4.

 

 

翌日。
朝起きて、鏡を覗いたあたしは、あまりにも酷い顔が映っているのを見て、可笑しくなった。
ここ最近、ロクな食事もしていないうえに、昨夜は一睡もしていないのだから、酷い顔になるのが当然だ。
かさかさに乾いた肌に、土気色の顔。
このまま心労が重なったら、一気に百歳のお婆さんみたいな顔になってしまうかもしれない。もしも、そうなったら、まさしく魔女ではないか。
純真で、真っ白な心を持った娘に嫉妬し、彼女の大事な恋に、呪いをかける魔女。
ずいぶんと後ろ向きの思考だ。こんなことを考えていたら、もっと酷い顔になる。
今日が休日で良かった。こんな顔で学校など行けるはずがない。
あたしは溜息をひとつ吐くと、化粧台からとっておきの美容液マスクを出して、疲れ切った顔にぺたりと貼った。

パックをしたまま、カモミールティを淹れていると、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
やっとで清四郎から連絡がきたのかと思い、急いで携帯電話を取り出す。
だけど、液晶画面に表示されていたのは、清四郎ではなく、美童の名前だった。


数秒の間、出ようか出まいか、躊躇する。
ここで電話に出なくても、明日には学校で顔を合わせなくてはならないのだ。嫌なことは、早めに済ませておくほうが、ダメージも少なく済む。あたしは思い切って通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「可憐?今、忙しい?」
「ううん、別に。」
コンロにかけたケトルから、白い湯気が吹き出しはじめた。
「昨日のことなんだけど、今、話していいかな?」
あたしは何も答えずに、華奢な注ぎ口から噴出する湯気を見つめていた。
「本当は、会って話をするべきだろうけど、さすがに顔を合わせながら喋るのも、どうかと思ってさ。」
白い湯気の向こうに、昨日、あたしを見て、哀しげに顔を歪めた美童の姿が浮かんだ。
「昨日は、あれからずっと清四郎と話し合っていたんだ。結局、魅録と僕で、一方的に清四郎を責めるかたちになっちゃったけど。」
らしくもない、掠れた声。
美童も、どう話していいのか、迷っているのだ。
話すなら、今だ。
「・・・清四郎は、悪くないわ。」
ケトルがしゅんしゅんと音を立てて、真っ白い湯気が空気中に広がっていく。
「悪いのは、ぜんぶ、あたしなの。清四郎が苦しんでいるのをいいことに、お酒をたくさん飲ませて、酔っ払ったところを、誘惑したんだから。だから、責めるなら、あたしを責めるべきよ。」
しゅんしゅんという音が、携帯電話の間に流れる沈黙を重くする。
「・・・可憐は悪くないよ。」
「違う!あたしが悪い!」

真っ白い湯気。息が苦しい。
蒸発した水分が、気管に詰まっていくみたい。

「・・・あたしが・・・悪いの・・・」
あたしは呻くように言うと、ぎゅっと眼を瞑った。
また、携帯電話の間に、重苦しい沈黙が流れた。
すう、と美童が息を吸う音がした。

「清四郎は・・・ずっと前から、可憐の気持ちを知っていたんだ。悠理に告白する前から、ずっとね。」

しゅんしゅんと音を立ててお湯が滾り、蒸気が膨れ上がる。

「確かにさ、恋は苦しいものだよ。でも、苦しいからって、想いを寄せてくれる人を利用するような真似は、許されないよ。」

湯気のせいで、息が苦しい。
こんなに苦しいなら、いっそ、煮え滾る湯をぶちまけてしまおうか。

「清四郎は、男として、やっちゃいけないことをしたんだよ。」

馬鹿みたい。
あたしは、今、髪をひっつめて、ボロボロの顔に、パックシートを貼りつけている。
服といえば、ノンブランドのTシャツと、裾のレースがほつれかけたスパッツだ。
こんな格好で泣くなんて、末代までの恥じゃないか。

あたしは泣き声が出ないよう、咽喉に力を籠めながら、美童に語りかけた。
「だから、何なのよ。あたしは自分でこうなることを望んだの。あたしも、清四郎も、今の関係に満足しているんだから、良いじゃない。」
沈黙。立ちのぼる湯気が、視界を白くする。
「・・・それ、本気で言っているの?」
「当たり前よ。」
「可憐はいつまで経っても上手に嘘が吐けないね。満足していたら、ちゃんと食事もとれるし、悠理と眼を合わせられるはずだよ?何より、今、泣いているのが、満足していない証拠じゃないか。」
あたしは白い湯気を睨みつけ、低い声で言った。
「ちゃんと満足しているわ。もう、放っておいてよ。」

満足なんか、しているはずがない。
確かにあたしが求めていたのは、お金持ちで、美形で、高いステイタスを持った、いわゆる清四郎みたいな男だった。
でも、清四郎は、あたしがもっとも求めているものを、くれはしない。
あたしを、あたしだけを、盲目的に愛してくれる、心を。
咽喉から手が出るほど欲しいものが得られないのに、満足できるはずがない。
だけど、それを声に出して誰かに伝えたら、負けを認めてしまうようで、怖かった。

電話の向こうから、美童の静かな呼吸音が聞こえてくる。
何を言えば、あたしの心を変えられるのか、考えているのだろう。
何を言ったとしても、無駄だというのに。

しばらくの沈黙のあと、美童は静かに言った。
「可憐は、エネルギッシュで、プライドが高くて、上昇志向の塊だったはずだよね?いつの間に、そんなに弱くなったんだよ?」
「・・・うるさいわね。あんたには関係ないでしょ。」
「それに、僕が知っている可憐は、自分に靡かないと決まっている男には、無駄な時間や労力をいっさい使わないはずなんだけど。」
美童の言葉が、痛かった。
本当に、そのとおり。いつものあたしなら、あたし以外の誰かを愛している男なんか、こっちから願い下げのはずなのに。
なのに、清四郎には、どうして無様にしがみついているんだろう?


あたしはコンロに手を伸ばして、スイッチを捻り、火を消した。
ケトルの中で、くらくらと湯が滾る音が、小さくなっていく。
「・・・逆に言わせてもらうけど、あたしが知っている美童は、もっと女に優しいわ。」
「僕が、女性が傷つくのに我慢ができない性格なのは、知っているだろ?」
「あたしは傷ついてなんかいないわ。」
喧嘩を吹っかけるような口調で言い返すと、電話の向こうから、小さな溜息が聞こえた。
「傷ついているから、泣いているんだろ?」
美童に気づかれないよう、携帯電話を少し離して、深呼吸をする。
すると、ぼやけていた視界が、少しだけクリアになった。
これでいい。パックしたまま泣くなんて、不恰好にも程がある。
「何回も言わせる気なの?あたしは傷ついてなんかいなし、泣いてもいないわ。」
また、沈黙。
その中に、美童の諦めが混じっている気がした。
「そんなに清四郎を庇いたいなら、可憐の好きなようにすれば良いよ。だけど、これ以上、可憐が傷つくようなことがあったら、僕たちは絶対に清四郎を許さないから。」
美童はそう言うと、電話を切った。

僕たち―― 美童が最後に告げたその言葉に、眩暈が起きそうになった。
あたしは、崩れるようにダイニングの椅子に腰を下ろすと、テーブルに突っ伏した。
一日がはじまったばかりなのに、もう、酷く疲れてしまっていた。

悪いのは、すべてあたしだ。
悠理の気持ちを知ってもなお清四郎にしがみついている、醜い女が、すべての元凶なのだ。
あたしがいなければ、美童や魅録だけでなく、豊作さんにだって、心配をかけずに済んだのに。

やっぱり、あたしは魔女だ。
そう考えただけで、心が潰れてしまいそうだ。


清四郎の声が聞きたい。清四郎に会いたい。
清四郎に抱かれて、僅かな間でも、すべてを忘れてしまいたい。


だけど、今のあたしには、清四郎に電話をする勇気すら、残っていなかった。





清四郎からメールがきたのは、その日も夜が更けてからだった。

―― 大丈夫だから、可憐は何も心配しなくていい。

短い文面。
まるで不誠実な男が吐く、その場限りの言い訳みたいな台詞に、あたしは思わず笑ってしまった。
仕方がない。今の関係で、清四郎に誠実さを求めるほうが間違っているのだから。
笑っているうちに哀しくなり、あたしは空っぽの胃を守るように背中を丸めて、眠りに落ちた。

見た夢は、案の定、悪夢だった。


翌朝、寒さに身を縮ませながらカーテンを開けると、外は一面の雪で真っ白になっていた。
二月も下旬。そろそろ春の便りを聞きたいところなのに、季節はしつこく冬真っ盛りらしい。
雪景色は綺麗だけど、こうも寒いと、学校へ行く気もしない。
もちろん、寒いだけが、学校へ行きたくない理由って訳じゃないけれど。


のろのろと支度をして、雪の中、学校を目指す。
冷え切った手足に感覚はないし、朝食代わりのサプリメントが、いつまでも胃に残っていて、気分が悪くなりそうだ。電車に乗れば乗ったで、送風口から吹き出す熱風のせいで具合が悪くなり、吐き気がこみ上げてきた。

限界が迫ってきたところで、やっとで学園最寄りの駅に着いた
ふらふらしながら駅を出て、何とか学園に到着したまでは良かった。
昇降口に入ったら、いきなり、目の前に清四郎と野梨子の姿が眼に飛び込んできて、僅かな間だけど、心臓が完全に停止した。

立ち竦むあたしに気づいて、清四郎が振り返る。
「おはようございます。」
何ごともなかったかのような、完璧な微笑が、あたしに向けられる。
その微笑を見た途端、美童の言葉が甦った。

―― 苦しいからって、想いを寄せてくれる人を利用するような真似は、許されないよ。

あたしは、強張る頬を強引に持ち上げて、清四郎と野梨子に、おはよう、と明るく挨拶をした。
「可憐、顔色が優れませんわ。無茶なダイエットは身体に悪いですわよ。」
あたしを見るなり、野梨子が眉を顰めた。
「ダイエットじゃないわ。電車の暖房がきつくて、気持ちが悪くなっただけ。」
肌が干乾びていることまで指摘されたくなくて、顔をマフラーに埋めて隠し、靴を履き替える。
「酷いようだったら、保健室で休んでいたほうがいいですよ。」
清四郎の気遣わしげな声が、頭上から聞こえた。

顔を上げると、清四郎の端正な顔が間近にあった。
ベッドの中では、もっと近くから見ているはずなのに、何故か酷く緊張した。
「外の空気を吸ったから、もう平気よ。」
あたしはそう答えると、急いで清四郎から離れて、野梨子に駆け寄った。

清四郎を間近で見て、どうして緊張したのか、理由はすぐに分かった。
優等生面して、きっちり制服を着こなした清四郎と、ベッドの中で熱い息を吐く清四郎が、あまりにも違いすぎるからだ。
いつの間にか、あたしの中の清四郎は、慇懃無礼な生徒会長ではなく、熟し切ったオスに変わっていたのだ。

どうしよう。
どんなに努力しても、どんなに忘れたくても、あたしは清四郎を友達とは思えない。
それはつまり、元の関係には、戻れないということだ。

もう、すべてが手遅れなんだ。

あたしも、清四郎も、悠理も、昔と同じようには、笑えない。


突きつけられた現実に、眩暈がした。吐きたくても、胃の中は空っぽだ。
「可憐?本当に大丈夫ですの!?」
野梨子があたしを支えようとして、背中に手を回してきた。小柄な野梨子を押し潰す訳にもいかず、必死に踏ん張って、何とか体勢を整える。
「平気平気。ちょっと、よろけただけ。」
額に冷たい汗を滲ませながら、作り笑いを浮かべていると、横から清四郎が手を伸ばしてきた。
「可憐、無理はしないほうがいい。早く保健室に―― 」
「触らないで!!」
反射的に、あたしは清四郎の手を振り払っていた。

ぱん、と派手な音がして、周囲にいた生徒の眼が、いっせいにあたしたちへと注がれる。
呆然とする清四郎。驚いたまま固まっている野梨子。
我に返ったあたしは、その場を取り繕うために、妙に明るい声で叫んだ。
「やだぁ!清四郎ったら、急に触ろうとするんだもの!吃驚するじゃない!」
笑いながら、清四郎の肩を叩こうとしたけれど、急に世界がぐるぐると回りだし、伸ばした手は、宙を掴んだ。

「可憐!」

野梨子の悲鳴が、やけに遠くで聞こえた。

 

 

 

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