3.

 

 

そこに、花が、咲いている。

そう思った。

 

いつも悠理の代名詞のように言われるひまわりなどではない。

もっと、しっとりと優美な、香り高い大輪の黄金の花。

 

いまや清四郎の前には、咲き開く花のような悠理しか存在せず、

そのあでやかさとかぐわしい香りに清四郎は圧倒された。

 

 

 

「・・・ろう?おい、清四郎!」

どれほどの時間だったのだろう。

清四郎は、至近距離で自分をよぶ悠理の声で我に返った。

 

「あ、ああ、すみません。何ですか」

周りの喧騒が立ち戻ってきた。

目の前には、怪訝そうな顔。いつもの悠理だ。

 

 

                                        

────── 一体、いまのは何だったんだ?

自分自身に何が起こったのか分からなかった。

──────あれは、幻?

 

自分の顔をじっと見つめたまま、いまだにぼんやりしている清四郎に、悠理が苛立った声を上げる。

「何ですか、じゃないだろ。あの外人のおっちゃんたちのとこへ挨拶に行くんだろ?」

「え、ええ、そうです。そうでした」

清四郎は、ようやく現在の状況を思い出した。

 

────ったく、なにボケてんだ。こっちが痛いの我慢してるのに・・・・

悠理は口の中でぶつぶつ言いながら、立ち上がろうとした。

 

いつもなら。

その手を掴みぐいっとひっぱりあげるところだ。

けれど、清四郎は、左手でそっと悠理の左手を取ると、悠理の腰に右手を添えて立ち上がらせた。

 

 

そこへ、五代夫妻が駆けつけてきた。

「だ、大丈夫ですか?お二人とも」

まだ、緊張の解けない表情の五代部長。

一方、薔子女史の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

「話には聞いていましたけど、お見事でしたわね」

ふと、笑顔が曇る。

「悠理ちゃん、どうしたの?怪我」

悠理の様子に気づいたようだ。

「ちょっと、足をくじいたようです。薔子さん、すみませんが湿布と包帯をもらってきてもらえますか。それと・・・・・」

清四郎が、薔子女史にそっと耳打ちする。

それを聞いた途端、薔子女史の顔がぱっと輝いた。

「わかりましたわ。すぐ手配します」

そのまま足早にそこを離れて行った。

清四郎は、五代部長に顔を向けた。

「これからハーパー夫妻のところへ挨拶に行きます。一緒に来て頂けますか」

「は、はいっ」

今度は、五代部長の顔が明るくなった。

 

悠理の左足はすでに腫れ始め、サンダルのベルトが食い込んでいる。

しかも、サンダルのヒールが折れて取れてしまっていた。

痛みがひどくなってきたのか、悠理はきつく唇をかみしめ、眉間を歪めている。

わずかな距離でも、歩くのはかなりつらいだろう。

 

清四郎は、悠理の左手を握ったまま、腰に右腕を廻してその身体を真っ直ぐグッと持ち上げた。

「お、おい、せ、せいしろ?」

悠理が焦って暴れかける。

「大丈夫だ。僕にちゃんとつかまれ。お前は歩いてるふりをすればいいんだ」

悠理の狼狽を気にもとめず、清四郎は悠理の頬に自分の頬を寄せた。

「悠理のお守りは慣れてますからね」

「何だとお?」

む、と悠理が顔をしかめる。

清四郎がクスクス笑う。いつもと同じようなやりとり。

 

でも、清四郎は、自分自身の中で、何かがこれまでとは違ってしまったことを感じ取っていた。

でも、いい。と、清四郎は思った。

とりあえず余計なことは考えず、気持ちのままに動けばいい、と。

 

腕の中の悠理からは、ほのかに甘い香りがした。

悠理の華奢な身体を右腕一本で抱え、清四郎は揺るぎのない足どりで歩き出した。

 

 

緊迫した状況を一瞬にして鮮やかに解決した長身の美男美女が、ぴたりと密着して睦まじく歩くさまをみて、会場内の人々から改めて称賛と憧憬のため息がもれた。

 

 

*******

 

 

「あなたたち、すごくかっこよかったわ」

飛びつくようにして清四郎たちを迎えたミリアム夫人の口から飛び出したのは、流暢な日本語だった。

それを聞いて、悠理は目を丸くし、清四郎は胸をなで下ろした。

今日受けたレクチャーの中で、夫人のプロフィールに「数カ国語に堪能。夫の通訳の役割を果たす」とあったのを覚えていたのだ。あの局面で、もしかしたら日本語も、と危惧して口を挟んだのは正解だった。

 

「それに、ふたりはすばらしいパートナーね。ええ、呼吸が合う? 息?ahー」

───あんな状況で、あの阿吽の呼吸はすばらしかった。と後は英語で言った。

そして、背後の夫を振り返る。

『まるで、若いころの私たちみたい。ね、ダグ』

後ろで苦笑していたハーパー氏が、妻をたしなめた。

『ミリー、彼らが困っているじゃないか』

それから、妻の肩を抱くと右手を差し出した。

『妻を助けてくれてありがとう。君たちの活躍はすばらしかった。申し遅れたが、私は────』

 

彼が自分と妻の自己紹介をするのをにこやかに聞きながら、清四郎はすっと悠理の右に移動してその身体を左腕に移しかえ、こちらも右手を差し出してハーパー氏と握手を交わした。

『存じあげています。こちらは、剣菱悠理。剣菱財閥の娘です』

その悠理は、自分に向かって手を差し出すハーパー氏と握手をするつもりで出した手にキスをされて目を白黒させている。

『僕は、菊正宗清四郎。彼女の婚約者です。今日は、彼女の兄剣菱豊作氏の代理として来ています』

『婚約者』という言葉をきちんと聞き取ったらしい悠理が、咎めるような視線を向けてきたのを、その腰をぎゅっと引き寄せることで封じる。

一方、ハーパー氏は、「剣菱」という言葉にすっと目つきを鋭くした。

一代で世界規模の企業を築き上げたビジネスマンの目。

 

清四郎は、あえて望む話題を避けた。

『奥様がご無事で本当によかった。ところで、僕たちは、若いころのお二人に似ているんですか?』

『ええ!若いころからダグは、ならず者相手に一歩も引かず、あなたみたいにすごく強かったのよ!』

ミリアム夫人は、夫の肩に頬を寄せた。ハーパー氏の目が和らぐ。

『ならず者をひどい目に遭わせてたのは君だろう、ミリアム。妻は、大牧場の娘でね。強盗団を半死半生の目に遭わせたりして、子供の頃から、とんでもないじゃじゃ馬で有名だった。さっきも妻が、あいつらにとんでもないことをしやしないかと、ひやひやしたよ。結局、とんでもないじゃじゃ馬はもうひとりいたわけだが』

 

ミリアム夫人が『まあ、ひどい』というのと、悠理が「何だよ、それ」と声を上げたのは同時だった。

ハーパー氏と「お互い大変ですな」と笑みを交わしながら、清四郎は、どうやら、悠理が会話を大体理解しているらしいことに、改めて驚きを覚えた。

 

『だが、彼女は私にとって最高のパートナーだ。妻は、どんな困難な状況になっても、最後まであきらめず、私と共に戦ってくれる女性だからね。君も、彼女がそういう女性だから、選んだんじゃないのかい?』

妻の肩を愛しげに引き寄せながらハーパー氏はそう言った。

 

 

その言葉が、清四郎の胸のどこか深いところに響いた。

 

共に、戦ってくれる女性─────悠理は、自分にとって、まぎれもなくそういう存在だった。

モナコで二人で捕らわれた時も、あのペット誘拐騒動で廃ビルの地下に閉じ込められた時も、最後まであきらめない悠理にどれだけ勇気づけられただろう。

悠理は確かに馬鹿だが、困難な状況で共に戦うとき、たとえば生命のかかるような局面においても、いつだって清四郎は悠理に絶対の信頼をおくことができた。

今日も、悠理が自分の役割をやり遂げることを信じて疑わなかった。

そして、悠理は、戦いに赴く男を心配しながら待っているような女ではない。

どんな困難なときにも、どんな危険なところでも、共に行けるだろう。悠理とならば。

 

清四郎は、悠理の身体に廻した腕に力を込めた。

『ええ、その通りです』

 

ミリアム夫人の顔が、ぱっと輝いた。

「まあ、すてき。お二人の結婚式が楽しみね。いつごろなの?」

 

それを聞いて、清四郎はハッとした。

-------何を僕は?悠理と本当に結婚するわけでもないのに。

彼らのいうパートナーとは、彼らのように人生を共に歩む相手のことだ。

自分たちは、これまでの息の合う「友人」として、ある意味パートナーとして共に生き、共に戦ってきたけれど、それはこの先ずっと続くわけではない。

 

悠理が共にどこまでも行く相棒は、いつか悠理が選ぶ男、自分ではない-------

 

あの苦味が、また胸の中に滲み出す。

そのわけもわからないというのに。

 

 

時宗がこちらに近づいてくるのが見え、ハーパー氏と話せる時間が残り少なくなったことに気づく。

清四郎は気持ちを切り換え、さりげなく切り出した。

『パートナーをちゃんと選ぶのは、大事なことですね。公私ともに。ところで、私ども剣菱の申し出についてはお聞き及びと思います。できれば、日本にいらっしゃる間に、私どものトップと会う機会を作っていただけるとうれしいのですが?』

 

清四郎とハーパー氏の視線が鋭く交錯した。

と、ハーパー氏がフッと笑った。

 

『君は、近々剣菱の経営に参画するのだろうね。君のような、優れた判断力と勇気を持った人材を擁する会社なら、ぜひ一緒に仕事をしてみたい』

 

それから、ハーパー氏は、清四郎の腕の中の悠理に目を移した。

『彼女の父上のことは知っている。あのミスター剣菱の息子で、この彼女の兄上なら、剣菱ジュニアもさぞ興味深い方だろう。ぜひお目にかかりたいね。明日にでも、日本支社の秘書の方にアポを取ってくれたまえ』

『ありがとうございます』

 

再び、二人はがっちりと握手を交わした。

傍らでは、五代部長が小さく拳を握りしめていた。

 

『あら、でも私は、お二人とはまたお友達として会いたいわ』

横から、ミリアム夫人が口を挟んだ。

「ね、ユーリ?私たち、もうトモダチよね?」

夫人に手を握られ、日本語で話しかけられた悠理は、ちらと清四郎と目を合わせると、にこっと笑って、「うん!」と答えた。

 

 

人質となったミリアム夫人に少しお話を伺いたい、と言ってきた時宗とハーパー夫妻が連れ立って離れていくと、腕の中の悠理が、腰に廻った清四郎の手を押し退けようとした。

 

「おいっ!何だよ、さっきの。なんで、わざわざ婚約者なんて・・・」

清四郎を睨みながら抗議しかけた悠理が、グイと身体を向き直した瞬間「くぅっ」と呻いた。

同時に、悠理の顔が歪み、その手が清四郎の腕をぎゅっとつかんだ。

緊張がほどけた瞬間に、足の痛みがよみがえってきたのだろう。

 

清四郎は、再び悠理の身体を腕の中に閉じ込めてその体重を支え、片手で彼女の口を塞いだ。

「静かにしろ。話は後だ。怪我の手当てが先だ」

 

まず、五代部長に指示を出す。

「豊作さんに連絡してあげてください。きっとなによりの薬になるでしょう」

「は、はいっ!!」

五代部長は携帯電話を手に飛び立つように走っていった。

 

それから、清四郎は悠理を横抱きに抱き上げた。

 

「なっ、なにすんだ〜っ!!」

悠理は、今日何度目かの抵抗をするが、清四郎は簡単にそれを封じる。

「暴れたって無駄だ。大体その足じゃ歩けないだろう」

それでもじたばたともがく悠理に、低い声で言って聞かせた。

「あんまり暴れるなら、キスして黙らせましょうか?言ったでしょう。僕らは今日、婚約者同士なんだって」

悠理が、言い返せずに口をぱくぱくさせる。

清四郎は、クックックッと笑いながら、悠理を手近な丸テーブルの上に座らせた。

そして、床に跪き、腫れ上がった悠理の左足を片手で掬い上げた。

「ああ、かわいそうにこんなに腫れて。痛かったでしょう」

 

そこへ、薔子女史が薬箱をもって戻ってきた。

 

非常に有能なビジネスウーマンである一方で、薔子女史には、剣菱百合子夫人と同じ血が流れている。それは彼女において、ひそかに「ロマンス好き」という形で発露した。

彼女の目にいま映っている光景は、「シンデレラと王子」に他ならないものであった。

 

───まあ、まあ、まあ!百合子おば様に報告しなくっちゃ!

そんなことはおくびにも出さず、薔子女史は冷静沈着そのものの表情で、清四郎に薬箱を手渡した。

そして、にっこり微笑む。

「あちらの方も、手配しておきました」

悠理の足首から目を上げた清四郎も、微笑みを返した。

「ありがとうございます」

悠理の足からサンダルを取り去り、手早く手当てを施すと、清四郎は再び悠理を抱き上げた。

 

「またかよ〜?今度はどこ行くんだよ〜?」

そういいながらも、今日、繰り返し繰り返し清四郎に触れられ続けた悠理はもはや抵抗しようとはしなかった。

 

 

今日のパーティーはすでに中止のやむ無きに至り、列席者は、名簿のチェックを受けて順次帰されつつあったが、まだ残っていた人々や現場検証をする警察官たち、後片付けをするホテルの従業員たちは、今日のヒーロー・ヒロインに興味津々の視線を送っていた。

でも、清四郎も悠理もそんなことに気づきもしなかった。

 

 

 

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