9.
翌朝、目が覚めると、久しぶりに、心身ともにすっきりしていて、驚いた。 ここのところ、よく眠られなかったのに、昨晩は珍しく熟睡したらしい。
昨夜、病院での治療を終えて家に戻ったあたしは、シャワーを浴びると、すぐにベッドへ潜り込んだ。
布団の中でも泣いてしまったけれど、いつの間にか、眠っていたようだ。 夢も見ないほど熟睡するなんて、本当に久しぶりだった。
ベッドから抜け出し、カーテンを開けると、窓いっぱいに真っ青な空が広がった。 背伸びをして、深呼吸をしたら、ぐう、と、お腹が鳴った。
これまた久しぶりの空腹感だ。驚きに眼を丸くしながら、お腹を撫でる。ぺこんとへこんだお腹の感触に、今さらながら、最近はろくに食べていなかったことを痛感した。
昨夜、あたしより遅く帰宅したママは、まだ寝ている。早くに起こすのも可哀想なので、ギリギリまで寝かしておくことにした。
久しぶりに二人前の朝食を作り、自分のぶんを美味しくいただく。 炊き立ての御飯が、こんなに美味しいものだなんて、ずっと忘れていた気がした。
お腹いっぱいに御飯を食べて、さて学校へ行くべきかどうか、悩んだ。
傷のほうは、縫合も済んでいるし、昨日ほどは痛まないので、問題はない。 気になるのは、悠理に叩かれた頬のほうだ。
多少は腫れも引いたけれど、内出血の痕と、切れて赤黒くなったくちびるの端も含めて、どうにも隠しようがない。
美貌を売りにするあたしにとって、こんな顔で出歩くなんて、最低最悪の屈辱だ。
結局、痕が消えるまで、学校は休むことにした。
どうせ卒業も間近だし、今さら出席日数を気にすることもない。 学校に電話をしてから、野梨子にメールを送り、休むことを伝える。
休むと決めたら、急に掃除がしたくなった。
ママを起こして御飯を食べさせ、元気に送り出してから、気合を入れて腕まくりする。ここ二ヶ月、ずっと手抜き掃除をしていたから、部屋の隅には綿埃が溜まっていた。こんな部屋で普通に過ごしていたなんて、あたしは今までどれだけ呆けていたんだろうか。
一日かけて家じゅうの掃除をし、室内だけでなく、気分までスッキリさせる。
やっぱり、ぴかぴかの部屋は気持ちいい。もっと爽快な気分を味わいたくなり、大きく窓を開いて、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
気持ちのいい倦怠感に包まれ、久しぶりに満ち足りた気分を味わっていると、玄関のチャイムが鳴った。
「やあ可憐。元気?」
玄関を開けると、冬の青空を背負った美童が、扉の向こうでにこやかに微笑んでいた。
「思ったより元気そうで良かったよ。」
ダイニングテーブルに着くと、美童はまずあたしに労わりの言葉をかけてから、手土産の菓子箱を差し出した。
箱の中からは、バニラエッセンスと、上質なリキュールのいい香りが漂ってくる。掃除に精を出してお腹も空いたし、さっそく頂くことにして、コーヒーを淹れるためにキッチンへ回った。
「酷い顔をしているから、あまりジロジロ見ないでね。」
キッチンは対面式なので、嫌でも美童のほうを向かなければならない。あたしは左頬を手で隠しながら、軽い口調で美童に話しかけた。
すると、美童は困ったように微笑んでから、ふう、と溜息を吐いた。
「僕もまだまだだよ。どんなことがあっても、女性には絶対に手を上げないって誓っていたのに、簡単にその誓いを破っちゃうなんてさ。」
「あんたが女を殴ったの!?」 意外すぎる告白に、思わず大きな声を出す。
「いったい誰を殴ったのよ?もしかして、また二股でもかけられていたの?」 「違うよ。」 美童は力なく笑い、テーブルに頬杖をついた。
「相手を聞いたら吃驚するよ。吃驚しすぎて、顎が外れるかもしれない。」 「何よ、それ。もったいぶらないで、さっさと言いなさいよ。」
サファイアより深い色をした碧眼が、あたしをちらりと見て、少し、細くなる。
「悠理。」 「はい?」
「だから、悠理を叩いたんだよ。この僕が。」 「ええ!?」
顎は外れなかったけれど、吃驚しすぎて、コーヒーカップを落としそうになった。
「な、なんであんたが悠理を叩くのよ!?」
「ん〜、話せば長くなるんだけどさあ。」 美童はテーブルを睨んで、また、ふう、と溜息を吐いた。
「今日さ、やっとで悠理が学校に来たんだ。最初は野梨子の説得の甲斐あってだと思っていたんだけど、どうも様子がおかしくてさ。不審には感じたけど、まあ、そんなもんかなって納得していたら、可憐が休んでいるって聞いた途端、悠理が泣き出しちゃって・・・」
あたしは無言で話を聞きながら、コーヒーを淹れる作業をつづけた。
「で、訳を聞いたら、昨日の夜、可憐を殴って怪我をさせたって言うだろ?しかも、殴った理由の半分は、誤解だったって聞いてさ。それでフェミニストの僕もさすがに怒っちゃった訳さ。だって、これまで誰よりも辛い想いをしてきたのは、他の誰でもない、可憐だもの。それで、思わず、ばちん、といっちゃったんだよね。」
手で宙を切って、人を叩くジェスチャーをしてから、美童はまた溜息を吐いた。
「叩いてから、自分で吃驚したよ。僕にも人が叩けるんだって、はじめて知ったんだもの。皆も、かなり驚いたみたいで、口をあんぐり開けていたよ。」
美童は、悠理を叩いたであろう右手を眺めている。 「・・・あたしのせいで、誓いを破らせちゃって、悪かったわね。」
「可憐のせいじゃないよ。僕の修行が足りなかっただけ。」 そう言って、空笑いをするから、余計に申し訳なくなる。
だけど、また謝っても、美童に空笑いさせるだけ。 「よく悠理が逆上しなかったわね。」
ほんの少し話題を変える。それを聞いた美童は、軽く肩を竦めてみせた。 「悠理は何も。その代わり、清四郎からすごい眼で睨まれたけどね。」
以前の清四郎なら、悠理を溺愛するあまり、相手を殴っていたはずだ。 そうしなかったということは、少しは皆に悪いと思っているのだろう。
自分はいつも正しいと信じていて、なかなか非を認めない男にしては、すごい進歩だ。
湯気とともに、コーヒーの芳香が鼻を擽りはじめる。
美童の話は、まだ終わらない。
「悠理さ、可憐から、早く清四郎のところへ行け、って言われて、すごくショックを受けたそうだよ。悠理は自分のことしか考えていなかったのに、可憐はちゃんと他人のことも考えていたって知って、自己嫌悪に陥っている。」
「そう・・・」 あたしは淹れたてのコーヒーをトレイに載せて、ダイニングテーブルに回った。
美童の前にカップを置き、その向かいに自分のカップを置く。 「結局、悠理は清四郎のところへ行ったのかしら?」
「行ったみたいだよ。で、清四郎に説得されて、学校に来たみたい。」 自分から尋ねたくせに、返答を聞いたら、胸がずきんと痛んだ。
「でも、ふたりには、まだまだ距離があるよ。可憐のために、何とか和解したって感じかな?あのふたり、不器用すぎて、こっちが笑いたくなるよ。」
いただきます、と呟いて、美童はカップに口をつけた。 「さすが可憐だね。美味しいよ。」
「あたしにお世辞を言っても、何の得にもならないわよ。」 軽く返すと、美童は、可憐にお世辞なんか言うもんか、と、くちびるを尖らせた。
「良くも悪くも、可憐はいつも本気だからね。そんな娘には、こっちもとことん本気で接するか、逆にぜんぶ冗談でやり過ごすかの、どっちかだよ。僕はいつも可憐には正直だって、胸を張って言える。」
いつものあたしなら、軽く受け流していただろうけれど、今日ばかりは、美童の優しい言葉が、胸に沁みた。
軟弱で、浮気性で、弱虫で、どうしようもなく情けないけれど、この男は、ここぞというとき、陽だまりみたいに優しい言葉で、あたしを慰めてくれる。
その言葉のひとつひとつが、あたしを慰め、癒していることも、きっと美童はお見通しなんだろう。
今日だけは、美童なりの優しさに、甘えておこう。
神さまだって、そのくらい許してくれるはずだと、信じて。
楽しいティータイムを過ごしたあと、美童は帰っていった。
最後に、怪我が早く治るよう祈っているよ、という言葉と、世界でいちばんチャーミングな笑顔を残して。
四日後、顔の傷もだいぶ目立たなくなったので、学校へ行くことにした。
冷たい朝の空気に包まれて、大股で颯爽と道を歩く。 胸を張って歩く気持ちよさを、久々に体感できて、あたしは朝から上機嫌だ。
校門の近くで、反対側から歩いてくる清四郎と野梨子に出くわした。 「可憐!」 野梨子が駆け寄ってくる。
「怪我はもう良くなりましたの?」 「ええ、だいぶ。心配かけちゃって、ごめんね。」
あたしが微笑みかけると、野梨子も安心したのか、少し遅れて微笑んだ。
視線を上げると、清四郎とばっちり眼が合った。
「おはようございます。」 「おはよう。」 短い挨拶をかわし、どちらからともなく歩き出した。
歩き出してすぐ、野梨子が大げさな溜息を吐いて、清四郎を冷たく睨んだ。
「自分のせいで怪我をした女性が隣を歩いているというのに、鞄のひとつも持ってさしあげようともしないなんて、やはり清四郎は人間として欠陥があるみたいですわね。」
辛辣な皮肉に、あたしは眼を丸くしたけれど、清四郎はただ苦笑している。 「野梨子には敵いませんね。」
清四郎は苦笑いしながら、あたしの手から鞄を取った。
その笑顔からは、刺々しいものが消えていた。
あたしが休んでいる間に、清四郎も、心の中で、色んなことに決着をつけたのだろう。
あたしの中には、それを哀しむ自分もいるけれど、安堵している自分も、確かに存在していた。
校舎に入る寸前、野梨子が下級生から声をかけられ、立ち止まった。 あたしと清四郎は、野梨子を待つ間、ふたりきりになる。
もちろん、周囲には無数の生徒がいる。
だけど、あたしたちは、強烈に互いを意識していて、次々と校舎へ吸い込まれていく生徒なんて、視界にすら入っていなかった。
「・・・悠理が可憐を殴って怪我をさせたと聞いたときは、目の前が真っ暗になりましたよ。」
周囲には聞こえないくらい小さな声で、清四郎が囁く。 「その割には、お見舞いのひとつもなかったじゃない。」
清四郎の声量に合わせて、あたしも小声で呟く。 「電話もメールも無視しておいて、そんなことがよく言えますね。」
「過去の男には、無駄な時間は一秒たりとも使わない主義なの。」 「過去の男、ですか。」 くっ、と低い笑い声が聞こえた。
眼だけ動かして、視線を上げると、くっきりした咽喉仏が上下しているのが見えた。
清四郎の胸に顔を埋めたとき、喋るのに合わせて、あの咽喉仏が動くのを眺めるのが、大好きだった。
だけど、それも過去の話。これからは、清四郎の胸に顔を埋めることも、間近から、くっきりした咽喉仏を眺めることも、二度とない。
「・・・悠理とはどうなったの?もうキスくらいした?」 いきなりの質問にも、清四郎は動じもしない。
「まさか。まだ眼もうまく合わせられませんよ。」 「その割には、やけにすっきりした顔をしているじゃない。」
「長期戦の覚悟を決めましたからね。友達になるまで十年近くかかったことを思えば、まだマシですよ。」
美童の言うとおり、清四郎は不器用すぎる。 だけど、もう手助けなんか、してあげない。
「早く願いが叶うよう、応援しているわ。ただし、もう傍にはいてあげないけど。」
あたしは清四郎から鞄を奪い返すと、彼を置いて、颯爽と教室へと向かった。
最後の復讐ができることに、胸を躍らせながら。
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