〜序章 前編〜



夏の日差しが輝いている。
町の南にある市場は大変な活気であった。


この町のはずれにある大きな屋敷の娘、ユーリは念願の市場見物に大きな瞳をキラキラと輝かせていた。ずいぶん前から「市場に行ってみたい」と言っていたのだが、堅物の兄がどうしても許してはくれなかった。
しかし、うるさく懇願し続けてやっと今日、ユーリの十二歳の誕生日の記念にと許可が下りたのだ。


 

上質の生地で作られたテュニカ(古代ギリシャ、ローマの衣装:短衣)を着、金の装身具をふんだんに着けた姿を黒いフードの付いたローブで隠し、お目付け役として召使頭のゴダイを連れ、ユーリは広い市場の中を嬉々としてあちこちへ駆け回っていた。
色とりどりの花々が売られている一角を過ぎ、細々とした日用品が並べられた屋台を冷やかし、遂にはお目当ての食べ物が売られている小路へと。



「ほら!じい、あれは何だ?」
「あれは揚げ菓子でございますよ。下々の食べ物で…」
「食べたい!買ってくれよ〜!あっ、あれは?」
「…何やら魚を蒸したもののようですが…」
「あれも食べる!あっ、あっ、あたいの大好きなスモモがあんなにっ!」
「じょうちゃま!いい加減になさいませ!」


揚げ菓子や果物を両手に山程持ち、上機嫌で歩いていたユーリは、ふと、聴き慣れない物音に気付いてゆっくりと振り返った。



―――それは、抗い難い運命の忍び寄る足音だったのかもしれない。



 

チャリ…チャリ…
目の前には、露天が立ち並ぶ市場の中で、珍しく一つとして店もない狭い空き地。
ただ中央に小さな足台が設置してあり、それを取り囲むように人垣が出来ていた。
チャリ…チャリ…
何か金属を引きずるような物音がするほうに目を向けたユーリは、思わず目を見開いた。

 

5〜6人の男女が鎖につながれて歩いてくる。
土埃に汚れた顔、虚ろな目。
裸足でどれだけの距離を歩かされたのか、足に血がにじんでいるものもいる。


目の前の光景に少し顔を顰めながらも見入っていたユーリの目が、最後尾を歩いている少年に止まった。
すらりとして背が高いが、まだ幼いようだ。
俯いているので面差しは良くわからないが、黒い真っ直ぐな髪、色が白い。
自分より少し年かさであろうか…
片足を他の奴隷たちとともに鎖でつながれ、腹の前で組んだ両の手首には荒縄が巻かれている。
長い距離を歩くのには慣れていないのかもしれない。
その足は鎖につながれているどの足よりもひどく血が滲み、膝頭には乾いた血がこびりついている。
色を失ったような白い顔の中で、そこだけ赤い唇が空気を求めて喘ぐ様に開いた。
縛り付けられたように、ユーリはその少年から目を逸らす事が出来なかった。
この少年は?何故こんな状態でいるのだろう?
裕福な家に育ち、贅沢な暮らしをしてきた彼女には、とっさに理解が出来なかった。


じっと見つめていた悠理の前で、少年の前を歩いていた女が石に躓いてよろけた。
それに引きずられたか、少年が歩みを止めた。
「もたもたするな!さっさと歩け!」
怒声と共に馬に乗った奴隷商人が鞭を振るい、俯いている少年の顔を掠める。
少年の頬にピッと赤い線が走り、すうっと血が滲む。
俯いたままの少年が、赤い唇を悔しげにぎゅっと噛むのが見えた。


「聞こえねえのか!歩けというんだ!」
奴隷商人の荒々しい怒声に、少年がゆっくりと顔を上げた。
力強い眉、すっと通った鼻筋に噛み締められた赤い唇。
ぎっと奴隷商人を睨み付ける、その黒い、黒い瞳。
ユーリは思わず息を呑んだ。


少年は身じろぎもしないで奴隷商人の顔を睨み付けていた。
その瞳に篭もる力の強さに商人は一瞬たじろいだが、やがて顔を真っ赤に上気させ、怒りのあまりに震える声で怒鳴った。

「こ、この…生意気な!」
商人が少年を打つために手に持った鞭を振り上げたその時、


「やめろーーー!」

甲高い声が響き、小さな影が少年の前に走り出て庇う様に両手を広げた。
ユーリである。
「乱暴は止めろ!」


突然目の前に現れた子供の姿に奴隷商人は驚いて目を剥き、少年を打つはずだった鞭は宙を切った。

「な、なんだ…このあまっ子が…」
奴隷商人はうわ言のように呟いたが、すぐに抜け目のない顔つきになって目の前のユーリを値踏みするようにじろじろ見出した。


走り出たために、頭にかぶっていたフードが後ろにずれ、ふわふわと明るい色をした柔らかそうな髪が揺れている。
一瞬、少年かと見まがう程に華奢な体つきだが、ふっくらとした頬が少女であることを印象付ける。
意志の強そうな大きな瞳に、怒りの余りに大きく弧を描いている眉。
色が抜けるように白く、なんともいえず高貴な面立ちだ。
黒いローブで身を覆っているから着ているものは見えないが、ローブの合わせ目から除く胸元には金の装身具が光っている。
(こいつは、かなりいい家のお嬢さんだぜ。どうやら今日はいい稼ぎにありつけそうだ)
奴隷商人はほくそえんだ。


「お嬢さん、おどきくだせぇ。お嬢さんには関係のねぇことですぜ。それとも、お嬢さんがこいつを買ってくださるとでも?」
ニヤリと嫌な笑いを浮かべ、顎を擦りながら聞いてくる商人にユーリはムッとして投げつけるように言葉を返した。
「ああ、あたいがこいつを買うよ。…ゴダイ!」
「は、はい、おじょうちゃま。」
ゴダイがあわてて人ごみを掻き分けて出てきつつ、答えた。
「あたい、こいつ買うから!お金払っといて」
と、奴隷商人のほうに向かって顎をしゃくって見せる。
「し、しかし、じょうちゃま…」


「大丈夫か?」

おろおろと嘆くゴダイに構わず背を向け、ユーリは少年に向かって囁いた。
少年は突如現れたユーリに不審そうな顔をしながらも無言で頷く。
ユーリは少年の手首に巻きついた荒縄に目をやり、慌てた様にそれを解くと少年の顔を見上げてにっこりと笑った。

少年はその笑顔に少し眩しそうな表情を見せたが、すぐに視線を下に向け荒縄の痕が赤黒く残る自分の手首をゆっくりと擦った。
「まったく、じょうちゃまときたら…ホウサクさまになんと言われるか…」
やがて奴隷商人との交渉の末に、金を払い終えたゴダイが二人の後ろから何やらブツブツと呟きつつ現れ、商人から受け取った鍵で少年の足に嵌まっていた鉄の足枷を外してやった。


「あたいの名前はユーリ。おまえは?」
ユーリは屈託なく笑いかけながら少年に問うた。
傷ついた手首を擦っていた少年が、その手を止めて真っ直ぐにユーリの顔を見つめ返す。
額に下りた前髪に半ば隠された、黒い、黒い瞳。
「…セイシロウ」
ユーリが思っていたよりも低い声で少年が答えた。
「セイシロウか。いい名前だな。よし!とにかく、今日からお前はあたいのもんだ!」




*****





市場の外に待たせていた、2頭立ての幌無し馬車にユーリはひょいと乗り込み、セイシロウに向かって声をかけた。

「ほら、セイシロウ。乗れよ!」
そう言って自分の隣をポンポンと叩く。ゴダイが慌ててそれを遮った。
「じょ、じょうちゃま!奴隷を隣になぞ座らせるものではありません!」
「へ?じゃあ、どこに座らせんだよ?」
この馬車には前に2人分の御者台が付いていて、豪華に飾り立てられた車体には座席が二人分しか据えられていない。
市場に来る時はユーリ一人が車体に乗り込み、ゴダイは御者の隣に座っていたのであるが…
「…はて、どうしたものか…」
首をひねるゴダイを横目に、セイシロウはひらりと御者の隣に飛び乗った。
ユーリがにかっと笑ってゴダイに目配せする。
「それじゃあ、じいはあたいの隣な」


もぞもぞと居心地が悪そうに小さくなって、ユウリの横に腰掛けるゴダイの心中をよそに、御者が「はぁっ!」と掛け声をかけて鞭を振るい、二頭の黒馬は走り出した。
でこぼこの多い土の道を、がたがたと激しく揺さぶられながらも馬車は進んでゆく。
ユーリはその振動をものともせず、先程市場で買い込んだスモモを齧り出した。
「うまいぞ!お前も食えよ。ほら!」
ユーリは背を向けて座っているセイシロウにスモモを差し出した。
セイシロウは振り向いてそれを受け取ったが、食べるでもなくスモモを持った手を膝に戻す。

その様子を見て、ゴダイが少し首をかしげた。
(はて?この少年…)


奴隷というものは大抵腹を空かせているものである。
まして奴隷商人の所にいた場合など尚更。
商人は金を惜しんで、連れている奴隷たちには最小限の食べ物しか与えないからである。
それなのに渡された食べ物をすぐに口にしようとはしない少年に、ゴダイは違和感を覚えたのだ。

(土埃で汚れてはいるが面立ちは整っているし、身体つきもいい。何より奴隷商人を睨み付けた時のあの眼差し…これは、生まれ付いての奴隷の子ではないな…)
ゴダイはひとつ大きな溜息をついた。
(やれやれ、じょうちゃまはまた厄介な物を買い込んだのかもしれませぬな)


 

ゴダイがそう嘆くのも無理はない。
いままでにユーリが出入りの商人たちから買い込んだもののあれこれ、
大きな亀、癇が強くて誰もその背に乗せない馬(ユーリも無理に乗ろうとして振り落とされた)
体の弱い2匹の子猫―――もっともこれは、ユーリの鍛錬の成果でいまや元気いっぱいに走り回っているが。
どうもユーリは、人から敬遠されるようなものに興味をそそられる性質らしい。
(この少年も、そのひとつですかな。やれやれ、ホウサク様に何と言われますことやら)
ゴダイは再び大きな溜息をついた。






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