清四郎が、悠理にふられた。
ずっと胸に抱き続けてきた想いを打ち明けて、その結果、酷い言葉で拒絶されたのだ。
清四郎は、可哀想なほど深く傷ついていた。
だから、あたしは、傷心の清四郎を励ますために、酒を飲みに誘った。
そして―― 彼の痛みを紛らわすために、清四郎と寝た。
清四郎は、まるで狂ったように、あたしの身体を貪った。
その関係は、二ヶ月が経った今も、続いている。
分かっている。清四郎は、あたしのことなんか、何とも思っていない。
だけど、たとえ清四郎が悠理の代わりにあたしを抱いているとしても、構わなかった。
だって、あたしは。
ずっと。ずっと、ずっと。
清四郎が、好きだったのだから。
『魔女のくちづけ』
「可憐!」
名前を呼ばれて振り返ると、廊下のずっと先で、悠理が手を振っていた。
真冬の日差しは低く、陽光は斜めから差す。
窓から差し込む薄日に照らされた悠理は、まるで光の膜を纏っているように見えた。
あたしは笑顔で手を振り返しながら、一昨日、清四郎がつけた、耳の後ろの紅い印を、もう片方の手でそっと隠した。
髪を下ろしていれば隠れる部分だから、濃い色のコンシーラーで塗り込めてしまえば、見つかる心配はない。けれど、悠理を見ると、無意識のうちに手がいってしまう。
悠理はまるで仔犬のように、あたしを目指して真っ直ぐ駆けてくる。
その顔に、憂いなんか、微塵もない。天真爛漫で、子供のままの悠理には、あたしと清四郎が何をしているかなんて、想像もつかないだろう。
―― ねえ悠理。あんたは知らないでしょうけど、清四郎ってクールに見えて、ベッドの中ではとっても情熱的なのよ。
悠理を見るたび、口から飛び出しそうになる悪意。あたしはそれを飲み込み、完璧な微笑を作って、悠理を待った。 「可憐、どこ行くの!?」
悠理が駆けながら聞いてきた。その顔は、僅かに上気していて、子供のままの輝きに満ちている。 「購買部よ。悠理は?」
あたしの返事を聞いて、悠理の顔がさらに輝く。 「あたいも一緒!」 そう言われたら、一緒に行くしかない。
あたしは紅い印とともに、躊躇いを心の奥に隠しながら、悠理と並んで歩きはじめた。
清四郎と寝るようになって、あたしは悠理とどう接していいのか分からなくなった。
清四郎を好きなあたしにとって、清四郎が想いを寄せる悠理は、恋敵だ。
でも、現実に清四郎を満足させているのは、間違いなくあたしであり、悠理じゃない。 そして―― あたしと悠理は、トモダチだった。
過去形ではなく、現在進行形の、トモダチ。 悠理は大好きだけど、時折、たまらなく傷つけてやりたくなる。
悠理が、清四郎の好きな娘だから。それだけで、あたしは悠理に憎しみを抱ける。そう思う自分に気づくたび、あたしは自分が嫌いになる。
あたしの中では、いびつな劣等感と、どす黒い優越感が、友情と一緒に仲良く同居しているのだ。
こんな状況下でも、悠理の前で笑っていられる自分って、けっこう凄いと思う。
購買部で、それぞれ目当てのものを買ったあと、あたしたちは成り行きで、来た道を一緒に戻りはじめた。
戻る途中、すれ違った下級生が、はあ、と溜息を吐いた。 それを聞いた、あたしたちは、何気なく彼女たちの視線を追った。
視線の先には、仲良く並んで階段を昇る、清四郎と野梨子の姿があった。
小さい頃からずっと一緒に育ってきたせいか、ふたりが持つ雰囲気は、とても似ている。それだけじゃない。あの二人は、誰がどう見たって、お似合いの男女だ。内情を知らない者からしてみたら、二人はきっと仲の良い恋人同士に見えるだろう。
「菊正宗先輩と白鹿先輩って、やっぱり付き合っているのかしら?」
「当たり前じゃない!いいなぁ、白鹿先輩。あんなに素敵な彼氏がいるなんて。」
下級生たちの、羨望が籠められた会話に、あたしは苦笑した。
清四郎が野梨子と付き合うなんて、あり得ない。 それこそ、天地が引っくり返ったって、絶対に。
だって、清四郎は、同じ性質の人間と寄り添っていても、心が休まらないことを、ちゃんと知っている。 「馬鹿みたい。」
彼女たちの会話が可笑しくて、あたしは思わず笑ってしまったけれど、隣にいる悠理は、怖いくらいに真剣な表情で、清四郎たちから顔を逸らしていた。
「悠理?どうしたの?」 「え?ああ、別に・・・」 悠理は、いかにも取り繕った笑顔をあたしに向け、大股で歩き出した。
まるで、その場から逃げるように。
あたしは、悠理の後姿に向かって、心の中で声をかけた。
―― 臆病にかられて逃げ回っているうちに、すべてが手遅れになるかもよ?
ううん。もう、手遅れだ。
あたしたちの関係を知ったら、悠理は、けっして清四郎を許さないだろう。 許さない、という表現は、少し意味が違うかもしれない。
悠理は馬鹿だけど、そのぶんピュアで、真っ白だ。
だから、自分を好きだと言っておいて、他の女―― それも、共通の友人と寝るような男を、絶対に受け入れられない。
たとえ、どんなに好きな相手であっても、彼女の真っ白な部分が、清四郎を拒絶するはずだ。
ああ、本当に、どうしてこんなことになってしまったんだろう?
あたしが、悠理も本当は清四郎が好きだってことに気づいたのは、たった二週間前。
それは、あたしと清四郎が寝るようになって、一ヶ月と二週間が経過した頃だった。
もっと早く気づいていれば、いくら好きだからって、清四郎と寝るような真似はしなかった。辛かっただろうけど、ちゃんと、ふたりの仲を応援してあげられた。
どうして悠理は、変なコンプレックスに凝り固まって、清四郎の気持ちをはねつけてしまったんだろう? それが、すべての元凶だというのに。
彼女が自分の気持ちに正直でいてくれたら、悠理だけでなく、清四郎だって、何の憂いもなく幸せになれた。
そして―― あたしは、こんな嫌な女になりはしなかった。
「可憐の胸は、下から見ると、本当に迫力がありますね。」
いつものように清四郎の部屋でセックスをしたあと、ベッドに腰かけてブラに腕を通しているとき、唐突にそう言われ、あたしは赤面した。
「相変わらずデリカシーのない男ね!そんなこと言うなら、いくら頼まれようが、もう上に乗ってあげないわよ!」
怒りながら振り返ると、清四郎は、ベッドの中で、ひょいと片方の眉を上げてみせた。 「これでも褒めたつもりなんですが。」
「本気でそう思っているなら、あんたは最低の男ね。」 ベッドに横たわったまま肩を竦める男に、冷たい視線を浴びせてから、つんと前を向く。
これ以上、こんな馬鹿男に付き合っていたら、身体じゅうの血液が頭に上ってしまう。
知らん振りでブラのホックを嵌め、カップに手を入れて乳房を整える。 その途中、後ろから手が伸びてきて、あたしの腰を掴んだ。
「もう一度・・・しませんか?」 熱い吐息が、肩甲骨のくぼみにかかる。
こんなところにまで性感帯があるなんて、清四郎と寝るまでは知らなかった事実だ。 「駄目よ。もうすぐ小母さまが帰ってくる時間でしょ。」
胸に貼りつこうとする手を軽く叩き、あたしは椅子にかけていた制服を取った。
学校の帰りに、清四郎の家でセックスをするのも、すっかり習慣になった。
小母さまは趣味のスクールに通っていて、週に三回は帰宅が遅い。姉の和子さんは、大学での研究が忙しいらしく、帰宅はいつも深夜になるそうだ。小父さまにいたっては、家より病院で過ごす時間のほうが多いほどらしい。
セックスをするためだけに清四郎の家を訪れるなんて、自分でも馬鹿な女に成り下がったものだと思う。
だけど、清四郎の寂しげな瞳を見ると、どうしても彼の誘いが断れないのだ。
身支度を整えて振り返る。清四郎はまだ裸のままベッドに横たわっていた。
あたしが掻き乱したせいで、髪のセットはすっかり崩れている。額に落ちた前髪の間から、憂いを含んだ瞳が覗いているところが、嫌になるくらい色っぽかった。
清四郎は、あたしが見ているのに気づかないのか、ぼんやりと中空に視線を投げている。
苦しげで、寂しげで、まったく満たされていない瞳に映っているのは、誰の姿だろう? それが、あたしじゃないのは、確実だった。
「・・・ねえ、もしも悠理が、あんたを好きだって言ったら、どうする?」
ぼんやりした瞳が、焦点を結んだ。
僅かに細められた眼が、あたしのほうを向く。
「あり得ない話をして、何になります?」
清四郎は上半身を起こし、背中を丸めたまま、乱れた黒髪を掻き揚げた。 どの動作も、ずいぶんと投げやりだ。
あたしはベッドに近づくと、清四郎を押し倒し、シーツに覆われた腰を跨いで、馬乗りになった。 両手で薄い頬を包み、噛みつくようにキスをする。
清四郎はキスに応えてくれたけれど、心がここにないのは、すぐに分かった。
くちびるを離して、真上から清四郎の顔を見つめる。
普段の優等生面とも、あたしを貪るオスの顔とも違う、恋に苦悩する臆病者の顔が、そこにあった。
あたしは、手を滑らせて、清四郎の左胸を撫でた。 手の甲を裏返し、指を曲げて、清四郎の左胸を、軽くノックする。
「もしもし、そこにいるのは、誰ですか?」 もちろん返事があるはずはない。 だけど、もう一度、ノックしてみる。
「もしもし、清四郎の胸の中に、少しでも、あたしはいますか?」
鼻の奥がツンとして、涙が溢れてきそうになったので、あたしは慌てて清四郎の胸に顔を押しつけた。 清四郎の手が、あたしの頭を優しく撫でる。
「馬鹿なことを、するんじゃない。」 清四郎にとっては馬鹿なことかもしれないけれど、あたしには大切なこと。
週に二回はセックスをして、たまには恋人同士みたいにホテルで甘いひとときを過ごしても、清四郎の胸に住んでいるのは、あたしじゃない。
最初から、清四郎の愛は手に入らないと納得したうえで、彼と寝たはずなのに、こうしていると、どうしても望んでしまう。
少しでもいいから、清四郎があたしを愛してくれていないかと。 「・・・ごめんなさい・・・」
あたしは清四郎の胸に顔を埋めたまま、掠れた声で謝罪した。 彼から重い存在だと疎まれたくはなかったから。
都合のいい、馬鹿な女に成り下がっても、清四郎と離れたくなかったから。
どんなに苦しくて、望みのない恋だとしても。
これが、悠理だけでなく、清四郎をも裏切る行為だとしても。
たとえ―― 世界じゅうの人間から魔女と蔑まれても、もう少しだけ、清四郎と一緒にいたかった。
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