9.
翌日、清四郎が大学に行くと、昨日置き去りにした女の友人たちに、いきなり囲まれ た。 捲くし立てるように文句を言われ、あの娘が可哀想だと、清四郎を責め立てた。 言わせるだけ言わせていると、その中のひとりが、強い口調で命令してきた。 「あの娘に謝りさない!誠心誠意、心の底からよ!」 そうよそうよと同調する女たちに、苛立ちを覚える。 「僕がいくら交際はできないと断っても、しつこく付き纏われた精神的苦痛に対し て、彼女が謝罪をしてくれるなら、こちらも謝りますよ。」 清四郎が吐き捨てるように言い放つと、女たちは一気に殺気だった。 「何それ!?最低!」 「いくらモテるからって、いい気になっているんじゃないわよ!」 興奮して、ぎゃあぎゃあと喚く女たち。まるでカラスの一群だ、と他人事のように 思っていると、そこに思いもよらぬ助け舟が入った。 「清四郎、久し振り!朝から女の子に囲まれるなんて、羨ましい立場だね。」 美童だった。 その後ろには、魅録までいる。 金髪碧眼の美青年が登場した途端、女たちから殺気が消えた。 「この娘たち、清四郎の友達だろ?可愛い娘ばっかりじゃないか。清四郎、コンパを セッティングしてよ!」 さすがの腕前に、清四郎は呆気にとられた。 女たちは、一様に美童をうっとりとした表情で見つめている。その顔に、先ほどまで の鬼気迫る迫力は、微塵もなかった。 女たちが上機嫌で去ったあと、ようやく魅録が近づいてきた。 「お前さんも、大変だな。」 女たちに手を振っていた美童が、振り返って、やれやれと苦笑する。 「清四郎、らしくないね。いつもなら軽くかわすくせに、どうしたのさ?」 「ま、悠理の変貌ぶりを見たら、動揺するのは当然だな。」 清四郎は、友人たちの顔を交互に見た。 「どうして、ここに?」 「決まっているだろ。悠理のこと。」 肩を竦めてみせる美童の隣で、魅録が溜息を吐いた。 「あのまま放っておいて、昨夜みたいなことがあったら、余計に悠理が苦しむから な。」 清四郎の脳裏に、男たちに組み敷かれた悠理の姿が、鮮明に甦った。 悠理は、もがけばもがくほど、自分自身を傷つけている。 そして―― 清四郎をも。 「昨日のカラオケボックスは、あの辺りを仕切っているダチに頼んで、ケリをつけて もらう。グルだったバイト店員をシメれば、悠理をまわそうとした奴らも、すぐに分 かる。」 可憐から聞いたのであろう、魅録は、昨夜の詳細を知っていた。もしかしたら、野梨 子を経由して聞いたのかもしれない。魅録と野梨子が友人の枠を超えたことは、仲間 の誰もが知っていた。 「だが、それじゃあ根本的な解決にはならない。悠理が、自分自身で乗り越えない限 り、昨日と同じようなことは、この先、何度も起きるだろうよ。」 魅録が暗い口調で呟く。 それを引き継いで、美童が溜息を吐いた。 「悠理は、苦い恋の只中にいて、自分の気持ちにどう決着をつけていいのか、分から ないんだよ。元々から器用な娘じゃないしね。かといってさ、自分で自分を傷つける なんて、あり得ないよ。本当に馬鹿だよ。」 二人は、悠理の想い人が誰か知らないはずだ。 だからこそ、清四郎にとって、もっとも酷な言葉を吐いて、清四郎を責めている。 清四郎自身が、今もって悠理を傷つけていると、知らぬままに責め立てているのだ。 清四郎は、黙ったまま、友人たちを見つめていた。 無言の意味を、良いように解釈したらしく、魅録が清四郎の肩を叩いた。 「清四郎も、あいつのあんな姿は、もう見たくないだろ?俺ら男じゃ、野梨子や可憐 みたいに、細やかな気配りはできねえけどさ、何にもしないよりはマシだ。馬鹿騒ぎ して気を紛らしてやるくらいなら、俺らにもできるだろ?」 「僕らにも、できること、ですか・・・」 意味もなく言葉を反芻する。 今さら、清四郎にできることなど、あるのだろうか? 美童が、自慢の碧眼に、空を映した。 「僕らが世話を焼くより、悠理が新しい恋でもして、過去を吹っ切ってくれたほう が、よっぽど効果があるんだけど、あの状態じゃ無理っぽいからね。」 「悠理も吹っ切りたいから、色んな男とつき合ったんだろ。」 魅録の言葉が、清四郎の心臓を貫いた。 悠理は、清四郎を忘れるために、様々な男とつき合っていた。 もちろん、彼らと性交渉もあったはずだ。 清四郎を忘れたいのなら、なおさらそうだったろう。 悠理が、清四郎以外の男に、身体を許しても、恋人でも、今や友人でもない男が、責 めることなどできはしない。 昨夜、グラスを握り締めていたときの感情が、甦る。 同時に、傷つけた掌が、ふたたび鋭く痛んだ。 理由も分からないまま、悠理を抱いた男たちに、激しく嫉妬し、苦悶した夜。 本当に、気が狂いそうなほど、悠理を独占したいのに、清四郎は、今までそれに気づ いていなかった。 悠理は、ずっと傍にいると信じていた。 だから、別れてからの日々が、まるで嘘の世界のように感じていた。 悠理と過ごした時間が原色に彩られているとしたら、今、清四郎を囲んでいるのは、 完全に色を失った、無味乾燥の世界だ。 美童の眼は、まだ空を映している。 「悠理はさ、新しい恋をする前に、踏ん切りをつけなきゃいけないんだよ。未練って いうのは、厄介な感情だもの。前に進むためには、そういう湿っぽい感情をすべて捨 てていかなきゃ、駄目なときもあるからね。」 美童につられて、魅録も空を見上げる。 「つまりは、悠理が気持ちの整理をつけなけりゃ、俺たちが何をやっても駄目ってこ とだよな。」 清四郎は、二人とは逆に、地面に視線を落とした。 「今の悠理は、前にも、後ろにも進めない状態なのですね・・・」 それは、悠理にではなく、自分に向けた言葉だった。 激しい夕立の中、悠理を抱いたとき、そこに確かな愛はなかった。 しかし、悠理はどうだったのだろう? 清四郎と同じように、自分の胸に燻る感情に翻弄され、訳も分からぬまま、身体を開 いたのかもしれない。 だが、今なら分かる。 あのとき、胸を焦がす熱を、相手に伝える方法は、身体から放たれる熱を分かち合う しかなかったのだ。 清四郎は、地面を見つめたまま、掠れた声で、呟いた。 「・・・悠理のためにも、このまま逃げるわけにはいかない・・・」 清四郎と悠理は、違う場所で、同じ雨に打たれている。 雨から抜け出すには、立ち止まったままでは駄目なのだ。 悠理が、雨の中から抜け出すために、清四郎ができること。 清四郎しか、できないことを、してやらなければならない。 友人たちが、今から悠理のところへ行こうと誘ってきたが、清四郎は断った。 美童と魅録は顔を見合わせて、無言のうちに清四郎の冷淡な態度を非難していたが、 仕方ないとでも言うように肩を竦めて、話題を切り替えた。 二人は、悠理のために旅行を企画し、皆で思いっきり馬鹿をやって、彼女を和ませよ うと話し合ってから、帰っていった。 清四郎は、その後姿を見送ることなく、踵を返した。 キャンパスの歩道には、鬱蒼と繁る木々の影が、黒々と落ちている。そこを、自転車 に乗った学生たちが、疾風のように駆け抜け、あっという間に遠ざかっていく。 足早に進む歩道。葉陰から聞こえる蝉噪が、鼓膜いっぱいに響く。 煩い静寂。 そこで、清四郎は気づいた。 自分が無味乾燥した世界に留まっている間に、世間では、蝉の声に包まれる季節が 巡っていたことに。 立ち止まり、楠の巨木を見上げる。 夏の殺人的な日光が、重なる木の葉に濾過され、細かい粒子となって、清四郎の上に 落ちてくる。 「・・・悠理・・・」 自然と、口から悠理の名が零れていた。 「・・・悠理・・・悠理、悠理、悠理・・・!!」 咽喉が裂けそうなほど、大声でその名を繰り返す。 いくら求めても、応える声はないと知っていても、迸る声を止められなかった。 「―― 悠理!!悠理!!悠理!!」 清四郎の絶叫は、圧倒的な蝉噪に吸い込まれ、滅した。 それは、悠理に別離を告げると決意した理性に対して、感情が起こした、最後の反乱 だった。 ********************* 昼を過ぎた頃から、夏空に鉛色の雲が湧きはじめた。 やがて、午後の熱風に、雨の匂いが漂うようになり、街は少しだけ涼やかになった。 清四郎は、曇天の街を、ひとりで歩いていた。 悠理に、別離を告げるために。 魅録たちと別れたあと、可憐にメールを出し、悠理が大学に来ていることを確かめ た。 メールによると、悠理は、異様なほど明るく元気だという。心配をして損をしたと、 可憐は愚痴を零していたが、清四郎には、無理をしてはしゃぐ悠理の悲壮な姿が容易 に想像できて、さらに胸が痛んだ。 悠理は、清四郎が女連れで歩く姿を目撃し、ショックを受けたのだ。 だから、ヤケになって酒を呷り、輪姦されることを予測しながらも、風体良からぬ男 たちについて行った。 あのときの悠理は、もうどうなってもいいと、自暴自棄になっていたのだろう。 瞼の裏に、男たちから服を脱がされていた悠理の、ぐったりとした姿が浮かび上が り、清四郎はぐっとくちびるを噛んだ。 もう、清四郎のために傷つく悠理を見るのは、終わりにしたかった。 そのためなら、もっとも辛い結末が待っていても構わないと、本心からそう思った。 プレジデントの大学部には、何度か足を運んだ経験があった。 高校生の頃、学生のふりをして、面白そうな講義を聴きに行ったり、先輩に誘われ て、あちこちの研究室に顔を出したりしていたのだ。 時刻は午後三時。講義に飽きた大学生たちが、ガラス張りのカフェテラスに屯してい る様子が、外からも見えた。 同じような恰好の学生たちが集まると、それは、巨大な迷彩色だ。無個性な集団は、 ひとりひとりの存在を消滅させてしまう。 そこに、存在感の塊である悠理がいたら、自然と眼がいく。 しかし、若者の群れに、望んだ姿は見出せなかった。 悠理に電話をして、居場所を尋ねるのは簡単だが、そうすれば、彼女は臆病な小動物 のように、逃げてしまうだろう。頼みの綱である可憐や野梨子は、講義の真っ最中 だ。第一、これ以上、二人に頼れば、清四郎と悠理の関係がばれてしまう。 清四郎は責められても構わない。だが、関係が露呈して、悠理がさらに苦しむような ことになるのは、どうしても避けたかった。 悠理が行きそうな場所を巡っていると、高校時代の同級生が、声をかけてきた。久々 の邂逅に、同級生は驚きながらも喜びを素直に表した。彼は、プレジレント学園を捨 てて外の大学を選んだ清四郎に、軽く嫌味をお見舞いしてから、そういえば、と、思 い出したように言葉を続けた。 「剣菱悠理も、変われば変わるもんだよな。女っていうのは、怖い生き物だぜ。」 同級生の何気ないひと言が、胸に刺さった。 痛みを堪えて、平静を装い、彼に悠理の居場所を知らないかどうか、尋ねてみる。 期待などしていなかったが、意外にも、彼は、知っている、と答えた。 「さっき、旧館のベンチに腰掛けて、ぼんやりしていたぜ。」 清四郎は、短く礼を述べると、旧館へと急いだ。 途中で、急ぎ足が駆け足になり、最後は疾駆になっていた。 息を弾ませながら、煉瓦造りの重厚な旧館の前に立ち、悠理の姿を探す。 数え切れないほど抱いた、華奢な姿は、どこにも見当たらない。 よろめくようにしながら、旧館の周りを巡るが、やはり悠理の姿はどこにもなかっ た。 だが、諦めるわけにはいかない。 悠理を雁字搦めにしている呪縛を解けるのは、清四郎しかいないのだ。 「悠理っ!悠理っ!!」 焦燥が、声となって、咽喉から迸った。 「・・・せいしろ・・・?」 小さな声が、頭上から、清四郎を呼んだ。 はっとして頭上を仰ぐと、外階段の踊り場から、悠理が顔を覗かせていた。
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