2.

 

 

清四郎の家を出たあたしは、野梨子が住む隣家を避け、道を大きく迂回しながら、表通りに向かった。
けっこうな遠回りになるけれど、顔見知りに会うのは、やはり具合が悪い。白鹿の門下生の中で、あたしの顔を知っている人間は多い。あたしは誰にも見つからないよう、風を切るかのような勢いで、大股に道を進んだ。

季節は冬。二月の風は、頬が切れそうなほど冷たい。息を吸い込むたびに、咽喉の粘膜がひりひりした。

進みながら、ふと、誰のために急いでいるのか分からなくなった。
あたしは、好きな男と寝ていただけだし、その男は、妻帯者でも、恋人がいる身でもない。誰に見つかっても疚しいことはないはずだ。だけど、それでもあたしは、足早に歩きつづけた。

地下鉄に繋がる階段の途中で、電話が鳴った。
一瞬だけ、清四郎かと期待して、すぐにそれを打ち消した。
期待して、それが無駄に終わったとき、惨めな想いをするのは、あたし自身だ。
なのに、サブウィンドウに表示された名前が清四郎でないと分かった途端、酷く落胆してしまうのだから、あたしはどこまで愚かなんだろう。


七色に点滅するサブウィンドウに浮かんでいたのは、意外な人物の名前だった。
不審に感じながらも、携帯電話を開いて通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「ああ、可憐ちゃん?」
携帯電話から漏れてきたのは、馴染みはないけれど、聞き覚えのある声。
「豊作さんですか?」
聞き返すと、電話の向こうから、豊作さんの安堵した様子が伝わってきた。
このひとは、異性に電話をすることに、あまり慣れていないのかもしれない。
電話口から伝わってくる気配に、なんとなく、そう思った。
「急にごめんね。実は、妹のことで相談があるんだ。夕食をご馳走するから、今から会えないかな?」

悠理のことで、相談。

心臓が、どきんと鳴った。

動揺しているのを悟られないよう、はきはきとした声で、OKだと伝える。
豊作さんは、ほっとした声で、ありがとう、と言い、待ち合わせの場所と時間を打ち合わせはじめた。
待ち合わせについては、豊作さんに一任し、約束が決まったところで電話を切った。

さすがに制服では不味いだろう。頭の中で時間を計算し、急いで家へ戻ることにした。
地下鉄の中で、窓ガラスに映った自分の姿を、ぼんやりと眺める。
窓ガラスの中のあたしは、さっきの清四郎と同様に、望みのない恋に疲れた顔をしていた。



指定された時間にレストランへ行くと、この寒い中、何故か豊作さんは入口の前に突っ立っていた。
「どうして中に入らないんですか?」
あたしが怪訝な顔で尋ねると、豊作さんは、照れくさそうに笑った。
「このへん、似たようなレストランがいっぱいあるだろう?可憐ちゃんが、店を間違えないよう、目印になっておこうかと思ってね。」
馬鹿みたいだ。レストランを間違えたとしても、予約の名前を確かめれば、この店じゃないと分かるし、第一、このあたしがレストランを間違えるようなヘマをするはずがない。

そう思っているのが顔に出たのか、豊作さんが、あたしを見て苦笑した。
「なんて言うのは冗談で、本当は、レストランにひとりで入るのが、苦手なんだよ。」
口元に手を当てて、こっそり告げる豊作さんの姿に、あたしは思わず笑ってしまった。
将来は、剣菱財閥を背負って立つべき人が、レストランにひとりで入れないなんて。
こういう純朴な人がお兄さんだから、悠理も伸び伸びと自由に育ってこられたのかもしれない。


豊作さんにエスコートされながらレストランへ入り、予約してあったテーブルに着席する。
まずは料理を楽しみましょう、と豊作さんが提案したので、あたしは微笑みながら頷いた。
だけど、次々と運ばれてくる皿よりも、相談の内容のほうが気になってしまい、美味しい料理もまったく咽喉を通らない。豊作さんには申し訳なかったけれど、料理のほとんどを残してしまった。
約束する直前に、友達とパスタを食べてしまったから、なんて苦しい言い訳はしてみたけれど、豊作さんが信じてくれたかどうかは、分からなかった。

豊作さんが、いよいよ話を切り出したのは、デザートが運ばれてきて、すぐだった。
「先に言っておくけど、本当は、悠理のことで呼び出すなんて、シスコンだと誤解されそうで、僕も不本意なんだ。だけど・・・あいつ最近、様子がおかしくてね。父や母も心配しているんだけど、ほら、あいつ頑固だろう?僕たちが何を聞いても、理由を言わないんだ。」
デザートに手をつけようともせず、豊作さんは、真剣な顔で、あたしを見た。
「・・・可憐ちゃん、何か思い当たることはないかな?」

真剣な瞳だった。
まるで、すべての原因があたしにあると、見透かしているかのような。

あたしは、強張る頬の筋肉を強引に持ち上げて、笑顔を作った。
「いいえ、何も。学校では、いつもと同じですよ。」
「本当に?」
「ええ、本当に。」

同じじゃない。清四郎に告白されてから、悠理はずっと心ここにあらずといった様子だった。
だけど、あたしの心は、ひたすらに清四郎のほうを向いていたから、悠理の様子がおかしいことに気づいていても、思いやることまではできなかった。
あの日以来、悠理は、あたしや野梨子に過剰なほど甘えていたというのに。
あのとき、あたしがもっと悠理に気を配っていれば、罪悪感に苦しむこともなかったのかもしれない。

沈黙が怖くて、あたしは豊作さんに話しかけた。
「悠理の様子がおかしいって思いはじめたのは、いつからですか?」
「二ヶ月くらい前かな?いきなり暴れ出したかと思えば、急に泣きはじめたり、食事の時間になっても部屋に篭って出てこなかったりするんだ。おかしいだろう?」

二ヶ月前といえば、清四郎が、悠理に告白した時期だ。
あのとき、悠理は全身で清四郎を拒絶した。
清四郎となんか、気持ち悪くて、付き合えないと。
清四郎と付き合うくらいなら、死んだほうがマシだと。
あたしたちの目の前で、悠理はそう言ったのだ。

悠理に拒絶された清四郎は、酷く傷つき、打ちひしがれていた。
そんな彼を見たくなくて、とにかく慰めたくて、あたしは―― 

豊作さんは、あたしの様子をじっと窺っている。
あたしと清四郎の仲に、彼が勘づいているはずはない。第一、彼は、妹に好きな男がいることすら知らないのだ。
それに、あたしは、本来、罪悪感なんて抱かなくても良いはずじゃないか。

そうだ。
あたしが清四郎と寝たのは、ただ、彼が傷ついているのに耐えられなかっただけ。
そして、たとえ心が手に入らなくても、このままずっと関係を続けていたいと、願っているだけ。

あたしは、ただ、清四郎が。

清四郎が、好きなだけ。

なのに―― 胸に重くのしかかる、この罪悪感は、何なのだろう?


「可憐ちゃん。もしかして、君も悩んでいるのかい?」


豊作さんの優しい言葉に、はっとした。
弾かれるように顔を上げると、目の前に、優しくて穏やかな微笑があった。
「僕で良ければ、いつでも話は聞くよ。僕も悠理の話を聞いてもらったし、それでおあいこになるだろう?」
優しい笑顔に、心が挫けそうになる。
優しくされたら、洗いざらい本当のことをぶちまけたくなってしまう。
だけど、そんなことは許されない。許されるはずがない。
あたしは、豊作さんに向かって、泣き顔で笑いかけた。
「あたしの心配は無用ですよ。豊作さんは、悠理のことだけを心配してあげてください。」
そう。
だってあたしは、悠理の好きな男と知りながら、清四郎と寝ているのだ。
だから、悠理のお兄さんに心配なんかしてもらったら、余計に後ろめたくなる。

あたしは、ただ、清四郎が好きなだけなのに。
なのに、何よりも重くて、辛い罪を、背負ってしまった。

そんなあたしに、誰かに心配してもらう価値なんて、あるはずもなかった。





昼休み、学食の壁にかけられたメニュー表を一瞥して、あたしは溜息を吐いた。

朝もほとんど食べていないのに、食欲がまったく湧かない。この前までは、昼休みごとにメニュー表と睨めっこして、食べたいものと、そのカロリー量を秤にかけるのに頭を悩ませていたのに、最近はどんな料理も食べたいと思わない。かといって、食べなければ、貧血で倒れてしまう。この時期の、かちかちに冷え切った地面に倒れるのだけは、遠慮したい。
だけど、食べなければと思っても、食欲が湧くはずもなく、仕方なくコーンスープとフルーツヨーグルトを選び、テーブルについた。

使うテーブルは、いつも決まっている。南側の窓に面した、特等席。この席に、一般の生徒は近づいてもいけないというのが、いつの間にか暗黙の了解になっていた。
この、眺めも良く、快適な特等席を使えるのは、学園一の美貌と才能を誇り、同時に、学園きっての問題児である、あたしたちだけなのだ。

テーブルには、すでに友人たちの姿があった。
顔ぶれも、それぞれが座る位置も、いつも同じ。テーブルに並ぶ料理も、それぞれのお気に入りメニューだ。
以前と何ひとつ変わらないように見えるけど、二ヶ月前から、そこに漂う空気は確実に違っていた。
悠理が清四郎を拒絶して以来、ふたりはけっして眼を合わせようとしない。
皆と仲良く談笑していても、絶対にお互いを見ようとはしないのだ。
まるで、禁じられてでもいるように。

「まあ可憐、今日もこれしか召し上がりませんの?」
隣から、野梨子があたしのトレイを覗いて、驚き半分、非難半分の声を上げた。
「あんまり食欲がないの。」
答えながら、コーンスープをひと匙、口に運ぶ。
「お前、最近、すげえ顔色が悪いぞ。無理してでも食え。」
斜め向かいに座る魅録が、麻婆豆腐の皿を差し出したけれど、あたしはそれを押し返した。
「朝晩はちゃんと食べているから、大丈夫よ。」
心配してくれるのは嬉しいけれど、コーンスープとヨーグルトを片づけるのも精一杯だったので、少しだけ嘘を吐いた。

真正面に座っていた美童が、席を立って、あたしのほうへやってきた。
「可憐、ちょっと立ってみて。」
怪訝に思いながらも席を立つと、何故か美童はバンザイをしてみせた。
「こうやってみて。」
「え?なに?」
訳が分からず、うろたえるあたしの手を、美童が掴む。
「ほら。」
何だかよく分からないまま、あたしはバンザイさせられた。
「ちょっと失礼。」
そう言うと、美童はあたしのウエストから、スカートに指を入れた。
「きゃあ!」
「やっぱりね。」
悲鳴を上げるあたしを、美童は横目でちらりと見た。

「何なんだよ、このウエスト。これじゃ、まるで病人だよ?」

はっとして腰を見下ろしてみると、ジャストサイズで仕立てていたスカートのウエストに、美童の指が三本も入っていた。

あたしは身を捩って美童から逃れ、急いで席に戻った。
「こ、今度の彼ったら、スレンダーな女が好みなの!」
「可憐は充分すぎるほど細いじゃん!」
野梨子の身体越しに、悠理が叫ぶ。
「それ以上痩せたら、マジでぶっ倒れるぞ!そんな男、やめちまえ!」
悠理は心配してくれているのに、顔をまともに見ることも出来ない。
これじゃ、清四郎と一緒だ。
あたしは、会話を断ち切るように、大丈夫だから、と何度も呟き、コーンスープを口に運んだ。

皆は、まだ、あたしに向かって、ちゃんと食べろとか、痩せる必要はないとか、小言を繰り返している。
あたしは黙り込んだまま、対角線上に座る清四郎を、上目遣いでちらりと見た。
清四郎もこちらを見ていたので、ばっちり視線が合う。
慌てて視線を逸らし、スープ皿にスプーンを差し込んだところで、清四郎が話しかけてきた。
「・・・可憐の変化に気づかなかったのは、僕だけなんですね。済みません。」
かちゃん。
皿に当たったスプーンが、高い音を立てた。
「・・・あんたが薄情な男だってくらい、とっくの昔に分かっていたから、安心して。」
震えそうになる声を、あたしは必死に絞り出した。


いくら身体を重ねようが、清四郎は、あたしを見ない。

あたしを、見てくれない。


分かっていたはずなのに、いざ現実を突きつけられると、さすがに辛かった。
砂を食べたことはないけれど、口に入れた食物は、まさに砂のような味がした。
何とかスープは飲んだものの、もう、フルーツヨーグルトを食べる気力は残っていなかった。

食べられもしないヨーグルトを、スプーンで延々とかき混ぜながら、あたしは、皆が食べ終わるのを待っていた。
会話に加わりながらも、心ここにあらずのまま、箸を使う清四郎の手を眺めている自分が、何だか酷く滑稽に思えた。

そんなあたしの姿を、美童がじっと観察しているなんて、そのときは、まったく気づかなかった。

 

 

 

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