運命の夜というものがあるとしたら、それはあの夜だったのだと思う。
けれど、その時は気づかなかった。
きっと誰でもそうなのだろう。
ずいぶんと後になって、来し方を振り返る時、ようやく人は思い至るのだ。
あれが───運命の夜だったのだと。




「此花咲夜」By さるさま




1.



「清四郎、今日これからヒマか?」

悠理から切羽詰まった声で電話がかかってきたのは、ようやく春の兆しの見え始めた2月も末の土曜の午後だった。
これといって用はない。探したい本があることはあったが、今日でならなくてはならないというわけでもない。
だが、一体なんだろう。久しぶりに暖かい陽のさす冬の午後、トラブルは御免被りたいところである。特に、悠理がらみとなると・・・・・・

「どうしたんですか?」
とりあえず、返事は保留して、情報収集に務める。
「それがさ、兄ちゃん、今朝からすっげえ熱だしちゃってさ・・・・行かれなくなっちゃって、けど、すっげえ大事なんだ。だから・・・・」
いつにもまして、何がなんだかわからない。こめかみがキリキリしてきた。
「悠理・・・・」



三十分後、清四郎は迎えに来た車で、剣菱邸に到着していた。
玄関を入ると、エスカレーター式の階段を更に2段ずつ飛ばして悠理が駆け降りてきた。



「わりぃな、清四郎。せっかくの休みなのに」

おや、と清四郎は思う。
───言葉遣いはともかく、ずいぶんまともな挨拶じゃないか。悠理も少しは大人になったか。

しかし、外見は相変わらずのファッションセンスである。
部屋着なのだろうか、赤いジャージの上下に、黄色と緑の格子縞の半纏、足にはスキーソックス。どこかの雪国の子供のようだ。
───まさか、その格好でパーティーには行かないだろうが、今日くらい少しはまともな装いをしてもらえるんだろうな、僕が、エスコートするんだから。

こちらの思惑など一切省みず、悠理は、清四郎の腕をグイッと引っ張った。
「兄ちゃん、待ってるんだ。早く。こっち」
いつになく、悠理の顔が生真面目だったので、清四郎はおちょくったりせず、おとなしく後に従った。


「兄ちゃん、連れてきたぞ」
2階の一室のドアを開けながら、悠理が大声で呼ばわる。
悠理達とつるむようになってから、剣菱邸には数えきれないほど来ているし、一時は「自室」まであったくらいなのだが、豊作のプライベートルームに入るのはこれが初めてだった。
二間続きの手前の部屋は書斎で、ビジネスマンらしく機能的にしつらえられていたが、奥の寝室は、母親の趣味の侵略を拒みきれなかったらしい。控えめとは言い難い分量のレースとピンクがいたるところにあしらわれ、三十ちかい男の部屋とは思えない様相を呈していた。

その部屋の主は、中央に置かれた天蓋付のベッドにぐったりと沈み込んでいた。

豊作は、清四郎の姿を認めると、必死で上半身を起こそうとした。
ベッドの両側に立っていた二人の男女のうち、男性の方が、慌てて手を貸そうとする。しかし、反対側の女性は、豊作の肩を押さえつけ
「寝てなさいっ!」                               
と一喝した。
豊作は、男性と顔を見合わせると、ゆるゆると再びベッドに沈んだ。
その男性と女性は、どちらも三十代後半から四十代といった感じで、清四郎は初対面だったが、どことなく見覚えのある面立ちである。
「や、やあ、すまない・・ね、清四郎君。休みの日に・・・・来てもらって」
ベッドに近づくと、豊作は、ぜいぜいと荒い息をしながら清四郎を見上げた。
「いえ、どうせ、ヒマでしたから」
男性に勧められた椅子に腰掛け、清四郎は、気の毒そうに豊作を見つめた。
「でも、悠理の説明ではよく分からなかったんですが、僕でお役に立てるんでしょうか」

「だ、だいじょう、ぶ・・」
激しい咳で、言葉が途切れた。
傍らの女性が、慌てもせずにベッドサイトのテーブルから吸い呑みを取り上げ、豊作の口にあてがった。
「・・・・ありがとう、薔子ちゃん」
「いいえ。社長、とにかく早く治していただくには、もう無理をなさっては駄目ですわ」

にこりともせずに女性が答えた。
豊作は、清四郎の顔を見て苦笑する。
清四郎は、同情の笑みを浮かべて見せた。


「紹介しておこう。こちらのふたりが今回のプロジェクトの責任者だ。ああ、清四郎君は会ったことがなかったね。あの頃は、二人ともアメリカ支社にいたから」
思わず「あの頃」に反応しそうになった清四郎に気づかず、豊作が、寝たまま左右の男女を紹介する。
「こちらが、開発担当部長の五代さん。名前で分かると思うけど、五代の二番目の息子さんだ。それから秘書室長の薔子さん、五代さんの奥さんだ」

「薔子ちゃんは、うちの母ちゃんの姉ちゃんの娘なんだ。あたいらのイトコ」
それまで黙っていた悠理が口を挟んだ。
なるほど、どうりでふたりともどこかで見たことがあるはずだ。
忠義者の五代の息子と抑えの効く年上の従姉妹、剣菱夫妻は豊作のサポート役として最も信頼のおける二人を選んだわけだ。

「この度はお世話になります。菊正宗さん」
五代ジュニアは生真面目に頭を下げる。
「お噂は、かねがね。よろしくお願い致しますわね」
きびきびとその妻が会釈する。                          
「・・詳しい話は、この二人から、聞いて欲しい。本当にすまないね、清四郎君。でも、君以外に思いつかなかったんだ」
熱で赤らんだ顔で、豊作が詫びた。息が荒くなっている。
「わかりました。できる限りのことはさせてもらいます。豊作さんはゆっくりお休みになって下さい」
清四郎は、気づかわしげに豊作を見ながら立ち上がった。
「では、こちらでご説明を」
五代ジュニアが清四郎を促した。

「悠理ちゃん、あなたも早く支度しなさい」
背後では、悠理が従姉妹から教育的指導を受けている。
「え〜、だって、出るの6時だろ。まだ3時じゃないか」
無抵抗の兄とは違い、妹は一応の抵抗を試みている。
しかし、やはり永年にわたって培われた力関係というものは変わらないとみえる。
「何言ってるの、いつだってそれで間に合わないじゃないの」
ぴしりとした声。
悠理の怖いものは、蛇と幽霊と母親とテストだけかと思っていたが、もう一つあったようだ。


ドアをでたところで五代ジュニアが苦笑した。
「すみません。彼女も必死なんですよ、今回のことでは」
「わかりますよ。それにお綺麗な奥様ですね」
社交辞令のつもりだったが、五代ジュニアの顔はだらしなく緩んだ。
「ええ、あれで可愛いところもあるんです」
どうやら百合子の血筋の女性は、ある種の男性に対しては強力な吸引力を持っているらしい。
もっとも、悠理にその血が受け継がれているとは思えなかったが。



******



剣菱が新たに取り組んでいる大型プロジェクト。
少し前から経済新聞などを賑わせているそのプロジェクトの指揮を豊作が執っていることは、清四郎も知っていた。それは、スケールからいっても、豊作が剣菱の後継者としてふさわしいかどうかの試金石ともいうべきものだった。
中国に建設される大工業団地。輸送費を考えても、剣菱の製品の大幅なコストダウンをもたらすはずである。
豊作は、精力的に用地買収を進め、中国企業との合弁会社を立ち上げていた。
だが、さらに効率をあげるため、剣菱はアメリカの大手EMS企業D.Gハーパー社との提携を狙っている。すでに、担当レベルでの申入れや交渉は行われているが、最終的な合意には至っていない。

ここ十年で急激に成長した同社は、伝説のカリスマ経営者が率いている。
創業者でもあるダグラス・ハーパーはまだ四十代。一代で、会社をアメリカ有数の企業に育て上げた。そして、ハーパー社におけるあらゆる重要事項については、彼が最終決定を下していることが判明している。

そのハーパー氏が、現在妻を同伴して来日中である。

そこで、豊作はハーパー氏とのトップ会談を求めて、何とかアポを取ろうと工作している。一方、彼が今夜、財界のパーティーに出席するという情報を得たため、豊作も、そのパーティーに出席して面識を得ようと計画していた。

ところが、このところの激務のせいか、豊作が肺炎で倒れた。
代理を立てようにも、向こうがトップであるからには、こちらもそれに見合う地位の者でなければならない。
この件は豊作が任されている以上、万作に頼むという選択肢はない。
そこで、清四郎に白羽の矢が立ったわけだ。
もちろん、清四郎ならば、短時間でプロジェクトの概要を把握できるということもある。だがそれ以上に大きな理由。
彼はいまだに、「剣菱ご令嬢の婚約者」として認知されているから────。

 


******

 


2時間ほどレクチャーを受けた後、タキシードに着替えた清四郎は、玄関ホールで悠理たちを待っていた。

今回押しつけられたのは面倒な役割ではあったが、いやではなかった。
日米の経済誌などで、ダグラス・ハーパーには興味を持っていたからだ。
その彼と対等に渡り合う。清四郎は、むしろ、早く彼と会いたかった。

────悠理は、何をしてるんだ。ずいぶん早く支度を始めたはずなのに。
その時、背後から声がかかった。

「ごめん、待たせたな。清四郎」

文句を言おうと振り向いた清四郎は、そこに見慣れぬ女性を発見して言葉を失った。


その女性は、艶然と清四郎に向かって微笑みかけていた。
白い肌、赤い唇。アップにまとめた髪はうなじの後れ毛が艶かしい。
横に深いスリットの入ったシンプルな真紅のキャミソールドレスに身を包み、ダイヤの小粒のイヤリングのほか何もアクセサリーを着けていないのに、彼女は息を飲むほど華やかだった。

清四郎が呆然としていると、その女性の形のよい唇が開いた。
「おい、どうしたんだよ? 清四郎?」
聞き慣れた声。
「ゆ、悠理!?」


ようやく華やかな呪縛から解かれた清四郎は、先程からなにやら慌ただしくなった胸の鼓動をなだめつつ声を絞り出した。
「いや、これは本当に、馬子にも衣装ですね」
途端に、悠理がぷうと膨れた。
「どうせ、お前はそう言うと思ったよ。あたいだって、こんなの着るのヤだったんだ。でも、薔子ちゃんが着ろってうるさいからさ」
ブツブツいう悠理は、すっかりいつも通りで、清四郎の動悸もおさまってきた。
「まあ、たまにはそういうのも悪くないですよ。き・・・薔子さんはセンスがいいですな」
きれいですよ、と言いかけて言いなおした。何となく業腹な気がしたのだ。
悠理ごときに見とれるなんて。

「さあ、行きましょうか」
振り切るように、視線を逸らし、悠理の背後にまわって白い毛皮のコートを着せかける。しかし、悠理の白い首筋から仄かな香が立ち昇り、また、清四郎の胸が騒いだ。

 


******

 



都心の高級ホテル。
パーティー会場で、清四郎は軽い驚きをもって悠理を眺めていた。

もちろん前もって食べてきたのだろうが、あの意地汚い大食らいが並べられた料理に見向きもしない。
しかも、10センチ近くありそうなピンヒールのサンダルで長いドレスの裾をさばき、優雅な立ち居振る舞いを見せている。
まあ、これが前スリットだったら悠理は大股で歩くだろうし、ドレープではさばききれないだろうから、チャイナドレスのような裾を選んだ薔子女史の選択は的確である。

でも、清四郎の驚きはそれだけではなかった。
薔子女史が付き添って通訳しているとはいえ、あの悠理が外国人の女性と談笑しているのである。

このところ、悠理が豊作のパートナーとして、あちこちのパーティーに出ていたのは知っていた。だが。
自分があれだけ強制してもやらなかったことを、悠理は、短時間で身につけている。

────豊作さんのためか。

胸に苦いものを感じる。
更に、いつもと全く違う悠理に注がれる男性たちの視線に気づき、その苦みは一層濃くなった。
ともすると、意識が、視線が、悠理に向かってしまう。
清四郎は、注目の新興企業の社長などに話しかけ、興味深いビジネスの話に集中しようと務めた。



少し遅れると聞いていたハーパー夫妻が到着したというアナウンスが流れた。
清四郎は、それまで話していた相手との話を切り上げ、五代部長を従えて悠理たちの方へ向かう。

───剣菱のファミリーの一員であるように振る舞わなければならない。
清四郎は、自分に言い訳をしながら、近づいてきた悠理の腰にすっと腕を回した。
「おい、清四郎?」
悠理が戸惑った声を出す。

清四郎が悠理に触れるのはよくあることだ。
頭をなでたり、背中を叩いたり、慰めるために肩を抱いたり。
悠理が駄々をこねたときには、頭を抱えてぐりぐりしたりもする。
だが、こんなふうに触れたことはなかった。まるで、男が女に触れるようには・・・・。

 

「しっ」
清四郎は、冷静なふりをして悠理を制した。本当は、柔らかな身体の感触に、また胸の鼓動が慌ただしくなっていたけれど。
「僕らは、婚約者同士なんですよ。そういうふうに振る舞わなくては」
「だ、だって」
悠理は困惑顔だ。目尻が仄かに赤く染まっている。
それはそうだろう。悠理はいままで男にこんなふうに触れられたことはないはずだから。


おまけに、日本では、婚約者同士いや夫婦であっても人前でこんなふうにする人はそうはいない。
「ほら、ハーパー夫妻が入って来ましたよ」
悠理の困惑に気づかぬ振りで、清四郎は悠理の腰を抱いたまま、入口に視線を向けた。


長身のダグラス・ハーパー氏は黒い髪に緑の目を持った、野性的な雰囲気の男性だった。


彼の腕に凭れているのは、妻のミリアム夫人。こちらは小柄で燃えるような赤い髪が印象的だ。
彼女も確か四十近いはずだが、二十代にしか見えない。

ふたりは入ったところで軽く会釈し、主催者に促され、連れ立って会場中央に進んだ。


清四郎は、悠理を促して、夫妻の方に向かって歩き出した。
悠理の細い腰に手を回したまま。


そのとき突然、バァーン、と大きな音が鳴り響いた。
派手な音に、会場内の皆が一斉にそちらにふりむく。

会場のドアが、力いっぱい開け放たれていた。

 

 

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