4.
窓の外には、美しい夜景が広がっていた。
これまで食べることに忙しかった悠理は、ようやく満腹になったらしく、ふぅ〜と息を吐くとソファに背を預けた。 「あ〜、もう、動けない〜。ここで、寝ちゃいたいくらいだじょ〜」 隣で、自分は少ししか食べずに悠理の食べっぷりをにこやかに見ていた清四郎がくすりと笑った。 「じゃあ、二人で一緒に泊まっていきましょうか。僕も疲れましたし、あっちにベッドもあることだし」 悠理が呆れた声を上げる。 「お前な〜、何なんだよ、今日は?」
丸テーブルから、軽々と悠理を抱き上げた清四郎は、薔子女史と、すでに戻ってきていた五代部長に声をかけた。 「では、僕はこいつに飯を食わせてから帰ります。おふたりもご一緒にいかがですか?」
一瞬うれしそうな顔をして口を開きかけた五代部長の足を、さりげなく薔子夫人が踏んだ。 「いいえ、私どもはこれで失礼しますわ。ハーパー氏のアポもとれたことですし。社長もお喜びになってましたし。ね、あなた?」 「う、うん。そうだね」 妻が夫を引きずるようにしてその場を離れる五代ジュニア夫妻を、清四郎は怪訝な顔で見送った。
「え?飯?メシ?飯食わしてくれんの?清四郎?」 悠理は、清四郎が口にした「飯」と言う言葉に気をとられ、足の痛みも従姉妹夫妻の不審な様子も、いわゆるお姫様抱っこをされている今の状況も、とりあえず頭から吹っ飛んだようである。 「はいはい。あれだけ暴れたら腹も減ったでしょうからね」 「ね、どこ行くの? 何食わしてくれんの?」
腕の中ではしゃぐ悠理を抱えたまま、清四郎が向かったのは、クロークでも玄関でもなくホテルのエレベーターホールであった。 「あれ?」 悠理が首を傾げる。 そこにいたボーイが、エレベーターのドアを押さえ、清四郎たちを乗せると自分も一緒に乗り込んだ。
「おい、どこでメシ食うんだよ?上にレストランとかあったっけ?」 「すぐにわかりますよ」 耳元で囁いてやると、悠理はくすぐったそうに首をすくめた。 ドアの方を向いて立つボーイの耳が赤く染まっていた。
エレベーターが止まり、ボーイは、二人を先導して絨毯の敷きつめられた廊下を歩き、とある客室のドアを開けた。
「うわ〜〜〜〜!!」 途端に悠理が叫んだ。
そこは、最上階のスイートルーム。 二人の目に飛び込んできたのは眼下に広がる夜景。 そして、テーブルや運び込まれていたワゴンに乗り切らないほど大量な、しかも豪華な料理の山。もちろん、飲み物やデザートまで用意されている。
さきほど、薔子女史に命じて清四郎が手配させたものだった。
「うっわあ〜っ!すげ〜、すげ〜!うまそ〜っ!これ、食べていいの、ね、ね、清四郎?」 悠理の目にはもはや食べ物しか映っていない。 「いいですよ。今日がんばったご褒美です」 自分の腕から逃れ、食べ物に突進しようとする悠理を、清四郎は胸に引き寄せ抱えなおした。 「こら、だめだ。その足じゃ歩けないだろう。いま、つれてってやるからおとなしくしろ」 悠理は、ソファに降ろしたとたん、足の痛みも忘れて食べることに没入した。
いつものとおり旺盛な食欲を見せる悠理に、清四郎はタイを緩めながら、なにか、ほっとした気持ちを感じていた。
今日の活躍の礼なのか、薔子女史に脅されたのか、ホテル側も短時間で用意してくれた。いや、もしかしたら、パーティーが中止になったので、料理があまっていたというのが本当の所かもしれない。 いずれにせよ、悠理がこんなに喜ばせることができたのだから、手配しておいてよかったと、清四郎は思った。
「ねえ、悠理」 清四郎は、隣でソファにもたれて座る悠理に、今夜ずっと聞いてみたかったことを聞いた。 「英語、話せるようになったんですか?」 「へ? ああ・・・」 悠理がちょっと顔を赤らめた。 「ほんのちょっとだけな。まだ、全然ちゃんとしゃべれないしさ」 「でも、勉強してるんですね?」 「ん〜、兄ちゃんの手伝いすんなら英語くらいできた方がいいかなって」 「豊作さんのためですか? パーティーでちゃんと振舞っていたり、食べるのを我慢したり、普段着ないようなドレスを着たり、それは全部・・・」
再び、胸に苦いものがこみ上げてきた。
「つーか、薔子ちゃんがさ、言ったんだ。これからさき、気に入らない男と政略結婚させられたりしたくないなら、兄ちゃんがちゃんと父ちゃんの跡継ぎになれるように協力したほうがいいって。それに・・・」 「それに?」
そのとき悠理は、少し遠くを見るような目をして、えもいわれぬやさしい表情をした。 清四郎は、その表情に目を奪われた。
「今度の仕事をやることになったときにさ、兄ちゃんがあたいに言ったんだ」
──悠理。僕は経営者として、到底父さんには敵わないとわかっている。それでも僕は、僕なりに剣菱を大切に思っている。だから、どうしても今回のプロジェクトはやり遂げたい。それには悠理の力が必要なんだ。僕を助けてくれないか。
「あんな真剣な兄ちゃん見たの初めてでさ。なんかちょっと感動しちゃって。だから、ちょっとがんばろーかなーって」 えへへ、と悠理が照れくさそうに笑った。
その笑顔が。 まるで、花のように見えた。 今度は、温かい優しい色の花。
温かい感情が、清四郎の中にゆっくり溢れ出し、苦味に取って代わる。
そうだ、悠理はそういう娘だった。事件の時も、霊騒動の時だって、いやだいやだといいながら、悠理は友達を見捨てられない。結局誰よりも辛い嫌な目にあう。 それでも彼女は、大切な人やペットのために、最後まで一生懸命頑張り抜くのだ。
胸に満ちる名前を知らぬ感情のおもむくままに、清四郎は悠理の頭に手を伸ばし、その頭をくしゃくしゃとなでた。今日一日ずっとそうしたかったように。 アップにした悠理の髪がぐしゃぐしゃになったが構わなかった。
「わっ、やめろよーっ!」 悠理が抗議しながら手を振り払おうとしたが、清四郎は笑いながら、その頭を片手で引き寄せて撫で続けた。 「んも〜! あたいは犬じゃないったらー!」
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走る車の窓の外を、街の灯が流れていく。 名輪の運転するロールスは、剣菱邸に向かって走っていた。
隣の悠理が、あくびをした。 ごく自然に、清四郎は悠理の肩に手を回すとその身体を自分にもたれさせた。 悠理も、素直に頭を清四郎の肩に預ける。 「疲れたんでしょう。着いたら起こしてあげますから寝てけばいい」 「ん・・・」 清四郎の肩にかかる重みが増した。 悠理は、もう半ば夢の中のようだ。 悠理のぬくもりを感じながら、清四郎も小さくあくびをした。
今日は、まったくとんでもない一日だった。 そして、清四郎にとっては不思議な一日だった。
これまで感じたことのないさまざまな感情が、次々と押し寄せ、清四郎を戸惑わせた。 けれど。 最後に胸を浸したこのあたたかい何かは、悪くない。 それが何なのかはわからないけれど。
─────まあ、いい。明日、明日考えよう。
あの苦みも、戸惑いも。 あの時の不快感も。 ハーパー氏の言葉に感じた思いも。 そして、あの美しい花の幻も。 いま、心をしめるこのぬくもりも。
すべては、あした───。
清四郎は、悠理の柔らかい髪に頬を埋め、静かに目を閉じた。
fin.
ううん、素敵♪ この、友達以上、恋人未満な二人の関係が、これから徐々に変わっていって、やがて大輪の花を咲かせるんでしょうね! さるさま、素敵なお話を本当にありがとうございました。ああ、幸せ〜♪
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Material by Coco さま