口を開けたまま、見知らぬ清四郎に見入っていた。
「何を呆けているんですか。」 声をかけられ、はっと我に返る。 「お、お前こそ、何をやってるんだよ!?」 清四郎は、体操服と一緒に置いていたタオルを拾い上げると、顔を流れる雫を拭った。 「見れば分かるでしょう?泳いでいたんです。」 「こんな夜中に?」 「武術の稽古で汗だくになったので、クールダウンしたくてね。」 「夜中に稽古をするほうが間違ってるぞ。」 すると、清四郎は、ムッとしたように口をへの字に曲げた。 「そういうお前こそ、どうしてこんな夜中に起きているんですか?」 悠理は顎でコンビニエンスストアの袋をさした。 「腹、減ったんだ。」 清四郎は、ビニール袋を見て、そして、悠理を見た。
僅かな沈黙のあと、二人揃って、ぷっと吹き出した。
しばらく笑って、また二人、顔を見合わせる。 「オニギリ、一個、恵んでやろうか?」 「有難い。実はお腹が空いていたんです。」 悠理と清四郎は、並んで浜木綿の絨毯に腰を下ろし、海を眺めながらオニギリを食べはじめた。
最後のひと口を飲み込み、悠理は海を指差した。 「なんだかさ、砂浜が狭くなってない?」 一個と言ったのに、清四郎は勝手にビニール袋を漁り、サンドイッチを取り出した。 「今日は大潮ですから、いつもより潮位が高いんですよ。」 「大潮って、何?」 悠理のあどけない問いに対して、清四郎はサンドイッチを持った手で、満月を指差した。 「潮の干満は、月の引力によって大きさを変えます。大潮のときは、いっぱい潮が満ちて、いっぱい潮が引くんです。」 「ふうん。」 意味はまったく分からなかったけど、分かったように頷いてみた。 清四郎も、悠理が分かったとは思っていないだろうけど、何も言わずにサンドイッチを食べていた。
サンドイッチを平らげると、清四郎は身体についた潮を拭いはじめた。 細いとばかり思っていた身体は、筋肉質で、硬く締まっている。 悠理は清四郎がタオルを使う様子を眺めながら、指にくっついた米粒をぺろりと舐め取った。 「・・・お前の腹、硬そうだな。」 悠理の視線に気づき、清四郎はさり気なく体操服に袖を通した。 「ちょっと触らせてよ。」 「嫌です。」 「いいじゃん。減るもんじゃないし。」 「では、オニギリをもう一個くれたら、触らせてあげます。」 その言葉を聞いて、悠理は即座に交換条件を却下した。 すると、清四郎は、なんと悠理が食べていたオニギリに喰らいついた。 「何するんだ!?」 「昨日、僕の手を触った代価を、オニギリで返してもらっただけです。」 清四郎は、睨む悠理にふふんと不敵に笑いかけた。
悠理は袋を手繰り寄せて、清四郎の反対側に大事な食料を隠した。 でも、何だか清四郎に申し訳なくて、袋から出した牛乳パックを、ぶっきらぼうな動作で彼の前に突き出した。 「有難う。」 清四郎が礼を言ってパックを受け取る。 悠理は黙ってオニギリを頬張った。
不思議なことに、いつの間にか、暗い海に対する恐怖は消えていた。 その代わり、弾むような嬉しさが、胸に生まれていた。
誰もいない、誰も知らない、夜の海で。
悠理は、大嫌いだったはずの幼馴染と並んで、オニギリを食べている。
夜空も、月も、輝く細波も、隣で笑う清四郎の横顔も、すべてが綺麗だった。
ふと、大嫌いだった頃の清四郎を思い出す。 何が嫌いだったか、今となってはよく思い出せない。
でも、清四郎を好きになって、分かったことが、ひとつある。
「嫌い」より「好き」が多いほうが、絶対に楽しいと。
悠理は、銀色に輝く月を見上げながら、口いっぱいにオニギリを頬張った。
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