5.
気がついたら、あたしは保健室のベッドに寝ていた。
まだ眩暈がする頭で、記憶を辿ってみたら、余計に具合が悪くなった。
きっと、あのまま倒れたのだろう。誰がここまで運んだのかを考えだけで、頭がずきずき痛みそうだ。
清四郎があたしを抱えているところを見たら、悠理だけでなく、美童や魅録も嫌な気分になるだろう。 今は、誰にも見られていないことを祈るしかない。
腕時計を見ると、すでに二時限目が半ばに差しかかろうかという時刻になっていた。おかげで、校舎の中はとても静かだ。
ベッドはカーテンに囲われているから、室内の様子は見えない。でも、白い幕の向こうから、人がいる気配は伝わってきた。きっと養護の先生だ。
あたしがベッドから身を起こすと、カーテンの向こうにある気配も動いた。静かな足音が、こちらに近づいてくる。あたしが起き上がったのに気づいたのだ。
手櫛で手早く髪を整え、先生を待つ。 だけど、開いたカーテンの先から現れたのは、先生ではなかった。
「大丈夫ですか?」
清四郎だった。 予想もしていなかった清四郎の登場に、驚きのあまり、言葉が出なくなる。
清四郎は、ベッドの縁に腰かけ、困ったように微笑んだ。 「今度は、振り払わないでくださいね。」
そう言うと、彼はあたしの頬にそっと触れた。 少し冷たい掌が、眠って温まった頬に、心地よい。
「顔色もずいぶん良くなりましたね。頬も温かくなりましたし、もう大丈夫です。」 あたしを見つめながら、清四郎が優しく微笑む。
あたしはまともに清四郎の顔が見られなくて、そっと目を逸らした。 「・・・先生は?」
「出張中だそうです。本当は保健室も閉まっていたんですが、特別に開けてもらいました。僕は、可憐の付き添いを名乗り出て、公然とサボタージュです。」
さすがは無敵の生徒会長だけある。後輩に地位を譲ったといっても、権限は変わらないようだ。
清四郎が、当然のようにあたしの背中を抱き、ゆっくりと引き寄せる。 「辛い想いをさせて、済まない・・・」
清四郎の手が、あたしの髪を撫ぜる。
こんなふうに優しく髪を撫でられたのは、はじめてベッドを共にして以来だったので、あたしは清四郎の手を振り払うことが出来なくなってしまった。
静寂に包まれていると、二階から、振動と一緒に、ガタガタと大きな音が響いてきた。
机を移動させているのだろうか?その音が、あたしに正気を保てと訴えている。
清四郎の優しさは、まやかしだ。彼は、言葉ほども、あたしを想ってくれていない。このまま流されたら、あたしは完全に悠理と合わせる顔を失ってしまう。
もう、潮時―― なのだろう。 あたしたちの関係は、誰も幸せにしない。
このまま関係を続けていたって、清四郎も、あたしも、苦しむだけだ。
清四郎のくちびるが、あたしのくちびるに重なった。
最初は優しかったキスが、徐々に激しく、貪るようなものへと変わる。
これが最後のキスになるかもしれないと思ったら、いくら舌を絡ませても、物足りなかった。
たとえ、ふたりの胸に去来する感情が、まったく違うものであったとしても、今、この瞬間が、泣きたいくらい愛しかった。
二階から響く音に紛れてしまうのをいいことに、淫らな音をさせて、キスを繰り返す。 気がついたら、あたしはベッドに押し倒されていた。
くちびるが離れ、清四郎が至近距離からあたしの瞳を覗きこむ。 「・・・さすがに、ここでは事に及べませんね。」 「当たり前でしょ、馬鹿。」
清四郎と見つめ合っているだけで、涙が溢れてきそうだ。あたしは清四郎の胸を押し退け、そっぽを向いたまま、ベッドから上半身を起こした。
「もう大丈夫だから、教室に帰って。」 俯いた視界に、清四郎の手が入る。その手はシーツの上に置かれ、重量のぶん、マットが沈んだ。
「この前は、美童と魅録にこってり絞られましたよ。これ以上、可憐を泣かせたら許さない、ってね。」
清四郎の顎が額に乗せられ、低い声が、前髪にかかった。 彼の優しい仕草に、脆い決意が早くも崩れはじめ、ぎゅっと眼を閉じる。
「言い訳になるかもしれないが、僕は、可憐のことを、性欲の捌け口とか、セックスフレンドとして見たことは、一度もありません。」
これは、卑怯で不誠実な男の、常套文句だ。 だから、あたしよ。早く、この苦しいだけの恋を、捨ててしまえ。
あたしは眼を開けて、顔を上げた。 清四郎の端正な顔が、間近にある。
「可憐・・・可憐は、僕にとって・・・」
「清四郎・・・」
搾り出すように彼の名前を呼んだ、そのときだった。 視界の隅、僅かに開いたカーテンの隙間で、何かが動いた。
「・・・悠理!?」
見えたのは一瞬だったけれど、特徴のある、ふわふわの猫っ毛を、見間違えるはずがない。
あたしの視線を追った清四郎が、弾かれたようにベッドから飛び降りる。 そして、勢いそのままにカーテンを掴んで、千切れそうなほど強く横に引いた。
無機質な白いカーテンが、ふわりと空気を孕んで、大きく揺れた。
その向こう側から現れた悠理の顔は、完全に血の気を失い、真っ青になっていた。
保健室の空気は、少しでも動いたら肌が切れてしまいそうなくらい、張り詰めていた。
あたしも、清四郎も、悠理を見つめたまま、動けなかった。 この期に及んで、ふたりとも何が起きたのか理解できなかったのだ。
悠理は、大きな瞳をさらに大きく見開いて、あたしと清四郎の間で、視線を泳がせた。 「あ、あの・・・あたい、可憐が心配で・・・」
「・・・ゆ、ゆうり・・・」 清四郎が呻くように悠理の名を呼ぶ。 名を呼ばれた悠理は、びくりと肩を震わせ、後ずさりした。
どうして、悠理がここに? そして、いつからここに? まさか―― ずっと話を聞いていた?
すべてを理解した瞬間、全身から血の気が引いた。 とにかく否定をしなくちゃならない。悠理に知られてはいけない。
これ以上、誰も傷つけたくない。 「悠理・・・違う、違うの・・・」 何を言っているのかも分からないまま、悠理に向かって、違う、と繰り返す。
悠理がこちらを向き、眼と眼が合った。 あたしを見た途端、悠理の顔が、かあっと赤くなり、瞳いっぱいに涙が盛り上がった。
その表情が、あまりにも切なくて、あたしはもう何も言えなくなった。 「お邪魔しました!」
悠理はそう叫ぶと、踵を返して、保健室から飛び出した。 「悠理!!」 あたしと清四郎の声が重なる。
清四郎が、悠理を追おうと、走り出した。 だけど、駆け出した足は、二歩進んだところで、止まった。
悠理の走り去る足音が、どんどん遠ざかっていく。 清四郎は、その場に力なく座り込み、綺麗に整えた髪を乱暴に掻き毟った。
「・・・くそっ!!」 こちらに向けられた背中から、清四郎のやるせなさが伝わってくる。
あたしはシーツを両手で掴み、清四郎の背中に向かって叫んだ。 「何やっているの!?早く追いかけるのよ!早く!」
だけど、清四郎は動かない。立てた膝に顔を埋めて、完全に脱力している。 悠理の足音は、もう聞こえない。早く追いかけないと、間に合わなくなる。
「清四郎っ!」 苛立ちが、あたしの中で爆発した。
「悠理はね、あんたのことが好きなの!好きなくせに、いつもあんたの隣にいる野梨子と比較されるのが怖くて、正直になれないだけなのよ!」
二週間前の、あの日。
授業と授業の合間の、短い休憩時間に、忘れ物を取るために生徒会室へ向かったあたしは、そこで偶然、悠理を見た。
生徒会室があるのは、四階の端で、生徒も、先生も、滅多に前を通らない。
僅かに開いたドアを不審に感じ、そっと中を覗いたあたしは、最初、悠理が何をしているのか、分からなかった。
悠理は、清四郎の椅子に座り、声を殺して泣いていた。 あたしが見ているとも知らず、悠理は嗚咽混じりに清四郎の名を呟いていた。
何度も、何度も。繰り返し、繰り返し、清四郎の名前だけを。 その姿は、いつもの豪快な野生児ではなく、儚げな少女にしか見えなかった。
そのときになって、あたしはようやく理解した。
悠理も、あたしと同じように、清四郎が、好きなのだと。
清四郎が、緩慢な動作で振り返った。 見開いた瞳に、驚愕を浮かべながら。 「・・・な・・・何を・・・」
いつもは自信に漲る声が、酷く掠れて、上ずっていた。 そんな声すら苛立たしくて、あたしは叫んだ。
「何をじゃないわよ馬鹿!悠理はあんたが好きなの!早く追いかけなさいよ!!」
「でも・・・悠理は・・・僕なんかとは、気持ち悪くてつき合えないと・・・」
「だから言ったじゃない!あの娘は、野梨子と比べられるのが怖いの!あんたには、自分なんか似合わないって、諦めているのよ!」
何を言っても動こうとしない清四郎がもどかしくて、枕を投げつける。 「行けって言っているのが分からないの!?この馬鹿!」
あたしの絶叫が部屋じゅうに響いたあと、重苦しい沈黙が訪れた。
「・・・くっ・・・」
しばらくの間、呆然としていた清四郎が、突然、笑い出した。 さも可笑しげに、声をたてて笑っている。
「笑っている暇があるなら、悠理を追いかけなさいよ!」 ベッドの上に、投げつけられそうなものは、何も残っていない。
口惜しくて、もどかしくて、ものをぶつける代わりに言葉を投げつけた。 「お願いだから追いかけて!お願い!清四郎っ!」
いくらあたしが叫んでも、清四郎は立ち上がろうとはしなかった。
清四郎の笑い声は、徐々に小さくなって、最後には、咽喉を詰まらせたような音に変わった。 まるで、泣いているみたい。
けれど、清四郎はまだ笑っていた。 清四郎が、ゆっくりと視線を上げる。 上目遣いであたしを見て、片方の口角を上げて、くっ、と笑う。
「・・・追いかけたところで、何になる?」 皮肉な笑み。だけど、眼はまったく笑っていなかった。 「だって、悠理はあんたが好きなのよ!」
「だからこそ!」 清四郎の顔から笑みが消え、その下に潜んでいた険しさが、剥き出しになる。
「だからこそ、追いかけられないんじゃないか!!」 凶暴な瞳が、こちらに向けられた。
あまりの激しさに、あたしは清四郎を見つめたまま、竦んでしまった。 「・・・もう、お仕舞いなんですよ。」
掠れ切った、低い声が、彼の絶望をそのまま表していた。
痛いほどの静寂の中、あたしはベッドから降りて、立ち上がった。
「清四郎が追いかけないなら、あたしが追いかけるわ。」 清四郎は動かない。床に座ったまま、俯いている。 「・・・意気地なし。」
あたしは捨て台詞を残し、清四郎を振り返りもせずに、保健室から出た。
廊下に立ち、悠理の足音が消えた方向を眺めてみたけれど、もちろん誰の姿もない。
突き当りまで走って、左右の通路を確かめても、やはり悠理はどこにもいなかった。
チャイムが鳴り、静かだった廊下に、生徒たちと一緒にざわめきが戻ってきた。 行き交う学友の間を擦り抜けて、悠理の姿を探す。
途中で何度も男子生徒たちから声をかけられたけれど、あたしは返事もせずに、先へ、とにかく先へと進みつづけた。
ふたたびチャイムが鳴り、生徒たちが一斉に教室へと戻る。
悠理のクラスは、次は音楽室で授業を受ける。もしかしたら、無人になった教室に残っているかもしれない。あたしはUターンして、逆方向へ走り出そうとした。
だけど、方向転換をした途端、酷い眩暈が襲ってきた。
足から力が抜け、崩れるように蹲る。左肩を壁に押しつけて、何とか身体を支えたけれど、少しでもバランスを崩したら、すぐに倒れてしまいそうだ。
眩暈だけでなく、吐き気までこみ上げてきた。掌を当てた額は、水をかけたように冷たい。貧血で倒れたことも忘れて、いきなり走り回ったから、具合が悪くなって当然だ。
壁に凭れたまま、くちびるを噛み締める。 後悔と口惜しさが、後から後から湧き上がってきて、涙まで溢れてきそうだ。
ベッドの上で抱き合ったあたしたちを見て、悠理はどう思っただろう? あたしたちの会話を聞いたら、嫌でもどんな関係か分かったはずだ。
清四郎と悠理は、両想いなのに。 あたしがいるせいで、ふたりは幸せになれないんだ。
―― もう、お仕舞いなんですよ。
清四郎が吐いた、諦めの言葉が、頭の中でこだまする。 そうだ。手遅れなんじゃない。清四郎の言うとおり、もう、お仕舞いなんだ。
悠理が最後に見せた泣き顔と、清四郎の狂った笑顔が、瞼の裏に現れては消えていく。 最低で最悪の幻灯機だ。こんなもの、見たくなんかなかった。
あたしは、もっとも残酷な方法で、悠理を裏切り、清四郎を追いつめた。 いちばん大事な友人を、大好きな人を、不幸になんか、したくなかったのに。
あたしは廊下に蹲ったまま、顔を手で覆い、呟いた。
「・・・ごめんなさい・・・」
やっぱり、あたしは魔女だ。
清四郎を好きでいればいるほど、不幸を撒き散らしてしまう。
悠理の姿は、その日以来、学園から消えた。
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