7.

 

 

浮かれた春はあっという間に終わり、慣れない日常がはじまった。

たまに顔を合わせる野梨子が、大学生活の様子を教えてくれたし、男同士で酒を酌み
交わすこともあったので、悠理がどんな日々を送っているのかは、よく伝え聞いてい
た。
だが、皆から聞く悠理の話は、どれも、高校時代の彼女からは想像もつかないもの
だった。

あの悠理が、男をとっかえひっかえ変えして、派手に遊んでいるというのだ。
長くて三週間、短ければ一日で男を替え、彼らとの遊興のために、金を湯水のように
使い、高校時代とは別の意味で有名になっているという。

聞くに堪えない噂が耳に入るたび、清四郎の胸はきりきりと痛み、眠れぬ夜も、数え
切れないほど過ごした。
だが、清四郎に、悠理を諌める資格はない。
無垢だった悠理を女にし、悦楽の限りを教え込んだのは、他の誰でもない、清四郎な
のだから。


しばらくして、清四郎は、同じ学部の女性から、交際を申し込まれた。
その娘とは、言葉を交わした記憶もなかったが、清四郎はその場で申し込みを受け
た。

一緒に昼食を摂り、休日には手を繋いでデートに出かけた。
だが、心はまったく満たされなかったし、彼女に対して、悠理に抱いたような激しい
欲情を覚えることは一切なかった。
だから、彼女には、たまにキスを与えるだけで、身体を求めることもしなかった。

いっこうに手を出さない清四郎に焦れたのか、交際をはじめて一ヶ月で、彼女のほう
から別れを切り出された。
もしかしたら、清四郎が引きとめるのを期待していたかもしれない。だが、清四郎
は、ノートの貸し借りよりも気安く、あっさりと別れを受け入れた。
涙ぐんで走り去る姿にさえ、まったく心は痛まなかった。

「清四郎くんは、最後まで私を見てくれなかったわね。」
彼女が残した最後の言葉に、清四郎は、思った。

自分は、誰とも真剣に向き合えない男なのだと。



七月になって、すぐ。
ふたたび清四郎に交際を申し込む娘が現れた。

前のような面倒を背負うのが嫌で断ったが、その娘は友人からはじめてもいいと言っ
て、食い下がった。
仕方なく了承し、まずは今度の休日、一緒に映画でも見ようということになった。

その日、昼過ぎに待ち合わせをして、二人で映画を見た。
好きだ嫌いだと泣いて喚くだけの映画にうんざりしたが、それを口に出すのも億劫
で、彼女が、楽しかったわ、と話しかけてきたのに、曖昧な笑顔で頷いた。
映画が終わると、目的もなく街をそぞろ歩き、彼女が疲れたと訴えれば、コーヒース
タンドで休憩をした。
他愛のない会話はそれなりに楽しめたが、心の底から楽しいとは感じなかった。


彼女のお喋りに相槌を打ちながら、ふと、思った。
そういえば、悠理とこんなふうに意味もなく街を歩いたことなど、一度もないと。
身体を繋ぐことに精一杯で、どこかへ出かけるなど、思いもつかなかった。

今さらだが、悠理とともに様々な時間を過ごしたら、どんな気分になったろうと、少
し考えてみた。

街角、公園、海辺、山辺。
はちきれんばかりに元気な悠理とともに、歩いたら。

考えていたら、何故か、急に寂しくなった。



夕刻、帰りたくないと駄々を捏ねる彼女の背中を押して、駅に向かった。

繁華街を抜ける途中、悠理と逢ったのは、本当に偶然だった。


悠理は、可憐と一緒にいた。
いくつものショッピングバッグを抱え、濃い化粧をした悠理に、清四郎が見知ってい
た彼女の面影は残っていなかった。

開口一番、可憐が、驚きの口調で言った。
「あんたが女連れなんて、珍しいこともあるもんね。なに?デート?」
その口調は、いかにも興味津々だ。
その隣で、悠理は顔に微笑を貼り付けていた。
生気の失せた顔は、高校時代の溌剌とした表情を失い、まるで人形のようだった。
「いえ・・・彼女は、友人です。」
「今はそうだけど、恋人には立候補してまーす!」
清四郎の隣で、女が茶目っ気たっぷりに手を上げた。
その姿に、異様なほど苛立ちを覚える。
「可憐と悠理は、買い物ですか?」
急に話題を変えても、可憐は怪しまなかった。
「ええ、そう。悠理がまた男と別れて、むしゃくしゃするから買い物に付き合ってく
れって言うから。でも、悠理とショッピングに行くと大変!今日も悠理と一緒になっ
て、とんでもない散財をしちゃったわ。」

早口で喋る可憐を見ながら、悠理は笑っている。
形だけの笑みを浮かべて、そこにいる。

以前の悠理なら、そんな笑顔など、見せなかったのに。

清四郎は、悠理から眼を逸らした。
見知らぬ悠理を見るのに、耐えられなかった。
「そろそろ失礼します。」
そう言うと、友人にも満たない女の肩を抱いた。
強引に歩き出し、二人から遠ざかる。
振り返る勇気もないまま、足早に進んで、雑踏の中に紛れた。角を曲がり、悠理が見
えなくなっても、足早に歩き続けた。

しばらくして、後ろから、清四郎を呼ぶ声がした。
気がつくと、隣にいるはずの女が消えている。清四郎に置いていかれ、必死に名を呼
んでいるらしい。そこでようやく歩みを止めて、後ろを振り返ってみた。

行き交う人々の中に、眩しいほど輝いていた、あの笑顔は、見い出せない。
卒業してから、夢まで見るほど会いたかった笑顔は、もう、どこにもない。

清四郎に追いついた女が、訴える。
さっきの二人は、誰なのだと。
だが、清四郎は答えないまま、ふたたび歩き出した。

四ヶ月ぶりに悠理を見て、清四郎は、ようやく気づいた。
悠理から、溌剌とした笑顔を、輝く生命力を、真っ白な心を奪ったのは、自分なの
だ。
清四郎が、無理矢理に肉欲の坩堝へ引き込み、苦しみを与えてしまったせいで、悠理
は以前の悠理でなくなってしまったのだ。

すべては―― 自分のせいなのだと。


女は、いつの間にか消えていた。
正確には、清四郎が置き去りにした。

否。

置き去りにされたのは、清四郎だ。


清四郎は、未だに、あの夕立の中にいる。


そして、恐らくは、悠理も。


違う場所で、同じ雨に打たれている。



*********************



その夜、清四郎は、珍しくひとりで飲んでいた。

重い震動が満ちるジャズバー。
人々のざわめきも、もの悲しくも豊かな音色と渾然一体となり、酒を呷る清四郎の耳
を、素通りしていく。


胸の奥で燻る炎が、清四郎の心を焦がしているとでもいうのか、夕刻に悠理を見て以
来、正体不明の痛みに襲われていた。

酒は、痛みを麻痺させる。
なのに、いくら呑んでも、痛みは増すばかりで、いっこうに薄らがない。
消したくても、悠理の面影は、まったく消えない。
悠理の、派手な化粧を施した、薄倖そうな顔が、脳裏にこびりついて離れないのだ。


ふと、あの夕立の中、暗い待合所で見た悠理の姿が、甦った。

Tシャツを捲られ、カーゴパンツを脱がされ、性器が露出した格好で、ベンチに仰臥
していた悠理。
暗い小屋に充満する、雨と、湿気と、生々しい体液の匂い。

訳も分からぬまま、狂ったように互いを貪り合った、夕立の記憶。


理由などなく、とにかく欲するままに身体を重ねてきた。
清四郎と離れた今、悠理は、誰に抱かれているのだろう?
清四郎が見知った男だろうか?それとも、まったく知らぬ誰かだろうか?

今、この瞬間も―― 誰かの腕に抱かれているのだろうか?


そのとき、清四郎の手元で、音が弾けた。


はっとして、手元を見た。
手にしていたグラスが粉々に砕け、琥珀色の液体が、テーブルに広がっている。
ライトの光を反射しているのは、融けた氷か、濡れた破片か、区別がつかない。
きらきらと輝く透明な粒に、あの日、悠理が壊した、小さな天使を思い出した。

琥珀に輝く水溜りに、掌から溢れた鮮血が、ぽたぽたと落ちる。
「大丈夫ですか!?」
ウェイターがタオルを手に、慌てて駆け寄ってきた。
清四郎は、無事なほうの手でウェイターを制し、鮮血溢れる手を背中に隠しながら、
洗面所へと向かった。

蛇口から迸る水で、血と硝子の破片を洗い流し、ハンカチで傷を縛った。
鏡を見ながら、泣きながら部屋を飛び出した悠理を思い出す。
「・・・これじゃあ、キューピットも願いを叶えてくれない、か・・・」
悠理が最後に残した言葉を、反芻する。
そして、小さく、嘲笑を漏らす。
「悠理・・・あれは、キューピットではなく、エンジェルですよ。」
もとより、二人の仲に、キューピットなど必要なはずもない。
二人は、恋人でもなく、想いを通じ合わせてもいなかったのだから。

「・・・くそっ!」
訳の分からぬ苛立ちを感じ、洗面台の縁を掴む。
生々しい傷口から溢れた血が、洗面台の白く滑らかな肌を、赤く滲ませていく。


そのときだった。

可憐から、救いを求める電話が入ったのは。


「清四郎、助けて!悠理ったら、泥酔した状態で、三人組の男についていっちゃった
の!絶対にあいつら、悠理に酷いことをする気よ!ああどうしよう、何度も止めたの
に、どうしてついていくのよ・・・!?」


気がついたら、街を全力で駆けていた。



可憐は、男たちをしっかり尾行し、悠理が連れ込まれた場所を突き止めていた。

「ああ、清四郎!ここよ!ここ!!」
ネオンが毒々しいカラオケボックスの前で、可憐が全身を使って手招きする。
「警察にも連絡はしたけど、まったく相手にしてくれないのよ!国民を守らずにし
て、いったい何のために警察があるのか、分かっているのかしら!?」
よほど動揺しているのだろう、可憐は金切り声を上げて、清四郎に飛びついてきた。
が、清四郎は、彼女を引き剥がすと、カラオケボックスの中へ飛び込んだ。

愛想よく迎えた男性店員の胸倉を掴み、三人組の男と悠理が入った部屋を問い質す。
しかし、店員は誤魔化すばかりで、答えない。直感的に、店員もぐるだと思った。

清四郎は、店員の胸倉を掴んだまま、彼を持ち上げ、宙吊りにした。
息が詰まった店員は、必死に抵抗をしたが、許さなかった。
「・・・部屋を教えなければ、肋骨の二、三本を折られても仕方ないと覚悟してくだ
さい。」
「よ・・・406号室!!」
低い恫喝に、店員は悲鳴混じりに答えた。

店員を放り投げ、406号室に急ぐ。
部屋番号を追う視線すら遅く、酷く気が急いた。

ようやく406号室を見つけ、ドアを開けると、いきなり眼に飛び込んできたのは、
意識のない悠理の姿だった。

悠理は、三人の男たちから、衣服を剥がされている真っ最中だった。


男たちが、一斉に清四郎を振り返る。
その顔は、一様に醜く歪み、野獣のごとき欲望に支配されていた。


瞬間、清四郎の中で、膨張した殺意が、弾けた。
 
 
 

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