「ほらそこ、違うでしょう?公式を良く見ろ」 「見てるけどわかんないんだよぉ。あー、腹減った!何か食わせて、清四郎ちゃあん!」 「駄目です。食べたら血液が胃に集まって、頭の働きが鈍くなりますからね」 「うーーーっ!」 「吼えても駄目です」
悠理が、ガシガシと頭を掻き毟る。清四郎は、ぴしり、と冷たい言葉を吐く。 明日の数学の小テストに備え、清四郎が悠理に勉強を教えている。 いつもの、生徒会室での光景。
部屋の中に漂うのは、可憐がさっき淹れたアール・グレイの香り。 テーブルの向かい側では魅録がバイク雑誌を読みふけり、美童は野梨子にお勧めの美術館や画廊などのレクチャーを受けている。どうやら、今度の相手は美大の学生らしい。
全くもって、普段どおりの光景。 全くもって、普段どおりのメンバー。
その、普段どおりの、当たり前の光景に頭を悩ませている人間が一人。
「St.Valentine's
Dayの奇跡」
可憐は、自慢の髪のカールを指で巻きながら、、一週間前のバレンタインディの日のことを思い出していた。 毎年のように、たくさん貰ったチョコを抱え、わざとらしく嘆いてみせる美童に呆れつつ、部室のドアを開けたときに見た光景。 テーブルの上に積み上げたチョコを前に、何故か顔を赤くしている悠理と、ノートパソコンを開いたまま、固まっているように見えた清四郎。 一瞬違和感を感じたものの、すぐに悠理はいつもの調子でチョコを片っ端から平らげ始め、清四郎は清四郎でリズミカルにパソコンのキーボードを叩き始めた。 さっきの空気は気の所為だったかと、可憐は思ったのだったが。
その後、清四郎の斜め前に座った可憐の目に映ったのは、パソコンの陰に隠れていた、薔薇色の包み。 そして、その包みを大事そうに、そっと鞄の中にしまう清四郎。
―――あれは…私が悠理に渡したチョコだったわよねぇ。
見間違えるはずはない。あの薔薇色の薄紙も、あれやこれやと悩んで決めたものだったのだから。
―――けど、悠理が清四郎にねぇ。
「あんたにだって、チョコを渡したい相手の一人くらい、いるでしょ?」 そう言って、悠理にチョコを渡した時、まさか彼女に好きな男がいるとは思ってもいなかったのだ。 きっと、万作おじさまか豊作さん、あるいは五代にでも渡すだろうと思っていた。 だが思い出してみれば、あの時一瞬、悠理が微妙な表情を見せていたような気がする。 それにしても、悠理がそのチョコを渡した相手が清四郎とは。
―――よりにもよって、ねぇ。
悠理と気の合う魅録でもなく、、女扱いの上手い美童でもなく、清四郎。 何でもソツ無くこなしはするが、恋愛に対しては朴念仁。本気で女に惚れる事など、出来そうにもない男。 そんな男に、チョコを渡したということは、悠理は彼に惚れているのであろうか。だとしても…
―――こいつらの雰囲気の変わらなさときたら、どうよ?
また問題を解き間違えたらしい悠理の頭を、清四郎が裏拳で小突く。 ふぇ、と泣き声を上げながらも、悠理は清四郎の隙を見て、素早くテーブルの上の煎餅を口に入れている。 とても恋する少女と、彼女から思われている相手には見えない。 どう見たって、ペットと飼い主、お釈迦様と孫悟空。それ以上でも、それ以下でもない。
普通、バレンタインのチョコをあげた方はその後の展開を期待するだろうし、貰った方も相手に対して何らかの態度の変化がある筈。 しかし、この二人にはそういった様子が全く見られない。
―――あのチョコには、そういう意味はなかったって事?
何と言っても、あの悠理だもの。たいした考えもなしに、本能的に渡してしまったのかもしれない。 あるいは―――賄賂のつもりとか。 そう考えて、可憐はいやいやと首を振った。 そんなことはありえない。あの時、悠理と清四郎の間に漂っていた空気。 それは、自称「恋愛の達人」である可憐には、ひどく馴染み深い空気だったのだから。
―――これは…確かめてみなきゃね。
「清四郎、ちょっと話があるんだけど」 善は急げ、思い立ったが吉日。可憐は敢然と立ち上がると、清四郎に言い放つ。 その妙な迫力に、仲間達は何事かと顔を上げ、悠理は手に持っていたシャーペンをぽとりと落とした。
「はぁ…」 清四郎は、シャーペンを拾って悠理に渡しながら、不審げに口の端を少し下げて見せた。
*****
「で、僕に話ってなんです?」
放課後の、図書室の一角。 窓枠にもたれるように立ち、清四郎は軽く腕を組んだ。
「単刀直入に聞くわ。悠理に、チョコを貰ったでしょ?」 「…悠理から、聞いたんですか?」
探るように、清四郎は上目遣いに可憐を見つめた。 不安げな様子が、その漆黒の瞳の奥に揺らいでいる。ポーカーフェイスを誇る男らしからぬ、様相。
「あのチョコ、私が悠理に渡したんだもの。あんたにも、チョコをあげたい相手くらいいるでしょ、って」 「そうですか、あれは、可憐が作ったものでしたか……道理で、市販品ではないようだし、悠理が作ったにしては…と、思っていたんです」 得心がいったように何度か頷き、ふ、と顔を上げると、にっこりと笑った。
「おいしかったですよ、あれ」 「……」
その言葉と笑顔に不意を突かれ、可憐は一瞬口ごもった。 「……あれを作ったとき、悠理にチョコを刻むのを手伝ってもらったのよ」 「悠理も、手伝ったんですか」 嬉しげな、笑みが零れる。
―――いやだ、やけに素直じゃない、コイツ。
何としても、清四郎の本心を抉り出してやろうと意気込んでいたのに、肩透かしを食らったようだ。 先程、部室で悠理に対しているときは、いつもどおりの小憎らしい男だったのに、今目の前にいる彼は、まるで……
「…悠理が、好きなのね?」 「…そりゃ、好きですよ。大切な友人ですから」 当然だと言わんばかりに、平然とした口調で言い返された。やっぱり、素直じゃない。
「そうじゃなくって、悠理があんたにあれを渡すには、相当の勇気が要った筈よ。それを、なかったことにするつもりなの?」 「可憐、あなたならわかってくれると思いますが…」 勢い込んだ可憐を止めるかのように、軽く片手を挙げる。
「悠理と付き合うということは、僕のこれからの人生の、全てを決めてしまうということなのですよ」
確かにそうだ。清四郎が家業を継ぐために医者になるつもりなのかどうかは知らないが、悠理と付き合いだしたとなれば、悠理の両親は黙ってはいまい。 やれ婚約だ入籍だと、一刻も早く剣菱の後継者を確保しようとしはじめるだろう。 今、悠理と付き合うと決めることは、現時点で彼の将来を決めてしまうということなのだ。 でも、それでも―――
「悠理の気持ちを考えてやって欲しい」 可憐はそう、言おうとした。 さっき、清四郎が悠理にシャーペンを拾って渡してやった時、二人の指先が一瞬触れた。 その時に、悠理の顔に浮かんだ切ない表情を、可憐は見逃さなかったから。 必死に隠している、悠理の願望に気付いたから。 だが、清四郎の顔を正面から見据えた時、可憐は思わず口をつぐんだ。
清四郎は窓枠に凭れ、腕組みをしたまま。軽く唇を噛み、視線を下に落としていた。 考え深げな表情なのに、その顔にはいつものような「老成した」様子は見られない。 年相応の、青年の顔。初めての感情に戸惑う、少年のような、顔。 それは、さっき悠理の顔に浮かんだ表情と、ひどく似ていて……
可憐の口角が、ゆっくりと上がっていった。 男の心を騒がせる、妖艶な美貌に浮かんだのは、まるで聖女のような、慈愛に満ちた微笑。
「清四郎、あんた…怖いのね?」 「は?」
弾かれたように、清四郎の視線が上がる。黒い瞳が、すっと細くなる。
「悠理の気持ちが、つかめないんでしょ?無理ないわ、あの子ときたら、あんたに対しては、何にも態度に出そうとしないんだもの。あんたが覚悟決めても、悠理にそこまでの気持ちがなかったら、と思うと、怖いんでしょ?」 「………」 「心配しなくていいわ。あの子は、本気であんたが好きよ。この私が言うんだから、間違いないわ」
自信満々にまくし立てる可憐から、清四郎は視線をそらし、ゆっくりと顔を横向けた。 窓から差し込む西日に、眩しげに細められた目の下が赤く見えるのは、夕陽の所為ではないだろう。 端正な、その横顔に浮かんでいるのは、可憐の良く見知った色。 明らかな、恋の色。
可憐には、何故悠理がこの男の事を好きになったのかが、良くわかるような気がした。 「あたいよりも強い男」という条件を、満たしているからというだけではない。 両親と年の離れた兄に、ひどく愛されて育った悠理には、寂しがり屋で甘えたなところがある。 清四郎なら、そんな悠理を愛し、包み込み、一生を通して守り抜いてくれるだろう。 朴念仁でもなく、情緒障害者でもない。一生に、ただ一人の女しか愛せない男。 清四郎は、そういう男だから。そして悠理も同じ、一生に、ただ一人の男しか愛せない女だから。
やがて、清四郎が可憐に視線を戻した。いつものような、余裕たっぷりの表情に戻って。
「…お返しは、何がいいんでしょうね?」 「そりゃ、食べ物に決まってるわよ」 「それは、そうですね」
声を上げて笑い出した清四郎を、可憐は暖かな瞳で見つめた。 何気なく、悠理に渡したあのチョコが、二人の内に眠っていた、こんな素敵な感情を引き出したのだ。 それはまるで奇跡のように。
最初で最後の恋を、自覚し始めた親友二人がうまくいくことを願いながら、可憐はそっと胸の中で呟いた。
あーあ、私も恋がしたい、と。
end (2006.2.23)
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