激しい口付けに、清四郎は眩んだ。

悠理のすべてが欲しい。
彼女の笑顔も吐息も命さえも。

だけど、体の奥で点いた火が、彼に教える。
温かいのは、彼女と触れ合った部分だけ。
いま、ここで彼女を求めれば、連れて行ってしまう。
守りたいたったひとつのものを、決して彼女にふさわしくない場所へ。

ずっと抱き続けてきた想いが、彼女を求める。
ずっと抱き続けてきた想いが、それを押しとどめる。

まだ抱きしめた腕は解かないまま、唇を解放した。
悠理はぼんやりとした瞳で、清四郎を見上げる。泣きじゃくっていた涙の雫は、目尻で光っている。

状況を理解していない夢うつつの悠理に、清四郎は静かに告げた。

「悠理、これは夢だ」
「・・・夢・・・?」
「そうだ。僕の夢に、おまえが入り込んでしまっただけだ。だから・・・」
悠理を抱きしめた腕が震える。
「目を覚ますんだ。そして、忘れてしまえ」

最期の夢。

一目、彼女に会いたかった。
彼女を、こうして抱きしめたかった。


「何を・・・忘れるの?」

悠理は真っ直ぐな瞳で、清四郎を見上げた。
「・・・・僕のことを」
そして。
「ここで、会ったことを、すべて」
先ほどのキスも。


悠理は目を見開いて清四郎を凝視している。
清四郎は最期の、渾身の勇気を振り絞り、彼女の体を離した。
もう、これ以上悠理を抱いていたら、取り返しのつかないことになる。
悠理も戻れなくなる。

それでも、離したくはないと、心は叫んでいた。
悠理が欲しい。ここで尽きる命なら、最期の願いを叶えて欲しい。
悠理とひとつになりたい。
ふたり、このまま雪の中で溶け合って消えてゆきたい。

それは、暗い願望だった。
自分勝手な執着であることは、清四郎もわかっていた。

だから――――『愛してる』とだけは、言えない。
言ってはいけない。


「清四郎・・・」

悠理に背を向け、清四郎は雪の中をふたたび歩き始めた。
冷たさを感じなかった雪原の寒さを初めて感じる。
悠理の心のように真っ白な雪原に背を向け、白樺の林に足を向けた。
ざくざくと、雪に足を埋めながら雪の森に分け入る。
「清四郎!」
悠理の呼ぶ声にも、足を止めなかった。
「おまえは、帰れ。僕にかまうな!」
背中を向けたまま、清四郎は叫んだ。

まるで、暗示をかけるように、清四郎は悠理に忘れろと告げたけれど。
上手くいったとは思わない。
清四郎自身の感情が邪魔をして。

忘れろ、と言いながら、心は叫んでいた。
忘れないで欲しい、と。

清四郎が、悠理を愛したことを。

愛しているから、ひとりで、逝くことを。
 
 

 
 
 

**********






悠理は呆然と、清四郎の背を見送っていた。
抱きしめられた温もり。
激しい口付け。
頭の芯が、まだ痺れている。

悠理はぶるると身を震わせた。
自分の両肩を思わず抱きしめる。

はっきりと、わかった。
あんなふうに抱きしめられたかったのだと。
清四郎に。清四郎だけに。

だけど、胸が引き裂かれるほどの痛みを感じた。
不安に。
そして、体が凍りそうになるほどの、恐怖に。

「清四郎!!」

悠理の叫びにも、清四郎はもう答えない。
はっきりとした拒絶を、向けられた背は示している。
いつでも、からかってばかりで、意地悪で。
それでも、悠理を見つめる黒い瞳は優しくて。
包み込んでくれる腕は、温かくて。
悠理は清四郎に拒絶されたことなどこれまで、なかった。

悠理を突き動かしたのは、耐えられないほどの感情。
不安。
恐怖。


悠理は雪に足を取られながら、走り始めた。
木立の間に見え隠れする彼を追って。

「清四郎!清四郎!」

叫んで、大きな背に体当たりする。
冷たくなった体に腕を回す。
絶対に、離すものかと決意していた。

許さない。
拒絶も、ひとりで去ることも。

悠理の全身全霊――――命を懸けても。

きつく抱きしめた大きな背が、衝撃に震え、凝固した。
悠理の手など、彼ならば振り払えるだろうに、清四郎は動かなかった。
腕の拘束を解かないまま、背後から顔を見上げる。
清四郎は唇を引き結び、顔を歪めていた。
見たことがないほどの険しい表情。
怒りゆえにか、口元が震えている。
悠理は少し怯んだけれど、腕を解かなかった。

「おまえが行くなら、あたいも行く!」
「・・・・・・っ!」
清四郎が弾かれたように振り返った。
悠理の腕は、強い力で振り払われる。
それでも、もう一度懸命に手を伸ばした。
「馬鹿!」
怒鳴りつけられた。

彼に向かって伸ばした悠理の手首を、大きな手がつかんだ。
痛いほどに。
怒りに震えながら。

真正面から見た清四郎の顔は、ひどく険しかった。
だけど。
見つめる黒い瞳は、泣き出しそうな幼子のように潤み揺れていた。


 


 

  **********






もう、だめだ。


清四郎は、悠理を見つめた。

もう隠せない、心情をあらわにしたまま。

悠理の言葉は、かつて亡霊とともに去ろうとしていた可憐に向けられたものと同じ。
友情から出た言葉。友情からの抱擁。

だけど。

そう理性では判っていても、清四郎はもう、耐えられない。隠すことが出来ない。
見つめる悠理の色の薄い瞳が、驚愕に揺れていた。
それは、きっと。
初めて目の当たりにした男の心情に。
抑えることなどできない想いが、きっとすべて伝わったことだろう。

――――慈しみたい愛だけでなく、奪いたい欲望も。



清四郎は無意識のうちに悠理の手首をつかみ、木に押し付けていた。
華奢な体が身じろぐ。
「お願い・・・・清四郎」
悠理の口から漏れたのは、哀願だった。
「お願いだから・・・あたいから、離れないで。ずっとそばにいて!」
悠理に触れた手が熱い。
もう指先まで冷たくなっていたはずなのに。
「抱きしめてよ・・・・さっきみたいに」
悠理の言葉で、体が暴走した。

もう、我慢はできなかった。

抱きしめて、深く口付ける。
清四郎は悠理の息をすべて奪った。
命まで、奪いたいと思った。

視界が真っ白に染まる。
静かな雪原が広がっていた空間に、風花が舞う。
白い闇が周囲を覆う。

清四郎は口付けたまま、悠理を雪の中に横たえた。
コートの背が雪に沈む。
それでも、この雪は冷たくはない。
「・・・ん」
悠理のセーターをめくり上げ、手を差し入れた。
柔らかで温かな体が、震えている。
唇を解放すると、吐息が漏れた。
白い息。
赤く染まった頬。

潤んだ瞳が戸惑いに揺れている。
「せいしろ・・・」
「僕が、怖い?」
もう、清四郎は止めることなどできなかったのだけれど。

悠理は首を振った。
「清四郎の手、冷たい・・・」
悠理は小さな両手を清四郎に差し出した。
温かな掌が男の頬を包む。
「こんなに冷たい・・・・」
悠理は清四郎の頬を何度も擦った。
胸に差し入れた手で小さなふくらみを愛撫しながら、清四郎は微笑んだ。
「おまえは、温かいな」
敷かれた悠理のコートの上で、彼女の衣服を脱がせてゆく。
悠理の肌を外気に晒しても、きっと寒くはないだろう。
この世界で、一番冷たいのは、清四郎自身の体だろうから。

白い雪の中で、露にした白い体。
恥じらいにほのかに染まった肌に、震える手で触れる。
「あ」
桃色の胸の先にたまらず唇を寄せると、小さな声が上がった。
吸い上げ舌で嬲りながら、ゆっくりともう一方の胸を揉みこむ。
小さなふくらみは、まだ青い果実のように見えて、信じられないほど柔らかだった。

これは現実の悠理じゃない。

白い雪のような彼女を汚すことにはならない。

どこかにある、そんな卑怯な思考を自覚する。
だけど、彼女の甘い匂い、感触。
清四郎にとっては現実だった。
おそらく、この世での最期のときの。
 
 




**********






悠理のすべてを感じたくて、体中に口付けを降らす。
甘い肌を舌で味わう。
彼女の体が震えるのは、冷たさのためではなかった。
もう悠理に触れる清四郎の指先は温もりを取り戻しているのだろう。
それが、欲望からくる熱だとしても。

まだ唯一脱がしてはいない下着に隠された、秘められた場所にまで指を這わせる。
掌を差し入れ、包み込みながら、中指で狭間を撫でる。
そこはしっとりと潤み、温かだった。
命の泉。
指先にあたる小さなしこりをくすぐると、悠理の体がびくびく震えた。

「せ、清四郎・・・」
悠理の手が、清四郎の動きを制した。
上気した頬、泣き出しそうな瞳。
重ねられた体を押し戻すように、悠理は両手を清四郎の胸に当てる。
しかし、怖れと戸惑いゆえにだと思っていた彼の目は、驚きに見開かれた。
おずおずとした動きではあったが、悠理の指先が、清四郎の着衣を脱がしてゆくから。
不器用な指が、清四郎の肌に触れる。

「・・・おまえ、こんなに冷たくなっちゃってるよ」
目の下を真っ赤に染めた悠理は、清四郎を真っ直ぐ見つめた。
潤んだその目には、強い意志の光。
「温めてあげる。あたいの、熱をあげる」


――――熱を、命をあげる――――


それは、そういう意味であったのか。
悠理はむき出しの清四郎の胸に、そっと唇を寄せた。

胸の中に点った火が、火傷するほど熱く焼く。
彼女への想い以外は、もう運命をなかば受け入れていた彼の内側を。
諦観に凪いでいたはずの、雪原を。

舞い散る風花。

周囲は白い嵐。
静謐で清潔な雪原は、もう見えなかった。
悠理に煽られたのは欲望ではなく。
清四郎が押し殺してきた、叫びだしたいほどの激情だった。

理不尽な運命に対する、それは、怒りに似た感情だったのかもしれない。
体が熱を宿す。
衝動のまま、清四郎は悠理に身を重ね、深く侵入した。

ろくに、前戯もないままの乱暴な動き。
無垢な彼女を、傷つける。
奪い、蹂躙する行為。

そのはずなのに。

清四郎は、悠理に包まれた。
あまりの心地よさに、眩暈がする。
「せいしろ・・・清四郎」
喘ぐように名を呼ばれ、快感に眩む。

これは、現実の行為ではない。
心だけの、セックス。
彼女が彼を受け入れる限り、傷つくことはない。

奪うのではなく、結ばれる。
セックスが、そういう行為なのだと、清四郎は初めて知った。

悠理の心を感じる。
重ねた肌から。深く繋がったところから。
悠理の熱が清四郎に伝わる。

――――ずっと、そばにいて。抱きしめて。

「悠理・・・・悠理」
たまらず、清四郎は悠理をきつく抱きしめ、より深く体を重ねた。
「清四郎・・・」
悠理の細い腕が、清四郎の頭をかき抱く。

唇を合わせ、最奥をなおも求めた。
抱きしめているのは、どちらなのか。
包まれている。一つになる。
体と心の深いところが溶け合う。

「大好きだよ、清四郎・・・・」

悠理の言葉に、最後の枷が外れる。
あふれ出したのは、心。零れたのは涙。
愛しくて、愛しくて。
合わせた頬から流れ、ひとつになった涙の粒が、悠理の頬を転がり落ちる。
雪を溶かす、熱い雫。

もう、彼の目には雪原は見えない。

清四郎の胸に点った火は、身を焦がすほどの感情を呼び起こした。
理不尽な運命に対する、反逆。

悠理を死なせはしない。

そして、彼自身も、諦めない。

初めて、清四郎は心の底から切望した。
――――生きたい、と。


悠理のそばで、ずっと、彼女とともに生きていたいと。


強く、強く。

 



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