7.

 

 

その日の放課後、学園から悠理の家へ直行するという野梨子に、あたしは伝言を頼んだ。
悠理は電話にも出ないのだ。メールを送っても、見てくれている可能性は低い。
最後の頼みの綱である野梨子も、悠理と会えるかどうかすら分からないけれど、今のあたしには、それしか悠理に気持ちを伝える方法はなかった。

「清四郎が好きなのは、今も悠理だけ。あたしのことは許せないかもしれないけれど、どうか清四郎だけは許してあげて、って、伝えて。これがあたしの最初で最後のお願いだって。」

あたしが託したメッセージを聞いて、野梨子は眉を顰めた。
「何だか、今生の別れを告げるような伝言ですわね。」
「いやね、野梨子は何でも大袈裟に考えるんだから。」
訝しがる野梨子に、あたしはコミカルな仕草で、肩を竦めて見せた。


野梨子を見送り、小さく溜息を吐く。
これで、やるべきことがひとつ終わった。
冬のせいで冷えた頬を二度、軽く叩いて、気合を入れる。
次は、清四郎と会う番だ。
清四郎とふたりきりで会うのに、こんなに勇気を必要とすることなんか今までなかったので、ガチガチに緊張している自分が、少し滑稽に思えた。
だけど、あたしは清四郎に会わなければならない。
最後に、決着をつけるために。後ろを振り返ることなく、前へ進むために。
どうしても、清四郎と真正面から向かい合う必要があった。


野梨子を見送ったその足で、約束の場所へと向かった。
清四郎を呼び出したのは、図書室の資料庫だ。一般の生徒は立ち入り禁止だけど、生徒会の役員なら、スルーで入室が許される。
もっとも、あたしたちの場合、すでに生徒会役員を降りて、後任にすべてを委ねているけれど。

引退してもなお特権は継続しているので、当然のように顔パスで資料庫へと進む。
資料庫の重いドアを開けた途端、黴臭さがつんと鼻をついた。

室内を見回すまでもなく、待ち合わせの相手は見つかった。
清四郎は、すぐ傍の本棚に凭れて、分厚い洋書を開いていた。

あたしに気づいているはずなのに、清四郎は顔を上げようともしない。
冷たい態度に、胸がぎゅっと痛んだけれど、ここで怯んで逃げたら一生後悔する。あたしは覚悟を決めて歩き出した。
わざと足音を立てて近づいているのに、やっぱり清四郎は顔を上げない。
ベッドの中で見せてくれた、優しい笑顔は、嘘だったのかと思うと、哀しくて涙が溢れてきそうだ。
それでも、あたしは真っ直ぐ前を向いて、清四郎の前に立った。
彼が手にしていた洋書に指を乗せて、ぐっと下に押すと、清四郎はようやく顔を上げて、あたしを見た。

冷たい眼。あたしを抱いているときの眼とは、まるで別人のようだ。
でも、そんな眼をさせているのは、他の誰でもない、あたしなんだ。

縮こまりそうな勇気を奮い立たせて、清四郎を睨みつける。
そのまま睨んでいると、あたしのしつこさが嫌になったのか、清四郎のほうから眼を逸らした。
「・・・こんなところに呼び出して、いったい何の用です?」
「用件は、今、話すわ。大事な話だから、ちゃんとあたしの顔を見てよ。」
伏し目がちの視線を追って、わざと下から顔を覗き込むと、清四郎はあたしを避けるかのように横を向いた。
哀しさと口惜しさで心がいっぱいになり、思わず、大声で詰りたくなる。
でも、そんなことをしたら、彼はさらに心を閉ざしてしまう。
あたしは、清四郎を追いつめるために、わざわざ呼び出した訳じゃない。


「・・・清四郎、あたしを見て。」
震えそうになる声を絞り出して、清四郎に呼びかける。
けれど、やっぱり彼はあたしを見ない。
駄目だ。どんなに我慢しても、涙が溢れてくる。
「・・・お願いだから、こっちを見て・・・」
とうとう涙が零れて、頬に伝った。

結局、どんなに身体を重ねても、清四郎は、あたしを見てはくれないんだ。
少しでも希望を抱いていた自分が、惨めで、惨めで、情けなくなる。
どうしてこんなに残酷な男を好きになってしまったんだろう?
そして、どんなに打ちのめされても、好きで好きで堪らないんだろう?
今、あたしを拒絶する横顔でさえ、愛しくて、胸がいっぱいになる。

「・・・お願い・・・最後くらい、悠理じゃなくて、ちゃんとあたしを見てよ・・・」

清四郎が、弾かれたように振り返って、あたしを見た。
黒い瞳が、驚きに見開かれる。
薄いくちびるが、声に出さないまま、あたしの名をかたち作る。
あたしは、清四郎の胸倉を掴み、渾身の力を籠めて彼を揺さぶった。

「馬鹿みたい・・・なんであたし、こんな最低の男を好きになったの!?こんな・・・悠理しか好きになれない男なんか、好きになっても苦しいだけなのに・・・!」

ぼろぼろと涙を零しながら、あたしは清四郎の胸を何度も叩いた。
少し前の彼なら、何も言わずにあたしを抱きしめてくれていただろう。
だけど、今の清四郎は、抱きしめてくれない。
それは、清四郎の中で、あたしとの、男女としての関係が終わったことの、証だった。


されるがままに叩かれる清四郎の姿を見ているうちに、あたしも少し平静を取り戻した。
振り上げていた拳を下ろし、右手で頬を濡らす涙を拭う。
「・・・こんな男に惚れた、あたしが馬鹿だったってだけね。」
わざと投げやりに言葉を吐き捨て、今度は左手で頬を拭う。
泣きに泣いたせいで、涙を拭った両手はびしょ濡れだ。
「可憐・・・」
頬を濡らす涙を持て余すあたしに、清四郎が手を伸ばしてきた。
長い指が、あたしの頬をそっとなぞり、涙の名残を拭った。
「僕の頭に水をかけたのが、野梨子ではなく、可憐なら、僕ももっと楽になれたのに・・・」

友達だった頃も、清四郎の指は長いな、と感心していた。だけど、ベッドの中で睦言を囁き合うようになって、彼の指が意外に太くて、武道をやっているせいか、関節を覆う皮膚だけ硬くなっていることを知った。
もっともっと、清四郎のことが知りたかったけれど、これで、おしまいだ。

「あたしがやるんだったら、水じゃなくて熱湯をかけていたわ。野梨子で良かったと思わなきゃ。」
ふん、と顎を上げて清四郎の指を払いのけ、彼をひと睨みする。
「ねえ清四郎。あんた、悠理のこと、このまま諦めちゃって平気なの?」
あたしの台詞に、清四郎は、ふっ、と咽喉の奥だけで笑った。
「平気でなくても、諦めるより他はないでしょう?」
投げやりな態度で、またあたしから眼を逸らす。
その顔を両手で挟み、無理矢理あたしのほうに向かせた。
「意気地なし。本当に好きなら、ぶつかる前に諦めるなんて、自分自身に対して失礼だわ。たまにはプライドを捨てて、好きな相手に泣いて縋ってみなさいよ。どうせ後悔するなら、体当たりしてボロボロになって、やれること全部やって後悔したほうが、すっきりするもんよ。」
見開かれた瞳を覗き込むと、あたしのシルエットが映っていた。
「・・・今さら、そんなこと出来るわけがない。」
驚きと、戸惑い。彼の動揺が、端正な顔を歪ませる。
薄い頬をさらに強く挟んで、あたしから視線を逸らせないようにした。

「あたしの、最初で最後のお願い。清四郎、苦しくても、逃げないで。」

けっして聞き間違えないよう、一音ずつ、はっきりと発音する。
言い終わってから、清四郎の頬を解放し、あたしは微笑んだ。
「以上、あたしからの話は終わり。」
肩にかかる髪を払い、あたしは清四郎に背中を向けて歩き出した。
これでいい。もう、思い残すことはない。
そう思った直後、ひとつだけ、忘れていたことを思い出した。
ドアの手前で立ち止まり、振り返る。
「ねえ、清四郎。保健室で、最後に何て言おうとしていたの?」
「え?」
清四郎が、我に返ったように、ワンテンポ置いて振り向いた。
「保健室で言おうとしていたでしょう?清四郎にとって、あたしは、いったい何だったのかを。」
「ああ・・・」
困ったように微笑んでから、清四郎は、教えてくれた。

「僕にとって、可憐は、何ものにも変えがたい大事な仲間であり、至上の理解者です。これから先、何があろうとも、僕はずっと可憐の味方であり続けます。」

やっぱり、清四郎は世界でいちばん残酷で、女心を理解できない馬鹿な男だ。
でも、その馬鹿な男のお陰で、吹っ切れた。

「清四郎。ぜったいに悠理を捕まえて、幸せになりなさいよ。」

あたしはそう言うと、ドアを開けて、勢いよく歩き出した。

あとは、前を向いて、ひたすらに歩いていくだけだ。





清四郎と別れ、いったん帰宅してから、あたしはふたたび家を出た。
今日は、もうひとつだけ、約束があった。
約束の相手は、豊作さんだ。
実は二日前、あたしは豊作さんにあるお願いをしていた。

ふたりきりで会うのは、これで二度目だ。
特別な感情はないとはいえ、気楽に会える相手ではない。
何しろ、豊作さんは、悠理のお兄さんだ。悠理が学校へ行かなくなった理由を尋ねられても、あたしには、答えることができない。
それでも会うことになったのは、豊作さんの強い誘いがあったからだった。


約束の場所に到着すると、豊作さんは、相変わらずのビジネススーツ姿で、にこやかにあたしを迎えてくれた。
野暮ったくて、穏やかで、いかにも人が良いのだけが取り得といった風貌は、とてもじゃないけれど、派手好きな悠理の兄さんだなんて思えない。
でも、どんなときも変わらないこのひとの姿に、心が救われる気がした。

豊作さんは、あたしがお願いしていた件について、ちゃんとした回答を持ってきてくれていた。
「ありがとうございました。お忙しいのに、迷惑をかけちゃって、すみません。」
あたしが頭を下げると、豊作さんは慌てて両手を左右に振った。
「かしこまって礼を言われるようなことは何もしていないよ。」
ひとしきり恐縮したあと、豊作さんは、いきなり真顔になって、あたしを見つめた。
「他に、僕が手伝えることはないかい?大した力にはなれないけれど、僕でよかったらいつでも相談に乗るよ。」
「いいえ!これだけでも充分すぎるくらいです。申し訳なくて、もう迷惑なんてかけられません。」
口から出まかせではなく、本心からそう思っていた。悠理のお兄さんに、これ以上の迷惑はかけられない。
「遠慮だったら、しなくていいよ。可憐ちゃんは大人びて見えるけど、まだ高校生で、未成年だよ?大人に頼ったって、バチは当たらない。」
気遣わしげな表情。多くは語らないけれど、このひとは、あたしを心から心配してくれている。
あたしは精一杯の微笑を作って、少し首を傾けてみせた。
「こう見えて、あたしって結構タフなんです。どうしようもなくなったら、遠慮せずに泣きつきますから、そのときはよろしくお願いします。」
笑顔で強がるあたしを見て、豊作さんは、寂しそうに笑った。



申し訳ないことに、またもや料理の大半を残してしまったあたしに対して、豊作さんは、文句や嫌味めいた台詞はひとつも吐かず、ただひと言、心強くあるためにも食事は大事だよ、とだけ言った。

レストランを出て、ご馳走になったお礼と、心配をかけたお詫びを兼ねて、深々と頭を下げると、豊作さんはまた酷く恐縮した。
慌てふためく姿が子供みたいに見えて、あたしは思わず笑ってしまった。

まだ早い時間だし、地下鉄で帰るつもりだったけれど、結局、すすめられるまま、豊作さんが運転する車で送ってもらうことになった。

流れゆくネオン。カーラジオから流れるジャズが、沈黙の隙間を埋めていく。
「・・・ねえ可憐ちゃん。もしかして、悠理の奴と、喧嘩でもしているのかな?」
信号待ちの最中、ジャズのメロディに合わせるように、豊作さんが静かな口調で言った。
「喧嘩・・・してもらえるようなら、まだマシなんですけどね。」
道化て言ったつもりだったけど、あまり上手くはいかなかった。
「悠理、元気ですか?」
「元気・・・なんだろうね。四六時中、何かしら食べているそうだし。想像するに、あいつの単細胞じゃ処理できないほどのことが、あったんだろう。あいつ、小さい頃から、現実逃避するときは必ず食べ物に走るから、分かりやすいんだ。」
青信号になり、豊作さんがゆっくりとアクセルを踏み込む。
「分かりやすいといえば、可憐ちゃんもそうだね。もうすぐ卒業だっていうのに、悠理が登校拒否をしはじめて、ほぼ同時に、可憐ちゃんがこの僕に相談を持ちかけるんだから。それに、いつも六人で行動していた君たちなのに、野梨子ちゃんだけが妹のところに日参している。いくら鈍い僕だって、悠理と可憐ちゃんの間に何かあったって気づくよ。」
あたしは答えられずに黙り込んだ。
豊作さんは、フロントガラスを見つめたまま、話をつづけている。
「妹は乱暴者でがさつだけど、ああ見えて、メンタル面はすごく脆いんだ。しかも、天下無敵の馬鹿だから、発想の転換なんか出来るはずもなくて、堂々巡りで悩み続けて、解決方法が見出せない。誰かが強引にでも道を示してやらないと、駄目な奴なんだよ。本当に手間がかかる妹で、申し訳ない。」
妹のことを語る豊作さんの横顔に、優しい色が浮かんだ。

悠理は幸せ者だ。
こんなに心配してくれて、こんなに理解してくれる、お兄さんがいて。

「悠理の周りには、よき理解者がたくさんいます。だから、きっと大丈夫ですよ。」
あたしがそう言うと、豊作さんは、そうだね、と答えて、まだ黙り込んだ。



豊作さんが運転する車は、渋滞に巻き込まれることもなく、無事にあたしの家の前に到着した。
「ありがとうございました。」
礼を言って車を降りようとするあたしの腕を、いきなり、豊作さんが掴んだ。
「可憐ちゃん。」
豊作さんの表情は、怖いくらいに真剣だ。
掴まれた腕に指が食い込み、痛みが走る。
「もしも、君があんな決断をしたのが、妹のせいだったら・・・妹の代わりに、僕が謝るよ。だから、正直に話してほしい。いったい悠理と何があったんだい?」
「悠理のせいで豊作さんに謝ってもらうことなんか、何もありません。」
あたしは豊作さんの腕をそっと外し、運転席に押し戻した。
「悠理は、本当に優しいお兄さんを持ちましたね。悠理を心配する豊作さんを見ていたら、あたしもお兄さんが欲しくなりました。」
ありきたりな褒め言葉で場を誤魔化し、ドアに手をかける。
「話を聞きたいのは、悠理のためだけじゃ・・・」
「じゃあ、今日はありがとうございました。失礼します。」
もの言いたげな豊作さんを振り切るように、あたしは車を降りた。
後ろから、豊作さんの声が追いかけてきたけれど、振り返らずに先を急いだ。
振り返ったら、豊作さんの瞳の中に、それまでとは違う色を見つけてしまいそうで、無性に嫌だった。

足早に植え込みの横を抜け、エントランスに向かって角を曲がる。
角を曲がった瞬間、眼前に立つ人影に気づき、あたしは反射的に足を止めた。


エントランスの前に、悠理がいた。

悠理は、顔を朱色に染め、怒りを剥き出しにして、あたしを睨みつけていた。


「ゆ・・・」


話しかけようとした瞬間、あたしは突進してきた悠理に頬を殴られ、植え込みの陰まで吹っ飛んだ。

 

 

 

back  next

 

Top

Material by fuul in my roomさま