今年の冬は、とびきり寒い。
今も、小雪の舞い散る中、悠理は一人、街を歩いていた。 ジャケットのポケットに手を突っ込み、首に巻いたマフラーに顔を埋めるように俯き、ぎゅっと眉根を寄せた、考え込むような表情で。 左腕に下げた小さな紙袋が、彼女の歩みと共に揺れる。
―――その中身が、彼女の表情の理由。
「St.Valentine’s Dayを、あなたに」
悠理がふらりと可憐の家に立ち寄った時、可憐はキッチンで奮闘中であった。
「ほよ?可憐、何やってんの?」 「何って、明日、本命の彼に渡すチョコを作ってるんじゃない!」
花柄のエプロン姿も華麗に、可憐は刃先が波型になった包丁で一心にチョコを刻んでいた。
「へ〜、どんなのができんの?」 悠理は舌なめずりをしながら、後ろから覗き込んだ。 「ちょっと、あんたも手伝ってよ。こっちのチョコをこれで細かく削って!」 「へ?あ、あたいがやんのか?」 「そーよ。それならあんただって出来るでしょ?」
可憐から渡されたのは、チョコの固まりと皮むき器。悠理はおっかなびっくり、皮むき器でチョコを削りだした。
「あ、削れた!おっもしれ〜♪」 案外簡単に、するすると削れ落ちていくチョコに感嘆の声を上げると、悠理は猛烈な勢いで削りだす。 「削れたよぉ、可憐。もっとない?」 「あら、早いわねあんた。じゃあ、こっちもお願い」
悠理が鼻歌交じりで削ったチョコを、可憐が湯煎にかけて溶かし、温めておいた生クリームとよく混ぜる。 そして、あら熱が取れたところでオレンジリキュールを加え… 横から伸びてくる悠理の手を何度もかわしながら、可憐は様々なトッピングを施したトリュフを作り上げた。
「出来上がり〜、さ、あんたも食べていいわよ」 可憐が小皿に取ってくれたトリュフを、悠理はひとつ口に放り込んだ。 「んんっ、んまいっ!」 口の中でさらりととろけるチョコレート。 ほんのりスィート、ちょっぴりビター。そして、口中に漂うオレンジの香り。
悠理が次々に平らげていく横で、可憐は幾つかの箱にトリュフを彩りよく並べ、薔薇色の薄紙を幾枚か重ねて包み、リボンと小さなバラの造花をあしらっていく。
「なんか…数が多くない?”本命チョコ”って言ってなかったっけか?」 「バカね、本命は一人とは限らないでしょ」 「?????」
得心出来ぬ様子の悠理に構わず、可憐はシックな紙袋にラッピング済みのトリュフを一箱入れると、悠理に差し出した。
「はい、あんたにも」 「え、あたいにもくれんの?」 「ええ。いっぱい手伝ってもらったし。それに…」
可憐は、ふわりと笑った。
「あんたにだって、チョコを渡したい相手の一人くらい、いるでしょ?」
*****
―――チョコを渡したい相手。
いつもなら、その言葉を笑い飛ばしていただろう。 「何言ってんだよ。いるわけないだろ、そんな奴」と。 けれど可憐にそう言われた時、浮かんでしまったのだ、悠理の頭の中に。
意地悪で、嫌味で、傲慢で―――優しい。 幼馴染で、悪友の、あの男の顔が。
「…なんで、あいつなんだよ」
悠理はそう呟くと、足を早めた。 気の合う魅録でも、優しい美童でもなく、清四郎。 チョコなど上げても、たいして喜んではくれそうにない男。
毎年バレンタインの日には、悠理や美童ほどではないにしても、清四郎もかなりの数のチョコレートを貰っている。 彼の生徒会長としての凛々しい姿や、外面の良さに憧れる女生徒は数多いのだから。 しかし、清四郎が貰ったチョコレートを食べることはない。
「甘いものは、あまり好きではなくてね」 そう言って、悠理にくれるのだ。毎年、全部。 「バレンタインにチョコレートを贈るなんていう習慣は、日本だけのものですよ。もともとは……」 と、行事に対する薀蓄を語りはしても、その口で恋を語ることなど、しない男。
だから、あいつにチョコを渡すなんて、無駄なこと。 第一、あいつのことが好きとかそんなんじゃないし。 今のままでも、そばにいられるし、大きな手で、頭を撫でてもらえるし。
だから―――食べてしまえばいいんだ、このチョコは。こんな、わけのわからない感情は、一緒に飲み込んでしまえば。
そう結論付けると、悠理はぐっと顔を上げて早足で家路を急いだ。
はらはらと、空から舞い落ちる雪の花に目をしばつかせながら。
*****
2月14日、晴れ。 この日を、悠理はこんなにフクザツな思いで迎えたことはなかった。
―――食べてしまえばいい。 そう思った筈のチョコレートは、手付かずのまま。
きっと、渡せはしない。清四郎と二人っきりになる時なんてない。 だから、これは部室で、皆と一緒に食べるんだ。「可憐が作るの、あたいも手伝ったんだじょ〜」って。 皆も、…清四郎も、きっと喜んで食べてくれるに違いない。
悠理は自分にそう言い聞かせ、チョコを鞄の中に押し込んだ。
何か行事ごとのある日というのは、一日が早く過ぎるもの。 バレンタインのこの日も、悠理は朝登校するやいなや、彼女にチョコを渡そうとする女生徒達に囲まれ、休み時間も昼休みも彼女達の攻勢に追われ、瞬く間に放課後を迎えた。
生徒会室の大きなテーブルの上に、悠理は今日一日に貰ったチョコを積み上げ、一つ一つ手に取って眺めた。 ロイズ、ゴディバ、ピエール・マルコリーニ…有名どころの華麗な包装のチョコから、いかにも手作りな微笑ましい感じを受けるチョコまで。 いつもなら、チョコを味わうことにしか興味が行かない悠理だが、今年はこれをくれた少女達の気持ちに思いをはせた。
皆、なんで「チョコを渡したい」って思うんだろう? あたいと付き合いたいとか、本気で思ってるわけでもないだろうに。 イベントだからか?それともノリで?
「おや、悠理一人ですか。魅録は?」
ガチャ、とドアが開き、清四郎が一人で入ってきた。 考え込んでいた悠理の胸が、ひとつ大きな音を立てて跳ねた。
「…なんか、チョコ渡したいって女達に引っ張られて行った。…野梨子は?」 「ほう、もてますな、魅録も。野梨子は今週、週番でしてね」 そう言いながら、清四郎は紙袋に入った大量のチョコを、悠理の前に置いた
「はい、これもどうぞ」 「…あんがと」 「食べ過ぎて、お腹を壊すんじゃありませんよ」
その言葉に、悠理は少し切ないような気持ちになった。 まるで、ペットか幼い子供に対するような、その台詞。 「うるさいな、大きなお世話だ」 ふてくされたように唇をとがらせて、そう言い返そうとした時…
くしゃ。 清四郎が微笑んで、悠理の髪を掻き回した。いつものように、優しい目で。大きな、暖かい手で。 これをされると、何も言い返せなくなる。無条件に安心してしまう。この世に怖いものなど、何にも無いような気になる。
―――そうか。やっぱりあたいは、清四郎が好きなんだ。
いきなり、悠理の心に答えが湧いた。 意地悪で嫌味も言うけど、いつだって悠理のことを気にかけていてくれる。困っていたら、助けてくれる。 どんな問題だって、驚くようなアイディアと手腕で解決してくれる。 清四郎がいる限り、「有閑倶楽部に不可能は無い」と、信じさせてくれる。 清四郎の持つ、人間としての強さと度量の大きさが、いつも悠理を安心させ、自由に飛び回らせてくれるから。
―――だから、あたいは、清四郎にチョコをあげたいんだ。
切ない気持ちと入れ替りに、胸の底から強い思いが湧き上がった。 清四郎に渡したい。チョコレートを、バレンタイン・ディという、この特別な日に。 この感情が恋なのかどうかは、まだわからないけど。
「清四郎」 「?」 悠理の向かいに座り、ノートパソコンを開きかけていた清四郎が、顔を上げた。
「これ、やる」
ポンと目の前に置かれた薔薇色の包みに、清四郎はきょとんとした顔をすると、真っ直ぐに悠理を見た。 「これは…?」
「ああ〜、参っちゃうよなぁ。三限目の前なんて、始業のチャイムが鳴っても女の子たちが退かなくってさぁ、先生に睨まれちゃったんだよね〜」 「はいはい、良かったわね。お手軽な男にはチョコを渡しやすいものね」 「あら可憐、それはあんまりですわ。お手軽な男でも、本命に渡す前の予行演習にはなりますでしょう?美童も役に立っていますのよ」 「…ってそれ、キツいぞ。野梨子」
にぎやかに話しながら入ってきた仲間たちに、清四郎は口をつぐんだ。 悠理も、いつもの朗らかな表情に戻って仲間達の会話に加わった。
「まぁ、悠理もたくさん貰いましたのね」 「うん!野梨子も欲しかったら、一つくらいならなら分けてやるぞ」 「おまえなぁ、そんな一杯あるのに一つだけしか分けられないのかよ…」 「数は悠理の方が多いけど、質は僕の方が上だね」 「何言ってんのよ。質も数も悠理のが上よ」
野梨子がお茶を入れる為に席を立つと、可憐と美童は今日の互いのスケジュールについて話し出した。 魅録は窓辺に立ってギターをいじりだし、悠理は貰ったチョコの包みを開ける。 清四郎はパソコンのキーボードを、軽やかな手つきで叩き出した。
いつもと変わりない、放課後の風景。上機嫌で、悠理はチョコレートを口に放り込んだ。 悠理の心は、今やすっかり満たされていた。 清四郎に、チョコを渡すことが出来たから。 昨夜からもやもやしていた感情に、整理がついたから。
「悠理」 清四郎に低い声で名を呼ばれ、悠理は目を上げて彼の顔を見た。
「ありがとう」
パソコン越しに、そっと囁かれた一言。
悠理はニッと笑って、頷いた。
ハイ、続きます。(^_^.)
清四郎と悠理は互いに惹かれあって当然だと思っているので、今までその理由など書いたことが無かったのですが(←手抜き)、今回ちゃんと書いてみようと思ったらドツボに嵌りました。萌えどころの無い話ですみません。
後もう一話、ヘタしたら二話ほど話が続きまして、ホワイトデーで完結予定。 どうぞお付き合いくださいませ。m(__)m
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