翌朝、僕は生徒会の仕事を片づけるため、早目に登校した。 案の定、悠理は施錠するのを忘れたらしい。鍵を出すまでもなく、ドアは開いた。彼女らしいといえば彼女らしいので、小言は止めようと思いながら、パソコンを立ち上げる。 朝は、頭もよく回るし、誰も居ないため、仕事の効率も上がる。放課後、悠理と顔を合わす時間を少なくするためにも、朝のうちにある程度の雑務を片づけておきたかった。
魅録の体操服に向かって、好きだ、と人知れず告白していた悠理。
誰かを想う悠理を暖かく見守れるほど、僕は修行を積んでいない。 なのに、仕事をはじめてすぐ、部室に悠理が現われた。
「あれ?せいしろ、もう居たの?」 「悠理こそ、やけに早いじゃないですか。」 「いや・・・昨日、鍵を掛けるの忘れてたから、早く来て閉めようかな、なんて。」 つまり、隠蔽を図ったわけである。しかし、早く登校して鍵を閉めようとしただけ、進歩はしている。以前の悠理ならば、鍵を掛け忘れたことすら忘れていただろうから。 僕は書類に視線を落とし、悠理から顔を逸らしたまま、言った。 「僕が鍵を掛けますから、悠理は教室に戻って結構ですよ。」 我ながら、冷たい口調だと反省するが、一度飛び出した言葉は元に戻らない。 「鍵を閉め忘れたことなら、責めるつもりはありませんから、気にしないで下さい。悠理に頼んだ僕が悪かったのですから。」 僕がそう続けると、悠理の顔から、表情が消えた。
イラスト By たむらんさま
違う。僕は、悠理に冷たい言葉をかけたいわけではない。悠理を傷つけたいわけではない。なのに、心とは裏腹な言葉しか出てこない。
悠理は、今にも泣き出しそうな顔で、僕を見つめている。 「せいしろ・・・もしかして、あたいのこと、嫌い?」 意外な言葉に、僕は驚きのあまり息が止まりそうになった。 「嫌いだなんて、とんでもない!僕は・・・」
僕は、悠理のことを。
でも、悠理が好きなのは。
僕は、言葉を呑み込んだ。
「悠理は、僕の大事な友人ですよ。嫌いなはずありませんよ。」
あたいは、今まで「友人」って言葉が大好きだった。 そう言われると、その人の、「特別」に入っているような、面映くて、誇らしい気持ちになれた。でも、その言葉が、こんなに残酷に響くなんて、生まれてはじめて、知った。
清四郎は、あたいから顔を逸らして、手にした書類に眼を落とした。 「悠理は、今のままでも十二分に魅力的です。だから、きっと魅録も、貴女を憎からず思っているはずですよ。」 どうして、いきなり魅録の話になるんだろ?あたいは馬鹿だから、清四郎の考えが理解できない。でも、清四郎の言葉が、あたいの心を切り刻んでいるのは、はっきりと分かった。 清四郎が、こちらを向いて、にっこりと微笑む。 「大丈夫。悠理と魅録は、きっと幸せになれます。」
好きなひとから受ける、此の世で一番残酷な仕打ち。 それは、好きなひととは違う男との恋の成就を願われること。
人間って不思議だ。 心を抉られているのに、あたいは何事もなかったかのように、笑っている。 泣き叫んで、詰りたいくせ、馬鹿みたいに、笑っている。
「お前の大丈夫って、何か、アテにならないんだよな。だって、いっつもあたいが酷い目に遭うじゃん。」 「それは、悠理が無鉄砲すぎるせいですよ。」 清四郎の微笑が、哀しげに、歪んだ。 「だから、悠理には、魅録みたいにしっかりした男が必要なんです。」 そのあと、清四郎のくちびるが、もの言いたげに、戦慄いた。だけど、清四郎は、何も言ってはくれなかった。
二人の視線が絡む。吐息が、止まる。
可憐が言っていた。 恋をしたら、幸せな気分になれるって。胸がどきどきして、毎日が楽しくなるって。 なのに、あたいの恋は、苦しいだけ。楽しくなんか、ちっともない。
あたいは笑いながら、気がついたら泣いていた。
声は震えていないだろうか?表情が強張ってはいないだろうか? 悠理に向かって明るく話しかけながらも、内心は、秘めた想いを気取られないか、心配で仕方なかった。 笑っていた悠理のくちびるが、ほんの少し、歪んだ。 異変に気づいたときには、彼女の大きな瞳から、涙が溢れ出していた。 「悠理?」 僕の怪訝な声に、悠理はようやく自分が泣いているのに気づいたらしい。慌てて手の甲で眼を拭い、がはは、とがさつに笑った。 「いやだなあ、何であたい泣いてるんだろ?馬鹿だから、分かんないや!」 明るくそう言って、悠理は笑いながら泣いていた。 そんな彼女を見た瞬間、僕の中で、必死に保っていた理性の糸が、ぷつんと切れた。
明るい朝の陽光の中、テーブルから滑り落ちたペンケースが、がちゃんと音を立てて床に落ちた。
僕は、その音を聞くより早く、悠理を抱きしめていた。
待ち望んだ清四郎の腕の中にいるのに、現実感がなかった。 あたいは、停止した思考で、必死に考えた。この腕は、あたいのものじゃない。清四郎は、あたいを何とも思っちゃいない。だから、この腕の中にいたらいけないと。
「・・・は、な・・・」 離せ、って言いたかったのに、上手く声が出なかった。 振り払おうと思えば、簡単に振り払える、緩い束縛。なのに、どうしても振り払えなかった。あたいは、清四郎の腕の中、どうすることも出来ず、ただ、涙を流していた。
突然、清四郎が離れた。
「―― すみませんでした。」 俯いた顔に、前髪が乱れかかって、表情が見えない。 「情緒不安定な貴女を抱きしめるなんて、最低ですね。」 言いながら、清四郎は屈んで、床に散らばったペンを拾いはじめた。 「言い訳にしかなりませんが、どうやら僕も情緒不安定なようです。今のことは、どうか忘れてください。」
あたいの頭の中は、真っ白になった。
震える拳を握り締め、涙で滲んだ清四郎を、きっ、と睨む。
「・・・清四郎なんか、大嫌いだ。」 あたいが他の男とくっつくように願う清四郎なんて。 「馬鹿、馬鹿、大嫌いだ。」 好きでもないくせ、勝手に抱きしめて、勝手に謝る清四郎なんて。 「お前なんか、死んじゃえ・・・清四郎なんか、清四郎なんか、大嫌いだ!!」
あたいはそう叫ぶと、部室から飛び出した。 とにかく、あの場所にいるのが耐えられなかった。清四郎の近くにいるのが、苦しくて堪らなかった。だから、逃げ出した。 後ろから名を呼ばれたけれど、振り返らずに、階段を駆け下りた。
僕は何と酷い男なのだろう? 悠理が好きなのは魅録だと分かっていながら、彼女を抱きしめるなんて、卑怯すぎて話にもならない。 開いたドアの向こうから、遠ざかる足音が聞こえる。 犯した罪は贖えないが、せめて謝ろう。悠理と向き合って、抱きしめた理由を話そう。
悠理が好きだから、我慢できずに抱きしめたのだと。
僕は遠ざかる足音を追って、部室を飛び出した。 廊下を抜け、階段を駆け下りる。部室がある棟と、悠理のクラスの教室がある棟は違う。頭の中で、悠理が駆け抜けるであろう経路をシュミレーションしながら、朝の校舎を駆け抜けた。
そして、角を曲がった瞬間。
魅録の腕の中で泣きじゃくる悠理を、見つけた。
廊下を走り抜け、階段を駆け下り、渡り廊下へとつづく角を曲がったとき。 あたいの目の前に、魅録が現われた。
「おっす!どうしたんだよ、お前がこんな早くにくるなんて、珍しいな。」 そこまで言って、魅録はようやくあたいの涙に気づいた。 「泣いているのか?どうした?腹でも痛いのか?」 見当違いもいいところだけど、優しい言葉を聞いたら、あたいの中で、何かがふっつりと切れた。 「・・・ふえ・・・」 泣きじゃくりながら、魅録に抱きつく。 胸に顔を埋めると、煙草の匂いがあたいを包んだ。
「マジでどうしたんだ?まだ開いていないかもしれないけど、保健室へ行くか?」 本心からあたいを心配してくれている、あったかい声が、頭上から降ってきた。
魅録は優しい。 魅録は楽しい。 魅録は、素のままのあたいを受け入れてくれる。
でも。 でも。 でも、 清四郎じゃなきゃ、 駄目なんだ。
「清四郎。」 魅録が言った。 あたいは、弾かれるように、後ろを、見た。
朝の低い光を浴びた清四郎が、人形のような顔で、そこに佇んでいた。
僕は、魅録に向かって、にっこりと微笑みかけた。 「おはようございます。」 魅録も、すぐに、おはよう、と返してくる。その胸に、悠理を抱きながら。 僕の視線が悠理にあるのに気づいたのか、魅録は、ああ、と声を上げた。 「ああ、悠理のヤツ、具合が悪いみてえなんだ。清四郎、ちょっくら見て・・・」 「違いますよ。実は、朝から僕が小言を並べ立てたから、拗ねているんです。魅録が慰めてくれたら、すぐにご機嫌も直りますから、あとはよろしくお願いします。」 そこまで話すと、すぐに踵を返して歩き出した。
大股に廊下を抜けているうちに、眩暈がするほど気分が悪くなった。
魅録の腕の中、僕を見て驚きに眼を見開いていた悠理の顔が、瞼の裏に焼きついている。僕の助けなどなくても、悠理の恋はすぐに成就するだろう。それが、僕にとって煉獄の日々のはじまりだとしても、耐えるしか道は残されていないのだ。
部室に戻り、猛烈な勢いで雑務をこなす。没頭すればするほど、悠理への想いを忘れられる気がした。
そして、朝のうちにある程度の仕事をこなした僕は、その日の放課後、部室には顔を出さなかった。
授業中も、清四郎の哀しげな顔が、頭から離れてくれず、結局、上の空で一日の授業を終えてしまった。
清四郎は、あたいのことなんか、何にも思っていないのに、何故か酷く悪いことをしたような気がして、お腹のあたりが気持ち悪くて仕方なかった。会うのには勇気が必要だったけど、清四郎に言い訳をしたくて、授業が終わるとすぐに部室へと向かった。なのに、清四郎は、いなかった。
「何でも外せない約束があるそうで、今日は早々に帰りましたの。」 野梨子が申しわけなさそうに言う。野梨子からそんなふうに言われると、余計に惨めな気分になる。―― 清四郎は、わたくしのものですから、わたくしが代わりに謝りますわ。野梨子がそんなふうに思っているはずはない。ないと分かっているのに、そう思ってしまうあたいは、きっと汚れてしまったんだ。恋をして汚れるなんて、あたいだけだろう。
でも、それでも。 清四郎のことが、好きなんだ。
落ち込んでいるあたいを見て、魅録が車雑誌から顔を上げて、声をかけてきた。 「ウサ晴らしに、今日は呑みに行こうぜ。」 あたいは、優しい申し出に、思い切り頷いた。
家で夕食を済ませたあと、僕は、クロゼットから滅多に袖を通さないジャケットを取り出した。それは、どこか夜の匂いがするデザインで、それを着ると、僕を五歳は年上に見せてくれる。
羽織らずに、手に持ったまま、家を出る。 そして、僕は夜の海へと漕ぎ出した。
地下のバーに入って、しばらくすると、二十代半ばの女性が声をかけてきた。 僕は年齢詐称が得意だ。瀟洒で、気の利いた会話を交わしながら、杯を重ねる。色めいた話題はなくとも、バーを出たあとにどうなるか、互いに理解しきっていた。
悠理への想いは、決して消えない。 だが、女の肌で、僅かでも忘れることはできる。
僕は、卑怯な男だ。 でも、卑怯にならなければ、明日から悠理と向き合うなど、できそうになかった。
そろそろ店を替えましょう、と、女が囁く。僕は意味深な微笑を浮かべ、スカートの上から、女の柔らかな肉を撫でた。
りん、とドアベルが鳴った。 僕の視線は、自然とドアに向いた。
バイク仲間と一緒にたらふく御飯を食べて、魅録とふたりで地下にあるバーのドアを押した。ここは、何となく看板に惹かれて入った、はじめての店だった。 階段から続く、ドアまでの雰囲気に、清四郎が気に入りそうな店だな、って、ちらりと思ったのは確かだ。
でも、まさか、本当に清四郎がいるなんて。
カウンターに座る、見慣れた後姿は、見慣れない服を着ていた。 隣には、やけに色っぽい女のひとがいた。
男に腰に回された手。女の太腿を撫でる手。 二人の間に漂う、男と女の雰囲気。
清四郎が振り返る。驚いたように、眼を見開く。 いつもと違う、大人びた服のせいか、あたいが知ってる清四郎とは別人のようだった。
あたいは、何も言わずに、さっき降りた階段を駆け上がった。
今朝、あたいを抱きしめた腕が、見知らぬ女に触れている。 それが、堪らなく哀しくて、発狂しそうなくらい苦しくて、涙が次々と溢れて止まらなかった。ネオンが滲んで、駆け抜ける景色がぼやける。人波にぶつかり、何度もよろめきながら、それでもあたいは走るのを止めなかった。
とにかく、清四郎から一ミリでも遠く離れていたかった。
呆然とする僕の目の前で、悠理はこちらに背中を向けて駆け出した。 「悠理・・・っ!!」 女の手を振り払い、店の入口へと駆ける。 しかし、店から一歩出たところで、立ち止まった。
「清四郎、お前、どうしてここに?」 魅録が隣から話しかける。しかし、僕には、彼の顔を見る気力すら残っていなかった。 「―― 酒を飲むためですよ。」 低く、くぐもった声で答える。 「酒を飲むだけにしちゃ、色っぽい姉さんがくっついてるじゃねえか。」 「単なるオプションです。」
そこで、ようやく首を捻じ曲げて隣を見た。恐ろしく、緩慢な動作で。 魅録は眉間に皺を寄せ、僕を観察している。 彼こそが、悠理が想いを寄せる男。頼もしくて、優しい、僕とは正反対の男。
「・・・デートの途中だったのでしょう?追わなくても、良いのですか?」 僕がそう尋ねると、魅録はポケットから煙草を取り出し、慣れた動作で一本咥えた。 「デート?そんなんじゃねえよ。お前こそ、悠理を追わなくていいのか?」 そして、愛用のジッポのライターで、煙草に火を点ける。 厭味なほどに決まった仕草を眺めながら、僕は、彼の問いに答えた。 「悠理を追う役目は、魅録のほうが適任ですよ。悠理だって、僕より魅録に追ってもらいたいでしょうし。」 僕の答を聞いて、魅録は、眉を顰めたまま、黙って階段の上を眺めた。
「・・・僕が追いかけても、悠理は喜びません・・・」
最後の言葉は、店内から溢れるジャズに掻き消された。
こんなに好きなのに、想いが届かない。 どうしてだろう?あたいは馬鹿だから、何故かなんて、分からない。 好きなだけで想いが通じるなら、どれだけ幸せだろう? そんなこと無理だと分かっていても、好きだという気持ちは止められない。
あたいは、泣きながら、夜の街を駆け抜けた。
いくら好きでも、他の男を想う君を追うことはできない。 僕の想いは、暴力的なまでに激しいから、きっと君を傷つける。 君を守るためにも、僕の想いは殺すべきなのだ。
薄暗い地下の店で、僕は絶望を抱いて地上を眺めていた。
片恋は巡り、擦れ違いを繰り返す。
それぞれの想いが出会うのは、いったいいつになるだろう?
それぞれが想いを胸に抱いたまま、夜は、無愛想に過ぎていく。
―――end
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まずは、お読みいただき有難うございます。
この話は、ハチ子がいつもお世話になっている某方に、少しだけでも恩返しすべく、その方のリクに答えて描いたものでございます。
「清→←悠・くっつかなくても可」というリクを忠実に守って描いたら、あらまあ何とも悲劇的なお話に(笑) まさかリクした某方も、こんな結末になるとは夢にも思っていなかったでしょう(爆)
そんな話も、巡り巡って麗さまのところに落ち着くことになりました。
麗さん・・・この話のせいで石を投げられたらゴメンね!
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たとえ石を投げられようとも、この話が欲しかった私。
こんな素敵なお話を埋もれさせておくのはもったいなさ過ぎますもん。それで某方にお願いしましたら、快くご了承をいただいてのアップです。ありがとう〜。
ハチ子の書く清四郎って、どうしてこんなにも色っぽいんだろう?
ツボ突きまくるお話を、ありがとう。また、よろしくね♪
Bee's Room
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