2.
大勢の列席者がいるにもかかわらず、会場内は静まり返っていた。
会場の中央には大きな空間ができ、人々はできるだけ壁際に行こうと押し合いながらも、空間の中心から目を離せずにいた。
そこには、二人の男と一人の女。
男のひとりはダウンジャケット、もうひとりは皮ジャン姿。二人とも毛糸の帽子を目深に被っている。そして、人相をごまかすためだろう、どちらもレンズに薄く色の入った太い黒縁の眼鏡をかけていた。 どうみても今日の客ではなく、ホテルのスタッフでもない。 それは、ふたりの手に握られた物騒な物体からも明らかだった。 黒光りする鉄の塊と、シャンデリアの光を反射する銀色のナイフ。
そして、ナイフをもった男の腕の中には、赤い髪をした女性が拘束されていた。 喉元にナイフの切っ先を突きつけられて。
正面扉から真っ直ぐ突入してきた二人の男は、運悪く真正面に居合わせた赤毛の女性を捕まえた。 誰かに話しかけられ、夫から数歩遅れをとったミリアム・ハーパー夫人である。 すぐに気づいたハーパー氏が、男たちに突進しようとしたが、銃を突きつけられやむなく動きを止めた。 「動くな!」 太い男の叫び声。 と、同時に、パン、と乾いた音がした。 いきなり、シャンデリアがひとつ、ガラスの破片をまき散らしながら落下する。 拳銃を持った男が、入口付近に視線を飛ばして叫んだ。 「全部の扉を閉めろ!!出ようとした奴は撃つぞ」 ばたばたと扉が閉められ、人々は悲鳴をあげながら、壁際に殺到した。
現金輸送車を襲って警備員に怪我をさせ、現金数千万円を奪ってワゴン車で逃走した二人組の男が、札に直接張り付けられた発信機によって所在を掴まれ、パトカーに追跡された挙げ句、このホテルに逃げ込んだ───というのは、すべてが終わったあとでわかったことである。
『妻を離せ』 いま、長身のハーパー氏が、向けられる銃口に怯むことなく、犯人たちに英語で詰め寄っている。 『さっさと離さないと、ひどい目に遭わせるぞ!』 伝説のカリスマ経営者は、どうやらただのエリートではなく、なかなか剛毅な人物のようである。 「うるさい!!何言ってるかわかんねえんだよ!下がれ、下がれったら」 革ジャンの男が、手振りを加えてハーパー氏に命令する。 それでも彼が、退かないのを見て、男は再度引き金を引いた。 人々の悲鳴の中、二つ目のシャンデリアが砕け散った。 それを見た、ハーパー氏は渋々後ろへ下がった。 それでも彼は、犯人たちを睨み続けていた。
「・・・・清四郎、どうする?」 悠理が、清四郎の顔を見上げる。 「ふたりがかりなら、なんとかなんない?」 「待て。一人は銃を持ってるからな」
事情はわからないが、いずれにせよホテルの通報でまもなく警察が駆けつけるだろう。
ここは桜田門にも近い。時宗の顔がちらりと浮かんだ。 だが、人質をとられ、しかも犯人が銃を持っている以上警察も迂闊に手は出せまい。 あとは、犯人たちの目的だが─────
清四郎は、忙しく頭を巡らせ素早く判断を下した。 悠理の腰を引き寄せ、耳元で囁く。 悠理は、一瞬ビクリとしたが、すぐ清四郎の言うことに耳を傾けた。
「どうだ、できるか」 ごくごく簡単な説明だったが、これまで何度も一緒に敵と闘ってきた悠理は、すぐに清四郎の意図を理解した。 「あったりまえじゃん」 ぐいと顎を上げる。その目がきらきら光っていた。
「よし、じゃ、いくぞ」 清四郎は悠理に目配せした。 悠理は、それに唇の端を上げて応えると、すっと清四郎のそばを離れた。 幸い、二人の位置は男たちの背後にあたっていたので、悠理の静かな動きは気づかれなかったようだ。 清四郎と距離をとると、悠理は、いきなり叫んだ。
「ねえ、おっちゃん!」
衆人の視線が悠理に移る。 それを見計らって、悠理がずいっと前に進み出る。
「おい!動くなと言っただろう!」 すぐに、銃を持った男が悠理に銃を向けてわめいた。 「いったい、何だ、お前は!?」
悠理は、にやっと笑った。 「ねえ、その人、離してよ」 周りの人々から驚きの声があがる。 「うるさい!」 男が再び怒鳴る。 「いったい何のまねだ?大体お前は誰だ?」
「あたいは、剣菱悠理だ」 悠理は、堂々と名乗った。 「剣菱?剣菱って、あの剣菱か?」 「うん、その剣菱の娘」 「その剣菱の娘が、一体何だって?」 「だからさぁ、その人とあたいを交換してって言ってんの!」
悠理の申し出に、男は目をむいた。 「何だと?」 ミリアム夫人を拘束している傍らの男と目を見交わす。 「何だ。何を企んでるんだ?」 後ろの男も頷き、夫人を喉にますますナイフを近づける。
「大丈夫なんですか?あんなことをして」 清四郎の背後から、五代部長がおろおろと声をかけた。 薔子女史は、黙って唇を引き結んでいる。 「大丈夫ですよ。僕らに任せてください」 清四郎は、悠理を見つめたまま言い切った。
「別に、何にも企んでないよ。ただ、そのひと人質にされると困るんだ。だから、頼むよ、おっちゃん。お願いだから、その人を離して。あたいが、代わりに人質になるからさあ」 悠理は両手を胸の前で合わせ、上目遣いに男たちに懇願する。 その優雅な姿には全く似つかわしくない口調ではあったが、悠理は、どこからどう見てもしとやかな女性にしか見えなかった。
銃を持った男が眉間にしわを寄せた。 「お前、この外人女とどんな関係なんだ?」 「ダチ」 簡単に悠理が答える。 「父ちゃん同士が友達だから、その人とも友達。今回アメリカから来て、久しぶりに会ったんだ」
夫人は、二十代にしか見えない。そして、悠理はドレスアップしているせいでかなり上に見えるはずだ。不自然ではないだろう。
男は、銃を構えたまま、夫人に目をやる。 「本当なのか?」 首にナイフを突きつけられたままの夫人は、怯えた様子もなく男の目を見返すと、肩を竦めた。 それまで、他人のふりをして黙って状況を見ていた清四郎が素早く口を挟む。 「その人、日本語がわからないんじゃないんですか」
新たな声に、男は急いで銃を構え直す。 「お前は何だ?お前もこいつらの仲間なのか?」 清四郎に狙いをつけて詰問する。 「あ、いや、ちがいます。関係ありません。すいませんね、つい、思ったことが口からでてしまっただけで」 清四郎は、両手をホールドアップの形にしながら言い訳した。
「お前さあ、関係ない奴が口を出すなよ」 悠理がじろりと清四郎を見やってから、男たちの注意を自分に向け直す。 「そんな奴いいからさ、ねえ、おっちゃん、頼むよ。その人とあたい交換してよ。大事なダチなんだから」
こんな事態は、想定外だったのだろう。 銃を持った革ジャンの男は、困惑の表情を浮かべて悠理と人質とに視線をさまよわせると再びミリアム夫人に訊いた。 「この女のいうことは本当なのか?」 ミリアム夫人は、ちらと清四郎に目をやると口を開く。 『何を言ってるのか、わからないわ』 早口の英語。
そこへ、悠理の声が割って入った。 『大丈夫だよ、心配しないで』 たどたどしいが、この場に適切な英語。これには、清四郎も驚いた。あの悠理が、英語を話すなんて。
二人のやり取りに、苛立った声で男が怒鳴った。 「日本語で喋れ!!」
悠理は、全く動じない。 わくわくした表情で、向けられる拳銃に怯える気配もない。 「おっちゃんたちだって、困るんじゃないんの?そのひと、こっから連れて行って何かさせようにも、人質が言葉が分からないんじゃ。それに、あたいだったら、身代金とれるかもしんないよ」
その言葉に、男は軽く目を見張り、それから相棒と目を見交わす。 おそらく、目下であろうダウンジャケットの若い男は首を傾げた。腕の中の夫人は、何が起こっているのかというふうに、犯人たちと悠理を交互に見ていた。 「だからさあ、あたいを代りに・・・・」 「黙れ!」 しばらく悠理を睨めつけていた男は、相棒に向かって頷いて見せると悠理を手招きした。
「よ、よし。お前、こっちへ来い。でも、いいか、おかしな真似をしたらただじゃ置かないからな」
悠理は、男たちに笑顔を向けた。 「サンキュ、おっちゃん」 そのまま、男たちの方へ歩きだす。
この緊迫した状況の中心で。 銃口を向けられ、衆人の視線を一身に浴びながら、悠理は全く臆することなく凛としていた。 生来の美貌とスタイルのよさが、淡い化粧としっくりと身に馴染んだ真紅のドレスで引き立てられ、普段の少年ぽさは影をひそめている。 白い頬をかすかに紅潮させた悠理は紛れもなく美しい女だった。 壁際で身を寄せ合っておびえる人々の間から、ほう、とこの場に似つかわしくないため息がもれた。 清四郎も一瞬見とれてしまったが、すぐそれどころではないと気を引き締め、口を開いた。
「待ってください!」 悠理が足を止める。 革ジャンの男が、すっと銃を清四郎に向け直した。
「なんだ、またお前か。今度はなんだ」 清四郎も前に進み出る。 「だめです。彼女だけがそちらに行ったら、人質を二人にされかねない」 「なんだとお?」 その声音で、男が、そんなことは考えてもいなかったことはわかった。 それには構わず清四郎は悠理に向き直る。 「あなたの勇気には感心しますが、ひとりで近づいて行ってあなたが捕まり、あちらの女性も開放されなかったらどうするつもりなんです?」 清四郎はさらに口早に言い募りながら、悠理に近づきその手をとった。 「人質の交換というなら、僕が、一緒に行きます」 言うなり、悠理の手を引いて歩きだす。
すっかり、清四郎のペースにはめられ、銃を持った男も目を白黒させるばかりで口を挟めない。 近づいてくる二人に、焦った男たちが同時にわめきだした。 「おいっ、何のつもりだ」 革ジャン男は、銃で二人を威嚇し、 「ち、近づくな、近づくとこの女がけがをするぞ」 ダウンの男が、ますますミリアム夫人の首筋にナイフを突きつける。 だが、すでに、清四郎と悠理は男たちのすぐそばに来ていた。
うろたえる男たちを尻目に、清四郎は悠理に話しかける。 「なるほど、剣菱御令嬢はじゃじゃ馬とは聞いていましたが、これほどとはね。で、剣菱のお嬢さん。本当にいいんですか?あなたが人質にされても」 「いいって言ってんだろ。だいたいお前、誰だよ?」 不機嫌なまなざし。 さきほど「知り合いだとわかると、何か企んでいると疑われるかもしれない。他人のふりをしろ」と指示はしたが、なかなか堂に入っている。 「誰でもいいでしょう。それより、あなたがいいなら早く済ませましょう」 いつもながら惚れ惚れするほど度胸が据わっている悠理に、清四郎は、微かに笑って見せた。
「そこのあなた。その人質の女性を離して、二歩下がってください」 まず、ナイフの男に声をかけた。 「僕も、この人から二歩下がります」悠理に目をやる。 「そうしたら、剣菱のお嬢さんは彼の方へ。そして、その女性は僕の方へ来てもらいます。そちらは銃を持っているのだから、何かあったら撃てばいい。どうです?」 今度は、銃の男に同意を求める。 清四郎は、この場を完全に仕切っていた。 ナイフの男は完全に呑まれた格好で、きょろきょろと落ち着きなく目を動かす。 視線を向けられた銃の男も、この状況をどうしたらいいか判断のつきかねる表情をしている。 パーティーの列席者たちも、どうなることかと固唾を飲んで見守っていた。
ようやく、銃の男が決断をくだした。 相棒に、促すようにあごをしゃくると清四郎に鋭い視線を向ける。 「いいか、こっちはこいつを持ってるんだ。妙なことを考えると、死人が出るぞ。わかったな」 それから、ぐるりと周りを見渡しながら、こちらを注視する列席者たちを威嚇する。 「お前らもだ。おかしな動きをしやがったらただじゃすまないぜ」 人々は、いっそう身をすくめ壁際ににじり寄る。 そのなかで、ハーパー氏だけが、まっすぐ立ったまま燃えるような緑の目で犯人たちを睨みつけていた。 「わかってますよ」 清四郎は、拘束されたままのミリアム夫人に、これから行うことを英語で説明する。 彼女は、黙って聞いていて、最後に一言「OK」と言った。 「あなたもいいですか」 清四郎は悠理に目をやり、彼女が軽くうなずくと、その手を離して二歩後ろに下がった。
「そちらもお願いしますよ」
「よし、離してやれ」 銃の男が、ナイフの男に指示をだす。 ナイフの男は、一瞬ためらったが、ゆっくり人質の拘束を解いた。 ミリアム夫人は、大きく息をついてやれやれといった表情をした。 ナイフの男は抜け目無く片手でナイフを構えたまま、小股で二歩下がる。
「さあ」 清四郎の声で、悠理はナイフの男のもとへ、夫人は清四郎に向かって歩き出した。 その間、銃の男はせわしなく清四郎と悠理に交互に銃口を向けていた。 すれ違うとき、悠理はミリアム夫人ににやっと笑ってみせた。 すると、驚いたことに夫人も悠理に笑顔を返した。
交換は無事に終わり、清四郎はミリアム夫人の手をとり、悠理はナイフの男に捕らわれた。 男に腰に手を回され首筋にナイフを突きつけられたとき。 悠理は一瞬ひどく顔をしかめたが、清四郎もまた、胸にいいようのない強い不快感を感じ、そのことに戸惑った。 だが、いまはそんなことを考えているときではない。
「僕らは下がりますけど、撃たないでくださいよ」 銃の男に念を押すと、ミリアム夫人の手を引いて促した。 『行きましょう』 ゆっくりゆっくり、ハーパー氏のいるほうに歩き出す。 わざとらしくならぬよう、慎重にコースを取る。 銃の男の視線と銃口が二人を追ってくる。 その視線が、ナイフの男と悠理から外れた瞬間。
「ぎゃぁぁ!」 叫び声があがった。 悠理が、自分を拘束する男の足の甲にピンヒールを思い切り突き立てたのである。 絶叫に驚いた銃の男が振り返り、清四郎たちから意識がそれた。
────いまだ! 清四郎は、トンとミリアム夫人の背を押し『走れ!』と叫んだ。 と同時に、三歩ほどで銃の男に迫ると、その手から銃を弾き飛ばし、間髪をいれず男の鳩尾に拳を叩き込んだ。 男が、目を見開いたまま崩れ落ちる。
背後では、悠理が、激痛のあまり力を緩めた男の腕を跳ね除けざま、手刀でナイフを叩き落す。そして、一歩踏み出すとそのままドレスの裾を翻して、男に回し蹴りを食らわした。 男の体が吹っ飛んだ。
「うわっ」 動作の激しさに耐えかねたサンダルのヒールが折れ、悠理が尻餅をついたのはご愛嬌というものであった。
清四郎は、二人の男が倒れているのを確認すると、ふぅっと大きく息をついた。 それから、静まり返っている周囲の人々ににっこりと笑いかけた。 「お騒がせしましたね。扉を開けて、警察の方を入れてください」 周りから、わあっと歓声が上がった。
誰かが扉を開け、外に走り出て「終わったぞ」と叫ぶ。 予想通り時宗を先頭に、警官たちがなだれこんで来た。 状況を把握しようとした彼らに、人々は興奮して我先に清四郎たちの鮮やかな手並みを告げようとしたし、ホテルの警備に声高に文句を言う人や、緊張がほどけて気分の悪くなった人も出て、会場内は混乱した。
倒れた犯人たちのそばに真っ先に駆け寄ってきた時宗は、清四郎がそこにいるのを見て何が起こったのか見て取ったようだ。 「清四郎君、君がいてくれたとは!」 感激のあまり手をとってぶんぶん振る時宗に、清四郎は簡単な説明をした。 「で、悠理君は?」 そう訊かれてふと気づくと、悠理はまだ座り込んでいる。 怪訝に思った清四郎は、時宗に断ってそちらに向かう。
「悠理、どうした?」 悠理は座ったまま足首を押さえて俯いている。 「・・・あし・・・いってえ」
どうやら、足をくじいたようだ。 10センチ近いピンヒールで激しい回し蹴りをしたのだ。無理もない。 状態を見ようと、清四郎が足首に触れると、悠理は顔を歪ませて呻いた。 足首は、すでに熱を持っている。じきに腫れ上がってくるだろう。 かなり痛むらしく、悠理は、声もなく下を向いて唇をかみしめている。 かわいそうだが、まだ、しなければならないことがあった。
「悠理」 清四郎は、悠理の傍らに跪くと優しく声をかけた。 「いつもながら、見事でしたね」 いつものように頭を撫でようとして、それがアップに整えられているのをみて手を止める。 「この足じゃつらいでしょうが、もう少しだけ頑張れますか?」 「・・・何だよ?・・・・っつぅ・・もうあいつら捕まっただろ」 足首を押さえながら、悠理が聞き返す。 清四郎は、悠理の耳元に口を寄せると囁いた。 「ハーパー夫妻に挨拶に行くんです。ここで恩を売って剣菱を売り込んでおけば、今夜来た目的が果たせます。豊作さんも喜ぶでしょう」 唇が耳たぶに触れ、きゅっと身を竦ませた悠理が、さらに深く俯いた。 ここは大事なところだから、と言い聞かせようと清四郎が口を開いたとき。
すいっと悠理が顔をあげた。 「わかった。やる」 紅潮した頬、引き結ばれた赤い唇。 苦痛に苛まれているにもかかわらず、強い意志の宿った瞳。
その表情に息を呑んだ瞬間。 心臓がドクリと大きくひとつ鼓動をうち、 清四郎の周りから音が消えた。
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