6. 授業らしい授業もなくなり、登校する三年生は、ほとんどいなくなった。 右に倣え、というわけでもないが、清四郎と悠理もあまり登校しなくなっていた。 清四郎は、大学入学の準備や、次々と舞い込む雑事に、気忙しい毎日を送っていた し、悠理も可憐や野梨子と小旅行へ出かけたり、魅録とツーリングを楽しんだりと、 余暇をいっぱいに満喫しており、会える日は、加速度的に減った。 が、それでも互いを欲する気持ちはいっこうに萎えず、三日に一度は、ただ抱き合う ためだけに逢瀬を重ねていた。 恋人でもないのに、僅かな時間を見つけては身体を重ねることに、矛盾を感じていて も、欲求を制御することは、どうしても出来なかった。 卒業式まで、あと三日。 矛盾に心が膿んでも、悠理を抱きたいという欲求は、いっこうに消えなかった。 その日の昼下がり、家人の留守を狙い、悠理が菊正宗邸にやってきた。 今日は、早朝から冷たい雨が降り続いていた。 いつもの悠理ならば、部屋に入るなり服を脱いでベッドへ潜り込むのだが、今日は 違った。 普段は決して近寄らない本棚の前で、膝を抱えて座り、机に向かう清四郎をじっと観 察している。 悠理がそんな様子だから、清四郎のほうも、傍に寄るのが躊躇われ、距離を保ったま までいた。 それは、あの夕立以来、二人の間にはじめてできた、空白の距離だった。 今までの自分ならば、悠理をすぐに押し倒し、欲望のすべてをぶつけていた。 なのに、今は、そんな自分に、躊躇いを覚える。 卒業すれば、否応なしに生活が変わる。 今までのように、欲望のままに悠理と交わる生活も、終わってしまうのだ。 清四郎は、変わっていく現実から眼を背け、気づかないようにしてきた。 だが、卒業を目前にして、眼を逸らし続けることも、出来なくなってしまった。 あの夕立が、自分の中にある、何かを変えた。 それが何かは分からないが、悠理を手放したくない気持ちは、本物だった。 だが、清四郎は、悠理の恋人ではない。 二人は、享楽をともにするためだけに、身体を重ねているのだ。 卒業してしまえば、今の関係も終わってしまうかもしれない。 だけど、それでも。 どうすれば、今までどおり、悠理を手離さずに済むのだろうか? そう思うことの矛盾に、清四郎は、気づいていない。 窓の外に広がる景色は、そぼ降る雨に濡れている。 雨音が、黙り込んだ二人の隙間に侵入し、静寂を際立たせる。 室内に満ちた沈黙も、湿気ているような、そんな気がした。 清四郎は、気詰まりな沈黙から逃れるために、立ち上がった。 「お腹が空いたでしょう?下で食べ物を見繕ってきましょう。」 「ううん、何もいらない。」 首を左右に振って、悠理は清四郎を見上げた。 「最近さ、胃のあたりがムカムカして、あまり食べたくないんだ。」 そう答える悠理の顔に、いつもの溢れる生気がないことに、清四郎はようやく気づい た。 慌てて踵を返し、悠理の前に膝を折る。 頬に触れ、額と額を合わせて、己が熱で体温を測ると、やはりいつもより熱く感じ た。 「具合が悪いなら、僕との約束など構わずに、家で休んでいればよかったのに。」 呆れ口調で呟きながら立ち上がると、キャビネットから小型の薬箱を取り出した。 「このくらい平気だもん。」 悠理は膝を抱え丸くなり、くちびるを突き出して不満を露わにしている。 「今は平気でも、このあと酷くなるかもしれないでしょう?」 薬箱を開けて、体温計を抜く。 「それにしても、悠理が食欲をなくすなんて―― 」 そのとき。 清四郎の胸が、ざわざわと騒ぎだした。 ここ数ヶ月、清四郎は、悠理を三日と開かずに抱いている。 そう。 三日と、開かず。 清四郎の手から、体温計が、滑り落ちた。 「悠理!」 清四郎は、弾かれたように顔を上げて、悠理を見た。 「なに?」 眉を顰める彼女の肩を、強い力で握る。 「悠理・・・最終月経は・・・いつでしたか?」 「・・・はぁ?」 悠理は、清四郎の言葉をまるで理解していないように、鼻の頭に皺を寄せた。 「お前、いきなり何を言っているんだよ?」 彼女の子供っぽさに、酷く苛立つ。 「だから、最後に生理があったのは、いつですか!?」 「・・・せい、り?」 ゆっくりと、言葉の意味を理解しているのであろう。悠理の顔から、緩やかに血の気 が引いていき、やがて、完全に蒼白となった。 清四郎の記憶が確かならば、悠理の最終月経は今年のはじめだ。 十日ぶりの逢瀬を終えた二日後、清四郎が誘うと、悠理は恥らいながらそうだと告げ た。 それでも悠理が欲しくて我慢ならず、上半身だけに愛撫を施し、清四郎の怒張した下 半身を咥えさせた。 不完全燃焼の情事でも、悠理と弄り合っているだけで、心は満たされた。 それ以降、悠理の身体は、女の周期を巡らせていない。 鏡を覗けば、清四郎も、悠理と同じく、血の気のない顔になっていただろう。 「三ヶ月、ですか・・・」 崩れるようにその場へ腰を落とし、呻くように呟いた。 「でも、でも・・・あたい、遅れること、よくあるじゃん!今度もきっとそうだ よ!」 悠理が青い顔をしながら、わざと明るく叫ぶ。 悠理の言うことは、間違っていない。 だが、それは、一週間程度のこと。よほど遅れたとしても、十日ほどだ。 清四郎が知る限り、三ヶ月も月経が止まっているなど、今までありえなかった。 清四郎は、しばらくの間、俯いていた。 くちびるを噛み、これからについて、もの凄い勢いで考えを巡らせる。 高校を卒業すれば、否応なしに変わってしまう日常が、間近に迫ってはいるが、それ でもある程度の未来を予想することはできた。 だが、この瞬間、清四郎に突きつけられた現実は、曖昧な未来の構図に、まったく存 在していなかった。 限られた時間の中で、必死に考え、とにかく考え、考えに考え抜いた。 そして、結論を出した。 「・・・悠理。」 清四郎は、顔を上げて悠理を見つめた。 悠理は、不安に押し潰されそうな顔をしている。 声が震える。 それを抑えるため、大きく息を吸う。 「―― 結婚、しましょう。」 その瞬間、悠理の瞳が、大きく見開かれた。 堕胎というのは、母体に冷たい器具を挿入し、芽生えた命を掻いて捨てるということ だ。 悠理の心と身体が、中絶などという行為に、耐えられるはずがない。 そして、清四郎にも、そんなことは耐えられなかった。 とにかく、悠理の、身体も、心も、どんな理由があれども、傷つけさせたくなかっ た。 「な、なんで・・・?」 尋ねる悠理の声も、震えていた。 「何故って・・・」 清四郎は、僅かに間を開けて、答えた。 「責任を取るのは、男として当たり前のことですから。」 「・・・せき、にん・・・?」 悠理が、清四郎の言葉を反芻した。 「・・・責任って・・・なに?」 掠れた声が、清四郎に問う。 清四郎は、不安げに歪んだ悠理の頬を両手で挟み、間近から瞳を覗き込んだ。 「行動には、責任が生まれます。特に、男女の間柄に、責任のない関係などありませ ん。そこに、一生に関わる問題が出てくるのも、当然のことでしょう。」 悠理の瞳が、みるみるうちに潤んでくる。 「だからこそ、僕は、悠理に対して、自分の行動に、責任を負いたいのです。目の前 の問題から眼を背けて逃げ出すのは楽です。でも、逃げていては、何の問題も解決で きない。」 清四郎は、悠理の瞳を覗き込みながら、言葉を続けた。 「僕は、自分自身を誇りにするためにも、責任を放棄したくはありません。」 悠理の瞳が、透明な水の膜で、盛り上がった。 その、大きな瞳から、ほろり、と涙が零れたとき、悠理が爆発したかのように、叫ん だ。 「清四郎なんか大嫌いだ!!」 悠理は泣きながら、清四郎に向かって怒鳴った。 「責任なんか、取ってもらいたくない!!清四郎の馬鹿!!」 悠理の拳が、清四郎の胸を叩く。 幾度も、幾度も。 「清四郎なんか死んじゃえ!!二度と顔も見たくない!!」 悠理の瞳から零れた涙が、清四郎の胸に散って、透明な滲みを残す。 「ゆ・・・ゆう、り・・・」 清四郎の呻きは、悠理の嗚咽に掻き消された。 悠理は大粒の涙を零しながら立ち上がると、濡れる瞳で、清四郎をきっと睨みつけ た。 「この子は・・・あたいだけで育てる。お前は関係ない。お前みたいな男に、責任な んか、取ってもらいたくない!!」 そして、傍らに放り投げていたバッグを掴んで、もう一度、清四郎を睨んだ。 「あたいは、お前に責任を取ってもらいたくて、一緒にいたんじゃない!」 悠理が身を翻す。 そのとき、大きく揺れたバッグが、机に激突した。 バッグは、クリスタルの天使にも当たった。 天使はそのまま中空へと放り出され、音を立てて硬い床に落ちた。 「あ。」 悠理が、泣きながら振り返った。 透明な天使は砕け、片方の羽を失っていた。 「・・・キューピットも、もう願いは叶えてくれないね。」 悠理はそう言い残すと、部屋から飛び出した。 清四郎は、後を追えなかった。 何が起こっているのか理解できず、身体が動かせなかった。 ただ、呆然としながら、悠理が階段を駆け下りる音を聞いていた。 静寂の中、透き通った天使が散らした欠片が、まるで悠理が流した涙のように、きら きらと光っていた。 翌日の夕刻、悠理からメールが入った。 遅れに遅れていた月経がきたから、責任を取る必要はないと、それだけを告げた、短 い文面だった。 それきり、いくらメールや電話をしても、悠理が応えることはなかった。 ********************* 卒業式の当日が訪れた。 式がはじまる直前、悠理とは廊下で擦れ違ったが、彼女は清四郎と顔を合わせようと もせず、逃げるように去っていった。 その後姿は、明らかに清四郎を拒絶しており、呼び止めることも、できなかった。 清四郎は、うわの空で答辞を読み、何の感慨も味わえぬまま、式は終了した。 式のあと、必死に悠理を探した。 ようやく校門前で見つけた彼女は、女子生徒の取り巻きに囲まれ、楽しげに笑ってい た。 そして、清四郎も、下級生に囲まれ、気がつけば、彼女の姿を見失っていた。 その後、清四郎たち倶楽部の面々は、古巣となった生徒会室に集合し、思い出話に花 を咲かせたが、そこに悠理が現れることはなかった。 卒業式を限りに、清四郎が悠理と顔を逢わせることは、二度となかった。 それぞれが大学に入学し、目まぐるしく変わる新しい日々に翻弄されていた、ある 日。 清四郎の耳に、悠理が大学の先輩と交際をはじめたとの噂が、飛び込んできた。 あの夕立から、八ヶ月。 清四郎は、狂おしいほど互いを求め合った日々が終わったことを、ようやく知った。 |