By
hachiさま
午後。 隣のクラスとの、体育の合同授業。 メニューは、バスケットボールの練習試合。 僕は、コートの上で、対抗チームの魅録が持つ、オレンジ色のボールを追っていた。
魅録の運動神経は抜群で、次々と立ちはだかるディフェンスを軽く避けながら、ぐんぐんとゴールに近づいていく。僕は敵チームの意表を突いて、コートの端からゴール下に回り込み、今まさにシュートを決めようとする魅録の前に飛び出した。 二人は、0・1秒の差でジャンプし、空中で絡み合った。 何とか僕を避けてシュートしようと、魅録が身を捻る。そうはさせるかと、僕も手を伸ばす。数秒にも満たない、短い攻防が、空中で繰り広げられる。観戦者の、わあっ、という歓声が、体育館の空気を震動させるのを聞きながら、僕はボールに手を伸ばした。
体育の合同授業は、あたいの密かな楽しみだ。 だって、清四郎のクラスと一緒に授業が受けられる、唯一の時間だから。
女子の試合、後半からあたいは外された。理由はひとつ。あたいが入っていると、試合にならないからだって。不満だけれど、まあ、仕方ないかな、とは思っている。だって、隣のクラスの女子は、そのほとんどが野梨子と同レベル。きゃあ、とか、いやあ、とか可愛い声上げて、皆、あたいを避けていく。 それでも、試合に出られるだけ、野梨子よりはマシなのかな?野梨子は、万年応援隊か、試合に出ても、積極的に前へ出ようとしないんだ。 その野梨子は、コートの反対側で、同じクラスの清四郎に声援を送っていた。 野梨子はいいな。清四郎と同じクラスだから、堂々と彼を応援できる。あたいは違うクラスだから、好きなひとにエールも送れない。だから、心の中だけで、清四郎を応援するしかない。 でも、それが同じクラスの皆に心苦しくて、コートの上で跳ねる魅録に、普通以上の声援を送っていた。 「魅録、振り切れ!!跳べ!!魅録!!」
「魅録、振り切れ!!跳べ!!魅録!!」 一際大きい歓声が、雑多な声の中から飛び出した。 悠理だ。 それが分かった瞬間、僅かに集中力が乱れた。 しまった、と思ったときには既に遅く、避けきれないほど間近に、魅録の肘があった。 魅録にそんな気はさらさらなかったろうが、喧嘩慣れした肘が、僕のくちびるにクリーンヒットした。がつん、という衝撃と共に、熱を伴った激痛が走る。 落下する寸前、魅録の驚いた顔が、視界の隅に入った。
「清四郎っ!!」 敵チームにも関わらず、あたいは思わず彼の名を叫んでいた。 スポーツ中の事故は当然だとはいえ、魅録の肘は、見事なまでに清四郎の口元に入った。両チームとも、あっ、と声を上げる。空中の二人は、もつれ合いながら、固いコートの上に落下した。 「清四郎っ!」 あたいは何も考えないままに飛び出した。ゴール下の二人は、折り重なるようにして倒れている。オレンジ色のボールが、とんとん、と弾みながら、二人から離れていく。でも、あたいの眼には、ボールなんか入っちゃいなかった。ただ、清四郎が心配で、心配で、胸がどきどき痛かった。
きゅ、とゴム底を鳴らしながら、いくつもの足音が近づいてきた。 「つっ・・・」 僕はくちびるを押さえながら、起き上がった。一緒に落下した魅録は、僕を庇って下敷きになっているが、顔を顰めながらも笑んでいる。 彼に謝罪しようとして、くちびるから生温かいものが溢れているのに気づいた。下にいる魅録の体操服に、赤い液体が滴る。どうやらくちびるを切ったらしい。すぐに魅録から離れて、自分の体操服を引っ張って傷口を押さえた。 「清四郎っ!!」 悠理が飛びつかんばかりの勢いで、僕に駆け寄ってきた。泣き出しそうに歪んだ顔は、僕を心配してか。勘違いしそうになる感情を、理性で押さえ込み、悠理から顔を逸らした。 「血ぃ出てるじゃんか!大丈夫か!?」 「かすり傷ですよ。僕は大丈夫だから、魅録の心配をしてあげてください。僕を庇って下敷きになったんです。」 「でも・・・」 短い遣り取りの間に、双方のクラスメイトが駆け寄ってきて、僕らを囲んでいた。次々と声を掛けられ、僕と、起き上がった魅録は、それぞれに、大丈夫だと何度も繰り返す羽目に陥った。 「清四郎!魅録!」 やや遅れて、野梨子が到着する。 「くちびるを切ったのですね。とにかく医務室へ参りましょう。」 野梨子が差し出したタオルで口を押さえ、僕は立ち上がった。魅録を振り返ると、彼は僕の視線の意味を察知したのか、俺は平気だ、と言って、肩を竦めて道化てみせた。 「巻き込んでしまって、済みませんでしたね。」 「謝る必要なんかねえよ。肘鉄を喰らわせたのは俺のほうだぜ。」 「謝り合うのは結構ですけど、まずは怪我の手当てが先ですわ。」 野梨子に急かされ、僕は体育館を後にした。最後に、ちらりと後ろを振り返ると、悠理が泣き出しそうな顔のまま、去り行く僕たちを見送っていた。 その姿が、とてもか弱く見えて、胸がずきりと痛んだ。
あたいには、差し出すタオルも、冷静に対処する能力もなかった。 だから、野梨子に付き添われて医務室へ行く清四郎を、黙って見送るしかなかった。 清四郎の背中に添えられた華奢な手が、瞼の裏に焼きついて離れない。そうあるのが当然とでも言うような、自然な光景。きっと、学園じゅうの誰もが、二人は隣り合っているのが当然だと思っているだろう。ううん、それどころか、二人が寄り添っていることが当然過ぎて、何の疑問も感じていないはずだ。
幼馴染で、美男美女で、ともに賢くて、理解し合っている。 あたいが入り込む隙間なんて、一ミリもない。
でも、それでも、諦めきれない。
清四郎のことが―― 清四郎が、好きで好きで、涙が出るくらい好きだから。
すぐ後ろで、きゅ、とシューズが鳴った。振り返ると、魅録が真後ろにいて、ちょっと驚いた。うわ、と小さな声を上げて仰け反ると、魅録は可笑しそうに咽喉の奥で笑った。 「そんなに心配なら、一緒についていけばいいだろ?」 「べ、別に心配なんかしてないもん!」 慌てて否定したけれど、無駄だったかもしれない。頬っぺたが熱いから、きっと赤面している。ぷい、とそっぽを向いて、足早にコートを出た。試合が再開されるらしく、あたいがコートを出た途端、背後でホイッスルが高らかに鳴った。 壁際に戻って、床に腰を下ろす。立てた膝の上に顔を埋めたのは、試合に興味がなくなったからじゃなく、赤くなった顔を隠すため。それに、清四郎が離脱した今、勝利はあたいのクラスのものになるって、分かっていたから。 試合がはじまってすぐ、クラスメイトの女子が、黄色い歓声を上げた。逆に、向こうのクラスからは残念そうな声が上がる。少しだけ顔を上げて、コートを見ると、ゴールの下で魅録がガッツポーズを決めていた。
結局、あたいはまったく応援しないまま、試合はうちのクラスの大勝利で終わった。
夕刻、部室に集まった面々は、くちびるを腫らした僕を見て、最初は驚き、次に珍しいこともあるものだと感心して、挙句は茶化して大笑いし、野梨子以外の誰も心配はしてくれなかった。 「まったく、何でも面白がるなんて、失敬ですよ。そこが貴方たちの短所だと気づいて、早いところ改善してください。」 傷口を気にしながら、あまり口を開かずに注意すると、可憐が、オカマみたい、と僕を指差して、けらけら笑った。 「皆、清四郎からは、怪我をするたび馬鹿にされてるからね。こういう機会を逃したら、二度と仕返しできないって思っているんだよ。」 面白がる美童を横目で睨む。すると、美童は慌てたように立ち上がり、デートの約束があるからと、そそくさと部室から出て行ってしまった。
美童が帰ったあとも、残る五人で下らぬ話を交わしていたが、しばらくして魅録が電話で男友達から誘われて出て行き、可憐もエステの予約時間が迫ってきたからという理由で帰っていった。 残されたのは、僕と、悠理と、野梨子の三人。何となく重苦しい空気が流れているのは、気のせいだろうか? 悠理が僕たちのほうを見ようとしないから、きっと、そのせいで空気が重いと感じているのだろう。 そう。僕の、単なる気のせいだ。
美童が帰って、魅録が帰って、可憐が帰って、部室に残されたのは、清四郎と野梨子と、あたいだけになった。 当然のように寄り添っている二人を見るのが辛くて、背中を向けて、窓から外を見る。窓の下から、煉瓦敷きの歩道が真っ直ぐ伸び、正門の向こう側には、お迎えの高級車が何台も並んでいた。他校の生徒や近隣の住人は、その光景を、学園名物、高級車の展示会だと噂しているらしかった。
「僕たちもそろそろ帰りますが、悠理はどうしますか?」
―― 僕たち。 当たり前の、何気ないひと言に、心臓が締めつけられる。
「今日は名輪が遅くなるらしいから、もう少しここにいる。」 あたいは二人に背中を向けたまま、早口で答えた。 のんびり話していたら、涙声になってしまいそうだったから。
「じゃあ、私たちは、お先に失礼いたしますわね。」 「部室を出るとき、鍵を掛けるのを忘れないでください。」 二人はそう言って、部屋から出て行った。 ドアが閉まる音を確かめてから、ようやく振り返る。ひとり残された部室は、やけにがらんとしていて、寂しさが余計に増してしまう。のろのろと歩いて、さっきまで清四郎が座っていた椅子の前で立ち止まる。背凭れに触れたら、まだ彼の温もりが残っているだろうけど、触れる勇気もない。 触れたら、自分が惨めになりそうで、弱い人間だと認めてしまいそうで、嫌だった。
ふと、椅子の下を見ると、体操服が落ちていた。
拾って広げてみると、あちこちに赤い滲みがある。そういえば、ここに入ってすぐ、可憐が清四郎のバッグを倒して中身をぶちまけていたっけ。体操服は、テーブルの下に入り込んでいたから、拾うときに気づかなかったんだろう。
誰もいない部室。見ているのは、夕陽だけ。
あたいは、血の痕を指で辿り、そっと呟いた。
「・・・この、オタンコナス。あたいは、お前のことが、好きなんだぞ。」
今日の僕は、どこかおかしいのだろう。 バスケの練習中に肘鉄を食らって怪我をし、滅多にしない忘れ物をするなんて。 校門の手前で、各部に割り当てる部費の明細を、キャビネットの上に置きっぱなしにしていることを思い出し、踵を返して部室へと向かった。 悠理に鍵を閉めるよう指示してきたが、彼女のことだから、忘れる可能性が大きい。万が一、他の生徒が侵入して明細書を持ち出したら一大事だ。
そんな表向きの理由の裏には、実は、邪まな想いが隠れていることに、気づかない振りをして、部室へと急ぐ。
部室には、悠理がひとりで残っている。
思えば、僕は、幼いときから悠理をひとりの女性として捉えていた。女扱いしてこなかったのは、それを認めるのが怖かったからに他ならない。彼女がひとりの女性だと認めてしまえば、胸の内に封じた想いが、一気に噴出してしまうと、分かっていたから。 しかし、やせ我慢にも限界が近づいていた。ふとした瞬間、悠理は驚くほどに少女らしい華やぎを放つ。そんな彼女を、他の誰にも見せたくなくて、自分のものにしたくて、堪らないのだ。
もしも、悠理が僕を受け入れてくれるなら―― そんな日は永遠にこないと分かっていながらも、淡い期待を胸に秘めて、部室へと急いだ。
ドアノブを掴んだ瞬間、部屋の中から、悠理の声が聞こえてきた。
「・・・この、オタンコナス。あたいは、お前のことが、好きなんだぞ。」
ドアを開いてはいけない。そう思ったのに、手はノブを回してドアを押していた。
悠理が弾かれたように振り返る。夕陽が満ちた部屋の中、彼女の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。その手には、男物の体操服が握られていた。
点々と血が付着していたから、それが誰のものか、すぐに分かった。
僕の視線に気づいたのか、悠理は慌てて体操服を背中に隠した。 「あ、あのっ、こ、これは、その・・・」 顔を真っ赤に染めて、必死に言い訳を探している姿は、いつもの野猿ではなく、可愛らしい少女そのものだった。 僕は、そんな彼女を見つめながら、心が急激に冷えていくのを感じていた。 「分かっていますよ。誰にも言いませんから、安心してください。」 大股で悠理の横を通り過ぎ、キャビネットの上の書類を取る。そして、悠理を見ないよう、書類に視線を落としたまま、言葉を続けた。
「それは、魅録の体操服でしょう?大丈夫です。貴女が魅録を好きなことくらい、とっくの昔に知っていましたから。」
―― 魅録の、体操服?
あたいは慌てて体操服を広げた。魅録は、ダサいから、と言って、ゼッケンも、名前の縫い取りも、綺麗に取ってしまっているから、ぱっと見ただけじゃ、誰のものかも分からないようになっていたはず。 あたいが持ってる体操服には、ゼッケンも、胸の刺繍も、ついていなかった。
瞬間、顔から、火を噴いた。
―― 間違えた。
赤くなって動揺するあたいを、清四郎は、冷たい眼で見下ろしている。 「悠理が拾ってくれて良かった。魅録は固辞したんですけどね、血液は普通に洗濯しても取れないから、僕のぶんと一緒にクリーニングに出すつもりだったんです。可憐もまさか僕が二着も体操服を持っているとは思わなかったでしょうから、バッグを落としたとき、一着しか拾わなかったんでしょう。」 視線と同じ、冷たい声。その冷たさに、あたいの心は縮こまる。弁解したくても、弁解できない。だって、清四郎の体操服と間違えたなんて、言えるはずがない。 す、と手が伸びて、あたいの手から、魅録の体操服を取る。 「しかし、体操服に告白するなど、悠理らしくないですね。魅録は良い奴ですから、悠理の気持ちもちゃんと受け止めてくれますよ。」 そこで、清四郎は、くすり、と笑った。 「ああ、僕に言われるまでもなく、魅録のことは、悠理が一番知っていますよね。」
心臓が、止まるかと思った。
「・・・何だか、馬鹿にされてる気がするぞ。」 あたいは俯いたまま、悪態を吐いた。 「こんなところで油売ってないで、早く帰れよ。野梨子が待ってるんだろ?可愛い彼女を待たせちゃ、可哀想だろ?」
言葉を吐くたびに、心が冷たくなっていく。 違う。違う。本当は、こんなことを言いたいんじゃない。
「彼女?何を馬鹿なことを言っているんですか?野梨子はただの幼馴染ですよ。」 清四郎の声が、一オクターブ低くなる。そして、溜息。 「・・・無為な言い争いは止めましょうか。」 そっぽを向いたあたいの後ろを、通り過ぎていく気配。
ごめん、清四郎。怒らせたいわけじゃないんだ。お願い、待って。 あたいが好きなのは、魅録じゃなくて、清四郎、お前なんだ。
心の中で、遠ざかっていく気配に向かって、必死に叫んだ。 もちろん、伝わるはずがないと、分かっていたけれど。
大人気ない態度で、悠理を困らせる自分が許せず、そのまま部室から出て行こうとした。
だが、できなかった。
ドアの手前で立ち止まり、そっと振り返る。 悠理は俯いたまま、痩せた肩を震わせていた。 その、弱々しい姿に、思わず駆け寄って抱きしめたいという衝動にかられる。僕は、魅録の体操服をぎゅっと握り締め、衝動を押さえ込んだ。
悠理の胸の中に住んでいるのは、僕ではない。 悠理を抱きしめる資格は、僕にはない。
「・・・悠理。」 「・・・何だよ?」 掠れた、小さな声に、いつもの溌剌とした響きはない。 「僕で良かったら、いつでも協力しますよ。」 心の咆哮を押さえ込み、優しい声で語りかける。 「貴女の恋が魅録に届くよう、協力させてください。」 数秒の、間。 「・・・お前みたいな鈍感男に協力なんか、してもらいたく、ないやい。」 そこまで言うと、悠理は勢いよく顔を上げた。 いかにも作りましたといわんばかりの、満面の笑みがこちらを向く。 「野梨子が待ってるんだろ?ほら、早く帰りなって!」
半ば追い出されるようにして、僕は部室を後にした。 抱きしめたくても、抱きしめられない、苦しさ。 その苦しさを胸に抱いたまま、僕はのろのろと歩き出した。
橙色の夕陽に満ちた廊下が、まるで万里の道程のように、長く感じた。
迎えの車に乗り込むと、あたいはすぐに名輪に命じて、運転席と後部座席の間を遮断させた。そして、ひとりきりになって、ようやく泣くことができた。 「・・・うっ、ひっく・・・ふっ・・・」 咽喉から込み上げる嗚咽を殺し、シートに突っ伏して、思う存分に泣いた。
こんなに好きなのに。 心が張り裂けそうなくらい、好きなのに。
あたいの想いは、清四郎まで、届かない。
いっそ、身体じゅうの水分すべてが涙となって流れ出てしまえば、死んで楽になれるのに。心の痛みで死ねれば、もう、苦しまなくて済むのに。
家に到着しても、涙は溢れっぱなしだった。 名輪は何も言わず、屋敷の周囲をぐるぐる回って、あたいが泣き止むまでずっと車を走らせてくれていた。
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Bee's Room
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