8.
頭を強打したのか、しばらくの間、ぼんやりとして思考がまとまらず、いったい何が起こったのか理解できなかった。
やがて、痛みとともに思考力が戻ってきた。 その途端、口の中に、金気臭い血の味が広がった。 どうやら口の中を切ったらしい。
「・・・つっ・・・いた・・・」 呻きながら、身を起こそうとしたけれど、駄目だった。 少し動くだけで全身が悲鳴を上げて、腕すら動かせない。
倒れたとき、あちこちを打ったのだろう。 叩かれた頬だけでなく、全身が激痛に悲鳴を上げていた。
冷たい石畳に転がったあたしの真上で、悠理の荒い息遣いが聞こえた。
「なんで・・・なんで兄ちゃんと一緒なんだよ?男なら・・・誰でもいいのか?」 声は聞こえても、全身が痛くて、答えられない。
「野梨子の話を聞いて、勇気を出してここまで来たのに・・・なんで、兄ちゃんと一緒にいるんだよ・・・?可憐は・・・男なら、誰でもいいんだ・・・男なら・・・清四郎じゃなくっても・・・」
「ち、ちが・・・」 動かそうとした右手に、激痛が走った。 冬の夜なのに、頬が燃えるように熱い。
痛みを堪えて顔を上げると、真っ赤な顔であたしを睨む悠理と、視線が合った。
「酷いよ・・・最低だよ・・・清四郎だけじゃなく、兄ちゃんまで・・・どうして可憐は、あたいから大事なものを奪っていくんだよ・・・?」
悠理は、途切れ途切れに呟いて、震える拳を握った。
「この淫乱女!お前なんか、死んじゃえ!」
悠理の絶叫が、冬の夜空に、吸い込まれた。
頬が痛い。手が痛い。足が痛い。額が痛い。
どこもかしこも痛くて、心の痛みまで、気が回らない。
「悠理っ!可憐ちゃん!」
騒ぎに気づいたのだろう。冷たい石畳に横たわったままのあたしに、豊作さんが駆け寄ってきた。 「大丈夫かい?」
豊作さんが、あたしの顔を覗き込む。 その手が、まるで守るかのように、あたしの両肩を包んだ。
「兄ちゃん!そんな女に構うことない!そいつは、男なら誰でもいいんだ!」 悠理があたしを指差して叫ぶ。
「何を勘違いしているんだ!?僕と可憐ちゃんは、用があったから会っていただけだぞ!可憐ちゃんに謝れ!」
豊作さんも、悠理に負けないくらいの大声で叫んだ。 「嫌だ!そんな女に謝るくらいなら、死んだほうがマシだ!」 「悠理っ!!」
妹と言い合いながら、豊作さんは、あたしを抱き起こそうとした。 だけど、あたしはその手を振り払った。
その瞬間、なまあたたかいものが、指先から散った。
「可憐ちゃん!!」
豊作さんが息を呑む。
そこで、あたしはようやく気づいた。
右の掌が大きく裂け、そこから鮮血が溢れていることに。
血が滴る傷口を見た途端、右手を激痛が襲った。 じんじんと熱く痺れるような痛み。
傷が深いのか、次から次へと血が溢れてくる。
でも、傷口よりも、心のほうがよっぽど痛かった。
「可憐っ!」
悠理もあたしの怪我に気づいたらしい。 さっきまで怒りに顔を赤くしていたのに、みるみるうちに青くなっていく。
あたしは視線を下ろして、石畳を見た。 すぐ傍に、割れたガラス瓶が転がっていた。
べっとりと血がついた破片を眺めながら、顔じゃなくて良かったと、この場に不似合いな安堵に胸を撫で下ろす。
あたしは顔を上げて、悠理を睨んだ。 「・・・言いたいことは、それだけ?」
あたしが睨みつけると、さっきまでの勢いはどこへやら、悠理は泣き顔になって、うろたえている。 「・・・かれん・・・ごめん・・・ごめ・・・」
「悠理はいつもそう!やってから後悔してばかり!そういう態度がどれだけ人を傷つけているか、分からないの!?」 悠理の肩が、びくりと震えた。
「だいたい何よ!?あたしがいつ悠理の大事なものを奪ったって言うの!?あたしは悠理から何も奪ってなんかないわ!」
そう。あたしは何も奪っていない。 清四郎は、最初から最後まで、あたしを見てはくれなかった。
「手に入れる前から諦めているくせに、あたしに文句を言うなんて、お門違いも良いところだわ!それとも何!?清四郎は悠理の所有物だとでも言うの!?そう思うなら、何で告白されたときに清四郎を受け入れなかったのよ!?」
興奮したせいか、掌から溢れる血が、熱くなったように感じる。
叩かれた頬が、深く切れた掌が、強打した頭が、打ちつけた肩が、涙が出そうなほど痛い。 寒い中で叫んでいるから、咽喉まで痛くなってきた。
だけど、どんなに苦しくても、あたしは叫ぶのを止めなかった。
「ねえ!最低なのはどっち!?酷いのはどっち!?何もはじまっていないうちから臆病風に吹かれて逃げ出したほうじゃないの?人の話も聞かないで、悲劇のヒロイン気取って自分の殻に閉じこもっていたほうじゃないの?ねえ、どうなのよ!?」
あたしが酷い言葉を投げつけたせいで、悠理はとうとう泣き出した。
この娘は大事なことに気づいていない。
泣けば誰かが助けてくれると思っている。 世界が自分を中心に回っているとでも、思っているのだろうか?
勝手な思い込みで、あたしに暴力をふるい、酷い言葉であたしを侮辱したくせに。
清四郎がどれだけ傷つくかも考えずに、残酷な言葉を投げつけて、彼を拒絶したくせに。 あたしが世界でいちばん欲しかったものを、手に入れているくせに。
ああ、駄目だ。
悠理が―― 堪らなく、憎い。
あたしの心に、凄い速さで毒が広がっていく。
もう、自分では、制御できない。
「可憐ちゃん!もういいから、早く傷の手当をしよう。」
豊作さんの手が、ふたたびあたしの肩を抱いた。 その手を振り払い、今度は豊作さんに向かって叫ぶ。
「豊作さんには関係ない話よ!邪魔しないで!」 あたしは、全身を覆う痛みを堪えて、ふたたび悠理を睨んだ。
「わざわざここに来て、あたしに文句を言う勇気があるなら、どうして清四郎のところへ行かないの・・・?」
血が溢れる。叩かれた頬が熱い。全身が痛い。怒りが心を麻痺させていく。 毒が全身に広がる前に、言わなければ。
あたしが完全な魔女になる前に。友情を覚えているうちに。
「あたしはあんたから何も奪っていない・・・自分のものだと言いたいなら、さっさと清四郎に好きだって伝えるべきじゃないの?」
悠理は顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
あたしは冷たい石畳に蹲って、血を流しているというのに、どうして悠理は純粋なまま、涙を零しているのだろう?
純粋で、子供のままの姿が、無性に腹立たしい。
お願い。毒よ、これ以上、心を黒く染めないで。 もう少しだけ、悠理を友達と思わせて。
あたしは眼を瞑り、すんでのところで爆発しそうな怒りを押さえ込んだ。
怒りがほんの少し収まったところで、二度、大きく息を吸い、眼を瞑ったまま、絶叫した。
「ここで泣いている暇があったら、さっさと清四郎のところへ行きなさいよ!」
叫んでから、心の中で五秒カウントし、眼を開く。 悠理は涙を零しながら、呆然とあたしを見つめていた。
あたしは悠理を睨んだまま、豊作さんに話しかけた。 「・・・豊作さん。早く悠理を連れて行って。」 「え?」
「だから、早く連れて行って!今すぐ清四郎のところに!!早く!!」 振り返ると、豊作さんの戸惑う顔が、すぐ近くにあった。
「何をぼさっとしているの!?早く!」 「で、でも、まずは君の手当てをしないと・・・」
「あたしの傷なんて、どうでもいいの!早く連れてって!!」 「でも・・・」 「早く連れて行けっていうのが、分からないの!?」
上半身を折って、石畳に向かって叫ぶ。 「このあたしが、悠理を清四郎のところへ連れて行けって言っているのよ!」
悲鳴のような絶叫が、硬い石に反響して、夜の空気を震わせた。
絶叫の残響が消えると、周囲には、痛いほどの静寂が訪れた。
静寂の間に、かつ、と小さな靴音が響いた。 「せめて・・・ハンカチくらい巻かせてくれるかな?」 豊作さんが屈んで、あたしの手を取る。
「あと、車と病院の手配だけはさせてもらうから。車が来るまでの間、ひとりでも大丈夫だね?」
声に出して答えたら涙が溢れてきそうだったので、無言で頷いた。 豊作さんは、傷を負ったあたしの手にハンカチを巻くと、立ち上がった。
「悠理、行くよ。」 「やだ・・・やだよ・・・可憐を置いていけないよ・・・」 涙を散らしながら、頭を左右に振る悠理。
あたしを見て、まるで子供みたいに、激しく嗚咽する。 「お前がここにいたら、迷惑だって、まだ分からないのか?」
豊作さんが、悠理の肩に手を回し、強引に歩かせようとする。 「ごめん・・・ごめん・・・可憐・・・ごめん・・・」
悠理は大粒の涙を零し、何度も謝りながら、豊作さんに押し出されるようにして、歩きはじめた。
ふたりがあたしの横を過ぎるとき、豊作さんの足が、僅かな間だけ、止まった。 「可憐ちゃん・・・本当に、大丈夫かい?」
遠慮がちな問いに、あたしは顔を上げて、にっこり笑った。 「言ったはずですよ?あたしって、こう見えて結構タフだって。」
あたしがそう返すと、豊作さんも、にっこりと笑い返してくれた。 まるで、あたしを励ますかのように。
ふたりが去り、石畳の上に、ひとり残された。 ひとりきりになった途端、涙がこみ上げてきた。
「う・・・」
あたしひとりがピエロになって、ハッピーエンド。 本当に、馬鹿みたいだ。
馬鹿みたいなのに、苦しくて、哀しくて、寂しくて、涙が止まらない。
「うーっ・・・ひっく、えっ、えっ・・・」
無傷の左手で顔を覆い、あたしは激しく嗚咽した。 胸が潰れそうなほど苦しいのに、心はまだ清四郎を求めている。
最初から最後まで、悠理だけを愛していた男だと、分かっているのに。
こんなに苦しい想いをしてまで、どうして人は恋をするんだろう?
胸の痛みが消える頃には、その答が分かるんだろうか?
今は、まだ―― この苦しさに耐えることで、精一杯だというのに。
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