第2章 前編



朗らかな笑い声が響いた。

 

ここは都の西の端にある広大なお屋敷。
視線の先にはユーリと、珍しい淡い緋色の髪をした若者。
母に連れられて訪れた先で知り合い、気が合ったというその青年は、最近よくこの屋敷に出入りするようになっていた。
庭に面した回廊の一角、二人は石段の上に腰掛けて、仲睦まじく話し込んでいる。
背が高く目立つ風貌をした若者と、すんなりとした小鹿の様に美しいこの屋敷のお嬢様。
そんな二人の語らいに、屋敷内や庭で働いている召使達の視線が注がれる。
ひときわ高らかな笑い声が聞こえ、数人の奴隷と共に庭仕事をしていたセイシロウの目も、笑い声のする方に向けられた。



 

「あの若君、最近よくお出でだな。」
「なんでも、護衛官様のご子息だということだぜ」
「お嬢様とは、お似合いのお方だな」
セイシロウの周りの奴隷たちが、聞こえよがしに囁き交わす。
「……」
視線を手元に戻し、セイシロウは無言で仕事に専念しだした。




*****





もともとこの屋敷は、ユーリの両親が領地から都に赴いた際の別邸として建てられたものだったが、数年前にユーリの父が政治の中枢に入ることになり、今はこの屋敷が本邸として使われていた。

そのため領地にある屋敷よりも少し小さいが、その分贅を尽くした造りになっており、使われている召使や奴隷の数も多い。
ユーリと共にこの屋敷に来た、セイシロウへの風当たりの強さは、前の屋敷とは比べ物にならぬものであった。

 

本邸に仕える召使や奴隷たちは、セイシロウのことを「お嬢様のお気に入り」と呼ぶ。
その呼び方に、ある種の下卑た意味合いが含まれていることは、誰でも気付くことである。
主人がお気に入りの従者と関係を結ぶことなど、珍しくもない時代だ。
自分とユーリもそんな風に思われていることが、セイシロウにはひどく疎ましかった。


18歳になるセイシロウは丈高く、鍛え上げられた逞しい肢体を持つ青年に成長していた。
秀でた眉、涼しげな目元に整った鼻筋。
やや薄めの形の良い唇は、いつも真っ直ぐに引き結ばれていることで、面立ちの精悍な印象を強めていた。

黒い真っ直ぐな髪は後ろに撫で付けるように整えられている。
所々はらりと落ち、額にかかる前髪の下から覗く黒い瞳は、いつもどこか憂いをたたえていた。


そんなセイシロウを屋敷内の女達は(いや、男でさえも)、色を含んだ目で見つめてくる。
あからさまに誘われることも多い。
だが、セイシロウはその誰をも相手にすることはない。
セイシロウが欲しているのはただ一人、ユーリだけであったから。
奴隷である自分がいくら望んでも、叶わぬ相手だとわかってはいるけれど。



仕事を終え、セイシロウは粗末な自室に引き揚げた。
セイシロウには、ここでも一人の部屋があてがわれていた。
他の奴隷たちは皆大部屋である。
これもセイシロウへの風当たりを強める理由であろう。
だが、一人になれる場所があることは、セイシロウにとっては有難いことだった。
仕事を終えて仲間達のたむろしている所にいても、彼に関する卑猥な噂が聞こえよがしに囁かれるだけ。

以前は酔っ払って彼に絡んでくるものも大勢いたが、一度絡んできた倍近く幅のありそうな大男を、セイシロウがほんの少し動いただけでもんどりうって転ばせた後、それはなくなった。


 

疲れた身体を寝台に横たえ、目を閉じた。
疲れているというのは有難いことだ。
余計なことなど考えずに、すぐに眠りが訪れる。
今夜は夢も見ずに眠れそうだ。
思い出したくもない、悪い夢など。




*****





―――今日もセイシロウと話をしなかったな。
自室の豪華な天蓋付きの寝台に横たわって、ユーリは考えた。
3年前にセイシロウを伴って、この屋敷に移ってきた。
屋敷を実質的に取り仕切っているユーリの母は、セイシロウをユーリ付きにすることを許さなかった。(尤も、セイシロウ本人のことは一目見てひどく気に入ったようであったが)

 

「用事があるときには、セイシロウを呼びつければよいでしょう?それは認めますよ」
そうは言われても、ただ「傍にいて欲しい」という理由でセイシロウを呼びつけることも、なんとなく憚られ。

結果として、ユーリがセイシロウと過ごせる時間は、ますます少なくなった。


 

―――昔は良かったよなぁ。
ユーリはそう思った。

セイシロウを買い取った最初の頃は、ただ「怖い話を聞いて眠れないから」などと言っては、真夜中でもセイシロウを呼びつけ、一晩中話をしたりしたものだ。
だが、
そんなことは今では叶わないこと。
セイシロウは、夜分にユーリの寝室に立ち入ることを硬く禁じられている。
その理由がユーリには、今ひとつ理解できないでいる。

 

―――いったい、あたしとセイシロウが何するってんだよ。
男と女が交わす行為については、ユーリだって多少の知識はある。
だがそれを自分自身に重ねるなど、ユーリにとっては論外。
―――ただ、傍にいて欲しいだけなのになぁ。
身体はもう大人のものなのに、彼女の意識は子供の頃のままであった。
自分が何故セイシロウを求めるのか、その理由を彼女は知らない。


柔らかな枕に顔を埋めて、うとうとと夢の世界に落ちていきながら、ユーリはセイシロウの瞳を思い浮かべた。
澄み切った夜空のような黒い、黒い瞳。

 

彼女の大好きなその瞳に、時々言い知れぬ恐怖のような影が宿る事に、ユーリは気付いていた。
いつからだっけ?どうしてだろう?考えてみるが、答えは出ない。
けれどセイシロウがユーリを見つめる時の瞳の色は、いつだって昔と変わらぬ穏やかで優しい色だ。

その瞳の色を想いながら、ユーリは眠りの淵に落ちていった。



二人の関係が、大きく変わる時が近付いていることなど、思いも寄らずに。




*****





翌日、天気が良く気持ちのいい午後だった。
いつもならユーリをあちこちに連れまわしたがる母親は、領地の方に出掛けていてしばらく屋敷を空けている。

ユーリはゆったりとした気分で、庭に面したテラスで昼食後のデザートの葡萄を貪っていた。


「ユーリ!」

呼ぶ声の方に顔を向けると、淡い緋色の髪をした友人が、こちらに向かってくるところであった。

その後ろに小柄な少女の姿を見つけ、ユーリは立ち上がって笑顔を向けた。
「ノリコ!」
「やっとこちらにお邪魔することが出来ましたわ。ユーリ」
ふわり、とたおやかな笑顔を見せてその少女が答えた。
彼女とも、ユーリが母親に連れられていった先で出会った。
黒い髪に大きな黒い瞳。真っ赤な唇。ほっそりとして小柄で、目の覚めるような美少女。
だがその外観にそぐわぬ、気の強さと芯の強さを持ち合わせているところがユーリと合い、すっかり仲良くなったのだ。



「なかなか外出のお許しが出なくってな。やっと引っ張って来れたぜ」
淡い緋色の髪をした若者が、ニカっと笑って言った。
「ノリコを連れてきてくれてあんがとな、ミロク」
ユーリは何やら含みのある調子で言いながら、ミロクと呼んだ青年を横目で見やった。
ミロクは何やら赤くなり、顎をポリポリと指で掻いた。


その様子を見てユーリはニヤリ、とする。
実はこのミロク、ノリコに惚れているようで、何とかきっかけを掴みたいから協力してくれ、とユーリに頼んできていた。
その相談のために足繁くユーリの屋敷を訪れていたのであるが、今日ようやく計画を実行に移すつもりらしい。
「ま、座れよ。って、ここでいいか?それともあたしの部屋にいく?」
庭に面した階段に腰掛けるように勧めた後、ノリコにはこんなトコは悪いかと思ってユーリは言い添えた。
「いいですわよ、ここで。風が気持ちいいですわ」
ノリコは事も無げに言うと、そこに腰を下ろした。ミロクがその隣に座る。



 

―――そろそろ気を利かせてやろうかな…
しばらく談笑した後、ユーリは席を立つきっかけを掴もうと庭に目をやった。
向こうから瓶を肩に担いだセイシロウが、ゆっくりと庭を横切って歩いてくるのが見える。
―――ちょうどイイ
や。久しぶりにセイシロウと話も出来るし。

 

「セイシロウ!」
立ち上がって大きな声で呼んだ。
ノリコが何事かとユーリを見上げる。
セイシロウは少し躊躇する様子を見せたが、ユーリの前に歩いてくると瓶を横に置き、片膝を着いて座った。
「お呼びですか、ユーリ様」
「”様”は要らないって言ってるだろ!」
いつものように言い返すユーリの横で、掠れた声が聞こえた。
「…セイシロウ?」


 

ユーリが驚いて隣を見ると、ノリコがふらふらと立ち上がり叫んだ。
「セイシロウ!セイシロウですのね!」
自分の名を呼びかける、少女の顔を見上げたセイシロウの目が、わずかに見開かれる。
「…ノリコ、ですか?」
「やっぱり、セイシロウ!」


ふわり…白いトゥニカの裾を翻してノリコが階段を駆け下り、跪いているセイシロウに駆け寄る。

セイシロウの肩に両腕を投げかけると、その胸に頬を寄せた。
「セイシロウ…セイシロウ…逢いたかったですわ。ずっと…探してましたのよ、あなたを…」
その光景をユーリは黙って眺めていた。
胸がずくん…と音を立てて痛んだ。



「…久しぶりですね、ノリコ。変わりませんね、あなたは」
肩に回された白い両腕を、そっと外しながらセイシロウが言った。
「いや、ずいぶん綺麗になりましたかね?」
胸から顔を上げ、大きな瞳から涙を流しながら彼の顔を見上げる少女に、からかうような口調でそういう。
ノリコはふっと笑顔を見せた。
「…あなたも、変わりませんわ。でもずいぶん背が高くなりましたのね」
そう言ってまたその胸に頬をよせようとしたが、セイシロウはそれを避けるように、すっと立ち上がってしまった。
「すみません、ノリコ。仕事の途中ですので。ユーリ様?」
呆然と立ち尽くしているユーリに向かって、呼びかけた。
「……え?」
「…失礼します」

そう言って一礼すると、また瓶を肩に担ぎ上げ、ゆっくりと背を向けて去っていった。


「セイシロウ…」
取り残された場に座り込んだまま、ノリコが呟く。
のろのろと立ち上がり、ユーリに向かって問いかけた。
「仕事って…ユーリ様って…どういうことですの?ユーリ。どうしてセイシロウは……!」
セイシロウの後を追うように、視線を返したノリコの瞳が大きく見開かれた。
セイシロウは簡素な袖なしのトゥニカを着ている。
瓶を担ぎ持っているために、セイシロウの逞しい肩が衣服から覗いていた。
―――そこにくっきりと刻まれた焼印。奴隷の印。


「セイシロウ…あなたは!!!」
すうっとノリコの体が崩折れていく。

「ノリコ!」
ミロクが彼女の名を叫びながら駆け寄り、その体を抱きとめた。
目の前で起こる出来事を、ユーリはまるで違う世界の事のように眺めていた。




*****





目を覚ますと、ノリコは豪華な天蓋付きの寝台に横たわっていた。
「目ぇ、覚めたか?ノリコ」
ユーリの声が聞こえた。
「…ここは?私、いったい…」
「気ぃ失ったんだよ。びっくりしたぜ。急に倒れるから…」
そう答えたのはミロクの声だ。
ノリコはゆっくりと上体を起こし、ゆるゆると考えた。はっと目を開き、寝台脇の椅子に腰掛けるユーリに向き直った。
「セイシロウは?ユーリ、彼は何故ここにいますの?どうして…」
―――奴隷なんかに。そう言いかけて口をつぐむ。


「…ノリコは何であいつのこと知ってんの?」
ノリコの問いには答えず、普段の彼女には似つかわしくない、硬い声音でユーリは聞いた。
「…私と…私とセイシロウは幼馴染でしたわ」
きゅ、と腿のあたりの衣服を握り締め、ノリコは話し始めた。



―――ノリコとセイシロウは、隣同士の屋敷に生まれ育った幼馴染だった。
セイシロウの父は、貴族で王室付きの医師。
母は、彼がまだほんの幼い頃に亡くなった。
セイシロウは小さい頃から利発な子供で、教えられる事はすぐに飲み込む。
勉学だけではなく、馬術や剣術、幼くして貴族として必要とされる事柄には、全てにおいて秀でていた。

回りの大人たちは彼を神童と呼んで誉めそやし、それを誇りに思う彼の父親は、自分の行くところはどこへでも彼を連れて行った。
彼を誇りに思うのは、幼馴染のノリコも同じ事。
小さい頃からノリコは彼を慕い、いつも後を付いて回っていた。


「大きくなったらセイシロウの奥方になるんだって、言ってましたわ」
ふふ、と笑いながらノリコは言った。
ミロクの目が、すっと細くなる。


だがセイシロウとノリコが11歳の時、突然彼ら親子の姿が隣家から消えてしまった。
幼いノリコには、その理由は知らされず、ただ悲しくて、泣きながらセイシロウの姿を捜し求めた。
成長してから、ノリコはその事情の一端を漏れ聞いた。
セイシロウの父が診断を誤ったために前王が亡くなり、現在の王である王弟殿下に責任を問われて処刑されたのだと。

ただセイシロウの行方は、ノリコにはわからぬままだった―――。



そこまで話すと、ノリコはユーリの目をじっと見つめてこう聞いた。
「ユーリは?いつどこでセイシロウと出逢いましたの?何故彼は…」
「あたしが十二の時、うちの領地の市場で奴隷商人から買ったんだ」
ユーリは身じろぎもせずに、硬い声音で答えた。
「奴隷商人から…」
そう呟くと、ノリコの瞳にみるみるうちに涙があふれた。
「かわいそうに…セイシロウ…かわいそうに…」


ノリコの記憶の内にある彼は、いつも自信に満ちて真っ直ぐに立っていた。
神童と呼ばれ、貴族の子弟としての輝かしい未来を歩いて行く筈だった。
その彼が今、奴隷として肩に焼印を刻まれここにいる…


「ユーリ…彼を…セイシロウを返してくださいな。彼はこんなところに…奴隷としているべきじゃないんですわ!」
ノリコはユーリの手に自分の手を重ね、真摯な瞳で懇願した。
悠理の両手を掴み、自分の額を押し当てて繰り返した。
「お願いですわユーリ…お願いですわ…お願い…」


その情景をじっと見ていることがあまりに辛くて、ミロクは視線をそらした。
今日、ノリコに言うつもりだったのに。
自分が彼女のことをどんなに大切に思っているのかを。
なのに今、惚れた女は自分の目の前で他の男への思いを語っている。
彼が恋焦がれた大きな瞳から、涙を流しながら。
だがミロクは、
ぐっと拳を握り締めると、二人の方へ顔を向けて言い差した。
「ユーリ、俺からも頼む。そいつを…」


「…さない。」

「…え?」
「返さない!あいつはあたしが買ったんだ!あいつはあたしのものなんだ!」
投げつけるようにそう叫ぶと、ユーリはノリコの身体を押しやった。
「帰れよ!もう…帰ってよ!」
「ユ、ユーリ、ひどい…ひどいですわ!」
「よせっ、ユーリ!…ノリコ、帰ろう」
ユーリに食って掛かろうとするノリコの身体を、ミロクは後ろから押さえ、部屋の外に連れ出した。


 

部屋の中から、泣き叫ぶ声が聞こえた。



 



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