10.
数秒間、二人は沈黙したまま、見つめ合っていた。 言いたいことは、山のようにあった。 なのに、言葉が出なかった。 見つめ合う二人の間を、時間だけが過ぎていった。 先に言葉を発したのは、悠理だった。 「・・・どうして、ここに?」 清四郎は、からからに乾いた咽喉から、何とか言葉を搾り出した。 「―― 悠理と逢うために、来ました。」 そう伝えてから、勇気を振り絞って、階段を登りはじめた。 一段一段を、しっかりと踏みしめながら、悠理の元へと向かう。 階段を登る清四郎の胸中を、迷いが過ぎる。 悠理を抱いたのは、四ヶ月も前のこと。 いくら決意を固めていようが、彼女を前にして、理性を保つ自信はなかった。 このまま階段を駆け上がって、滾る欲望を、悠理にぶつけたい。 否。悠理のためにも、別離を告げるべきだ。 迷いと覚悟の狭間で揺れながら、清四郎は、階段を登った。 最後の一段を登り、風が渡る踊り場で、悠理と向き合う。 悠理は、今にも泣き出しそうな顔をして、清四郎を見上げている。 今日は、昨日のように濃いメイクをしていない。 そのせいか、昔と同じ悠理と向き合っている気がした。 「・・・二日酔いに、なっていませんか?」 我ながら、間の抜けた質問だと思った。 「・・・あのくらいで二日酔いになるもんか。何だよ、お前。わざわざ説教をしに、 ここまで来たのかよ?」 悠理が、泣き出しそうな顔をしたまま、強がりを言う。 そんな彼女が、いじらしくて、愛しくて、堪らなかった。 抱きしめたい衝動を、必死で殺しながら、悠理と少し距離を取る。 後退りする清四郎に、悠理は何を感じたのだろう? 小さなくちびるが、哀しげに戦慄いたのを、清四郎は見逃さなかった。 泣きだしそうに歪んだ顔を隠したいのか、悠理が俯こうとした。 そのとき、清四郎の右手を覆う包帯に気づいたらしく、弾かれたように顔を上げた。 「・・・それ・・・昨日の怪我?あたいを、助けるために・・・」 「ああ、これは・・・自分の不注意が原因です。悠理が気にする必要はありませ ん。」 右手を後ろに回し、悠理から隠す。 だが、悠理の表情は、先ほどよりもっと歪んでしまった。 「・・・あたいのせいで、ごめん・・・」 「違います!悠理は何も悪くありません!悪いのは・・・すべて、僕です!」 思わず、声を荒げていた。 突然の大声に、悠理が、眼を見開いて驚いた。 清四郎は、荒い呼吸を鎮め、悠理を見つめた。 ふわふわの髪。薄い身体。きめ細やかな肌。純粋な瞳。 汗に濡れる髪。淫猥な身体。愛撫に色づく肌。悦楽に潤む瞳。 どちらの悠理も、清四郎のものだと、信じていた。 そうではなく、信じたかった。 だが、もう―― 彼女を、清四郎から解放してやらなければならない。 どんなに、辛いことであろうとも。 清四郎は、強張る頬の筋肉を強引に上げ、ぎこちなく微笑んでみせた。 「今日は、貴女に別れを告げに来ました。」 突然の告白に、悠理の瞳が、さらに大きく見開かれる。 「僕は、ずっと貴女を苦しめてきました。いくら謝ろうが、謝りきれないのは、分 かっています。でも、このまま放っておいたら、貴女が駄目になってしまう。」 陳腐な言葉の羅列。 こんな言葉では、今の想いを表しきれない。 「悠理・・・お前の気持ちをずっと踏み躙ってきた男など、好きになる価値もありま せん。しかも、僕は、お前の身体を散々弄んだ、酷い男です。憎いのなら、存分に憎 めばいい。憎むことで、お前の気持ちが晴れるなら、僕は本望です。」 胸が、痛くて、張り裂けそうだ。 だが、それでも清四郎は、伝えなければならない。 今の、本当の気持ちを。 「・・・悠理が幸福になるのを、誰よりも祈っています。お前には、ずっと笑ってい て欲しい・・・僕のせいで、苦しんで欲しくない。だから、悠理・・・」 清四郎が願うのは、悠理の幸福だ。 そのために、もっとも必要なことは―― 「僕を、忘れなさい。」 悠理への愛を自覚すると同時に、彼女を雨の中から救えるのは、自分しかいないと、 気づいてしまった。 気づいてしまった以上、別れを告げて、呪縛から解放してやるしかないと思った。 それが、清四郎が悠理のためにできる、最大で唯一の、愛のしるしだった。 ********************* 突然、告げられた別離。 その驚きと躊躇いを表わすかのように、悠理のくちびるが、戦慄いた。 「清四郎の馬鹿野郎!」 そして、絶叫とともに、悠理の手が飛んできた。 ばちんと大きな音がして、清四郎の左頬を、激痛が襲った。 避けようと思ったら避けられたが、清四郎は、あえて避けなかった。 悠理は、大粒の涙を次々と零しながら、清四郎に向かって叫んだ。 「今さら、そんなことを言って何になるんだよ!あたいは、あたいは・・・」 泣きじゃくって、上手に言葉が紡げずにいる姿は、正視できないほど痛々しかった。 清四郎は、悠理を抱きしめる代わりに、血が滲むほど強く拳を握って、俯いた。 悠理が、嗚咽しながら、清四郎を見つめる。 真っ赤になった頬を、涙でぐちゃぐちゃにしながら。 「あたいは・・・もう、お前に振り回されるのは・・・嫌なんだよぉ・・・」 そして、その場に崩れ落ち、膝を抱いて激しく泣きじゃくりはじめた。 「もう、放っておいてよ・・・これ以上苦しくなったら、死んじゃうよぉ・・・」 嗚咽のせいで、声が出せないのか、清四郎を責める言葉は止んだ。 肩を震わせて泣く悠理は、今まで見てきた彼女の中で、もっともか弱くて、小さかっ た。 我慢も、限界だった。 抱きしめて、己が身体で、その細い身体を、脆い心を、守ってやりたい。 もう、膨れ上がる愛情を、どうすることもできなかった。 清四郎は、泣きじゃくる彼女を、心が命じるままに、抱きしめた。 「いやだ!触るな!」 清四郎を振り払おうと、悠理が身を捩る。 だが、清四郎は、離さなかった。 強い力で抱きしめ、動きを封じる。 「お願いですから、泣かないでください・・・!好きな女が自分のせいで泣いている のに、平気でいられる男が、この世にいると思うのですか!?」 腕の中で、悠理の身体が強張った。 「・・・す、き・・・?」 言葉の意味を知らないような、幼い問い。 清四郎は、悠理を抱く腕に、より力を籠めた。 「ええ、悠理・・・僕は、ずっと、ずっと、お前が好きでした。ずっと、ずっ と・・・お前だけを、想ってきました。だから・・・悠理が泣く姿なんて、これ以 上、見たくはありません・・・!」 柔らかな髪に顔を埋めながら、必死に訴える。 すると、悠理は、ひときわ大きくしゃくり上げて、爆発するかのように、叫んだ。 「・・・せいしろーの、馬鹿ぁ!」 そして、清四郎の胸に顔を押しつけ、おんおんと声を上げて泣きはじめた。 まるで、幼い子供のように、感情を露わにして。 清四郎は、悠理を抱いたまま、込み上げてくる愛しさに、意識が眩むのを感じてい た。 どうして―― こんなに愛しい存在を手離してしまったのか。 そして、どうしてふたたび手離そうとしているのか。 泣きじゃくる悠理は、全身で清四郎を求めているのに。 そんな彼女の、真の幸福が、本当に清四郎と決別することなのだろうか? 「・・・悠理。僕が、お前のためにできることは何なのか、教えてください。」 馬鹿な問い。悠理が、涙に濡れた顔を、清四郎に向けた。 「・・・そのくらい、お前にだって分かるだろ?」 涙をいっぱいに溜めた瞳は、夕立の中で見た瞳と同じように、清四郎を欲していた。 ふっ、と、鼻腔に雨の匂いが届いた。 恵みの雨が、熱に浮かされた地面を叩きはじめた。 清四郎は、服の上から、悠理の乳房に触れた。 夕立の中で、はじめて悠理に触れたときよりも、ずっと優しく。 「・・・悠理・・・愛している・・・」 悠理は、自分の乳房を包む手に、己の手を重ねて、潤んだ瞳で清四郎を見上げた。 「・・・なら、忘れろ、なんて、言わないで・・・ずっと傍にいてよ・・・」 訴えるような、縋るような、祈るような瞳が、清四郎を見つめている。 その瞳を見つめながら、清四郎は、思った。 完全なる別離が不可能ならば、ずっとともにいるしかないと。 悠理の望みが、清四郎が傍にいることならば、それを叶えてやるのが、何よりの愛の 証明だと。 清四郎は、悠理の瞳を見つめながら、はっきりと答えた。 「・・・ええ。これからはずっと傍にいます。ずっと・・・悠理が望むままに。」 悠理の瞳から、透明な涙が零れた。 細い雨が、舗道を、木々を、建物を、二人を、しっとりと濡らしていく。 数多の木葉に、数多の雨粒がぶつかり、優しい音を奏でる。 夕立のような激しさも、強さもないけれど、二人を包むこの雨は、ひたすらに優し かった。 清四郎は、悠理にそっとくちづけた。 これまで交わしてきた、貪るようなキスとは、比較にもならないほど優しいキスなの に、今まで体験したことがないほど、快かった。 二人の、濡れた視線が絡む。 悠理の手が、懐かしい愛撫を求めて、清四郎の手を乳房に押しつける。 清四郎は、困ったように微笑んだ。 「困りましたね。これ以上触れていたら、衝動を抑えきれなくなりそうです。今すぐ 悠理を抱いて、何度でも悠理の悦ぶ顔が見たい・・・」 「何度でも?」 「ええ、何度でも。」 臆面のない男の台詞に、悠理は少女らしく頬を赤らめ、俯いた。 俯いた顔から、か細い呟きが漏れる。 「・・・あたいも、今すぐ、清四郎が欲しい・・・」 細い手が、清四郎の腕を、ぎゅ、と掴んだ。 「夢じゃなくて、本物の清四郎が傍にいることを実感して、安心したい・・・」 擦り寄る身体を抱きしめても、悠理の声は、不安げだった。 「僕は、これからずっと悠理の傍にいますよ?」 清四郎が優しく囁くと、悠理は俯いたまま、言った。 「・・・だって、夢の中の清四郎は、朝になったら、消えちゃうから・・・」 その瞳から新しい涙が零れる前に、清四郎は、悠理にくちづけていた。 くちびるを優しく啄ばみ、頬を濡らす涙を吸い上げる。 そして、耳朶にくちびるを寄せて、低く、温かく、囁きかけた。 「そんなに不安なら、明日の朝、僕が消えないことを、確かめてください。」 |